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かつてベルミカは母と共に、ダグラートという町の修道院で暮らしていた。
戦時中、修道院は士官専用の療養所となっていた時期があった。修道女たちや母も、戦場で傷を負った士官たちの手当てや身の回りの世話に明け暮れていた。
さすがに、まだ十歳の自分に課せられた仕事はなかったが、それでも休みなく働く母たちを尻目に、遊んでいることはできなかった。ベルミカも自然と患者の食事やお茶を運び、薬や包帯を持って修道女の後を付いて回るようになった。
貴族出身者が多い士官は、下級兵士に比べると格段に待遇がいい。士官の中には怪我が治っても、何かと理由を付けて安全な療養所に留まる者も少なくなかった。一兵卒なら傷がふさがらぬ内に、戦場に連れ戻されることもあったのだから、その扱いは天と地ほどの差がある。
ベルミカも時に暇を持て余した士官の話し相手になったり、カードゲームに付き合ったりもした。
そんな最中に出会ったのが、周囲から『リオル中尉』と呼ばれる若い士官だった。金色とは変わった名前だと思っていたが、彼の瞳の色からついたあだ名だったのだろう。
戦時中は士官学校を出た時点で准尉、問題がなければ一年で少尉、さらに二、三年もすれば中尉になれたので、あの時の彼は二十二、三くらいだったはずだ。
背が高く、容姿端麗な青年士官はとにかく目立っていた。彼の存在に若い修道女たちが浮足立って仕事にならないと、修道院長が頭を抱える始末だった。
ベルミカも入院当初から、リオルの顔と呼び名だけは知っていた。初めて会話をしたのは、修道院の人気のない裏庭でのことだった。
彼は木の幹に伏せるように、静かに声を押し殺して泣いていいた。まだ真新しい血のにじむ包帯を腹に巻き、上着を肩にかけただけの彼は、どう見ても外出許可が出る状態には見えなかった。
痛みに泣き叫ぶ患者は見たことがあるが、大の男が小さな子供のように、隅でこっそり泣く姿は初めてだったので驚いた。
「どうしたの? 先生を呼んできましょうか?」
少女に泣いている姿を見られたことにバツが悪かったのか、彼は不機嫌そうに顔を逸らして言った。
「……なんでもないよ。構わないでくれ」
「でもとっても痛そうだわ」
「この程度……彼らの苦しみに比べれば何でもない」
唇を噛み締めながら、うめくように彼は言った。
「情けない……。自分より年下の少年たちが、今この瞬間も前線で戦っているというのに、私は無様に傷を負い……こんなところで何をしているんだか」
「別に情けなくなんてないわ」
世間知らずの少女に、知った口を叩かれたのが癇に障ったのか、もともと激高しやすい性格なのか、青年は大人げなく食って掛かった。
「君に何がわかる? 私はたくさんの敵をこの手で殺してきたんだぞ! その中には、君と二、三しか年の変わらぬ少年もいた。味方を死地に追いやったこともあった。……なのにその責任者である私が、これしきの傷で意識を失い戦線から退くなど、情けないにもほどがある。私は君たちから、甲斐甲斐しく世話をされる資格などないんだ」
「でも中尉さんは、たくさんの人の命を守ったじゃない」
「……なぜそう思う?」
「だって大怪我をしてるもの!」
リオルがはっとしたように、金色の瞳を見開く。
「傷は自分や、大切な人の命を守り抜いた証なの。だから尊いのよ。修道女様たちが教えてくれたわ」
それは一生癒えることのない傷跡を持つ少女への、修道女たちの優しい慰めの言葉だった。ただの受け売りだったが、たまたま何かが彼の琴線に触れたのだろう。
リオルは拙い子供の言葉に、みるみる内に金色の瞳を潤ませて、声を押し殺してまた泣いた。
今思えば、あの頃のリオルは相当難しい立場にあったはずだ。高貴な身分でありながら、敵国の血を引いているのだ。嫉妬と同時に憎悪の対象でもある。彼を見る周囲の目は厳しかっただろう。
そして国への忠誠を示すために、リオルは危険な立場を自ら選び、母の祖国の人々を殺さなくてはならなかった。その責任と罪悪感に心を押し潰され、無力な自分を許せず、ただ一人きり泣いていたのだと想像できた。
それからベルミカとリオルはよく会話をするようになった。あまり人に話してはいけないと言われた生家の話や、自分の傷跡のことも彼には話した。リオルは何も言わず静かにベルミカに話を促し、聞くだけだった。
リオルはハイレル家の子息なのだから、同じ王家の分家であるセベク家に一人娘がいたことは知っていただろう。きっと、その娘が辺境で隠れ暮らしていたことに驚きつつ、あえて知らぬ振りをしてくれたのだ。
そして数か月後、傷が癒えた彼は戦地へと戻ることになった。別れを寂しがるベルミカに、リオルは言った。
「私はこの国を守りたいんだ。君のように懸命に今を生きる人のために。別れは寂しいけど、平和になったらまた会おう」
「また、おしゃべりしたり遊んでくれる?」
「いいよ。カードでもチェスでも、飽きるくらいたくさん遊ぼう」
そうして、二人は固く握手をして別れた。
結局ささやかな約束は果たされなかった。
戦争が激化し、国境からほど近いダグラートにも危険が迫っていた。療養所は解散となり、ベルミカは修道女たちと共に終戦まで国中の修道院を転々と移動した。
リオルとはそれきり再会することはなかった――と、ベルミカは今まで思い込んでいた。