8
右も左もわからない、田舎育ちの十六歳の娘にとって、宮廷は優しい場所ではなかった。
廊下を歩く位置、人に話しかける順番、催しや時間ごとに決められているドレスの色形。宮廷にはすべてに事細かな習慣があり、何も知らないベルミカが失敗をする度に、周囲の貴族たちからくすくすと嘲笑がさざめいた。
宮廷女官たちの態度も酷いものだった。
女官たちはもともと、身元確かな富豪や地方有力者の娘だ。生家ではかしずかれる身分である彼女たちは、本来労働に従事する必要はない。それでも女官を目指すのは、結婚前に箔をつけるためだ。そうして意気揚々と宮廷に来てみれば、待っていたのは貴族たちに顎で使われ見下される立場だ。
日頃から不満を抱える彼女たちの前に現れたのが、女王とは名ばかりの威厳の欠片もない、おどおどと周囲をうかがう卑屈な娘。その鬱憤が向かうのは当然だった。
最初のいやがらせは必要な連絡を伝えないことや、身支度の時間に遅れてくるなど、些細なことから始まった。そしてベルミカに助けを求める当てがないと知ると、扱いはもっとひどくなった。
髪結いの時に首を痛めるほど髪を引っ張られたり、わざと肌に巻きごてを当てられたこともあった。清浄と称して、数人がかりで無理やり押さえつけ、頭から風呂に沈められたこともあった。コルセットを必要以上にきつく締められ、あまりの苦しさに耐え切れず嘔吐すれば、汚らしいと顔をしかめられた。
耐え切れず女官長や侍従に訴えても改善はしなかった。そればかりか告げ口を知った女官たちは、数日食事を運んでくれなくなった。
外廷では貴族たちに蔑まれ、内廷では女官にいびられる日々に、自分の一挙一動が恐ろしくなり、やがて呼吸一つすることすら苦しくなった。
心身共に限界に達したベルミカが倒れると、ようやくその境遇に同情した一部の貴族たちが、女王専属の侍女として自分たちの妻や娘を遣わせてくれた。
侍女たちは女官たちの振る舞いに憤り、彼女たちを追い出してくれた。
「これからはわたくしたちが、女王陛下をお守りします」と、優しい笑顔を向けられたとき、ようやく辛い日々が終わると、安堵のあまり涙した。
「私の助けになってくれた人たちが、あなたの政策に反対していたのは知っているわ。だとしても、もっと平和的なやり方はあったはずよ。あなたにとっては目障りでも、私にとっては辛い日々から救い出してくれた大切な恩人だった。だって一人は本当に怖かったのよ……」
言いながら、ベルミカは頬に伝わる涙を感じていた。思い出すたびに、あの心を蝕む恐怖に囚われ、震えが止まらなくなる。誰でもいいから、すがりつきたくなるほどに。
「宰相になってからだってそうよ。今日までずっと、何も言わなかったじゃない……!」
「それには二つの理由があります。一つは私のくだらぬ虚栄心です。就任当時の私に、陛下は見向きもしなかった。どうせほんの一時の友達など覚えてもいないと思っていました。……名乗り出たところで、必要ともされないだろうと。拒絶されるのが恐ろしかったのです」
ベルミカはゼノスの就任当初を思い出す。
侍女たちは新しい宰相の噂に警戒していた。「あの女官たちのような不忠義者が、また陛下の側に侍ると思うと恐ろしくてなりません」と表情を曇らせた。当時の恐怖を思い出したベルミカは、忠告に従った。
「侍女に『最初が肝心で、新参者に手綱を取らせてはなりません』と言われたのよ。言い訳するつもりはないけれど、それであなたにわざと冷たい態度を取ってしまったの。……あれは私も悪いことをしたわ」
「なるほど、まさに彼らのやり口だ」
ベルミカの話に、ゼノスは口惜しそうに歯噛みする。
「もう一つは、もし陛下が不安から、ただそこにいるという理由だけで私を寄る辺にするなら、私はあなたを壊した連中となんら変わらなくなる。……それが理由です」
涙で潤む目のまま、きょとんとするベルミカにゼノスは苦笑する。
「陛下に求められれば、どんなに歪んだ理由であろうと、私は応じてしまうということです。……囲い込んで、生涯手元から離れられないように。要は私に自制する自信がなかったという話ですよ」
やはり意味はわからなかったが、何かとても気恥ずかしいことを言われたような気がした。頬に集まる熱に、思わずベルミカは顔を背ける。
「でも今日やっと決心がつきました。内容は――……ともかくとして、あなたは悪辣宰相を面と向かって怒鳴りつけました。言葉の暴力に怯え、打ちひしがれるだけの存在ではなくなった。これでようやく対等の関係を築けると思いました」
ベルミカは恐る恐るつぶやく。
「ハイレル宰相……? それではあなた、私に恋をしているみたいな言い方よ」
「みたいではなく、事実そうなのですが」
「意味が分からない!」
ゼノスはなぜか嬉しそうに破願する。
「ついでに言うなら、今日これから陛下を口説こうかと思っているのですが……。おおかたの状況説明は終わったので、始めても?」
「知らないわよ!」
慌てふためくベルミカを、ゼノスは至極楽しそうに見つめている。予想もしていなかった展開に、くらくらしてきた。
からかって遊んでいるだけなのではと思う反面、愛おしそうに自分を見つめる、熱を帯びた眼差しが、この状況を冗談にしてくれそうになかった。
「……べ、別に私じゃなくても、宰相ならいくらでもいい人がいるでしょう」
「いませんよ。かつて自信も矜持も失いかけた私を、奮い立たせてくれた少女が、素晴らしい女性に成長してここにいるのです。他の人など目に入りません」
「まさかあなたが今まで独身だったのって……」
ゼノスはベルミカよりも十二も年上だ。王位継承権を持つ者として、結婚への圧力は自分といい勝負だったはず。それでも彼は職務に専念したいからと、見合いを断り続けていると噂で聞いたことがある。
自分だって名家の当主なのに未婚じゃないと、ベルミカは心の中で密かに反発していた。
「恋にしろ忠義にしろ、すでに心を捧げた女性がいるのに、他の女性を娶るのは不誠実でしょう」
ベルミカはうろんげにゼノスを見る。
名門ハイレル家の血がここで断絶するのは、女王の立場としてもいささか困る。暗に彼を選ばなければ、一生独身を貫くと脅されているような気がした。