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物言いはどうかと思うが、彼は間違ったことは言っていない。
誰かが過酷な労働に汗水流す間、あるいは戦場で血を流す間、ベルミカが清潔な場所で絹や宝石で身を飾れるのは、誰にも代わることの出来ない重責を担っているからだ。
もう意地を張ってる場合ではない。潮時なのは理解していた。
「……別に破れかぶれで、あなたをここに呼びつけたわけではないのよ。あなたならどんな物を見たとしても、忠実に自分の責務をこなすでしょう?」
「それはどういう意味ですか?」
「だって、ほら……殿方は興が削がれると事が成せないじゃない」
我ながら、酒の力がなければできない発言に、思わず苦笑がこぼれる。
「程度にもよりますが、恐らく陛下が思うほど、大概の男はそこまで繊細ではないかと。……そもそも、何を目にするというのですか?」
ベルミカは短く笑うと、半ば投げやりな態度で額にかかる髪を除ける。これで彼が忌避感を露わにすれば、いっそ諦めもつく。
「これよ! この怪我の跡……女としては致命的な傷でしょう!?」
「……暗くてよくわかりませんな」
「ええ!?」
目をすがめ、角度を変えて確認しようと、身を乗り出すゼノスにベルミカは慌てる。
「な、なにもそこまで……」
「ああ、言われてみれば確かに。……それで、これが何だというのです」
「な、何って……だって、もう元には戻らない傷なのよ! 気持ち悪いでしょう!?」
「怪我など戦場で見慣れております。私は何とも思いません」
「これだけじゃないわ、体にだって似たような傷がいくつもあるし!」
ベルミカの必至な物言いに、ゼノスは眉根を寄せる。
「……女性の美意識についてはわかりかねますが、髪やドレスで隠れるなら、それほどお悩みになることではないのでは?」
「だから寝所ではそうはいかないでしょう!? それにどんなに隠れていたって、傷がある事実だけで私には価値がないの!?」
言っていて妙な気分になる。なぜこんなにも自らが無価値であることを、必死に力説しているのだろう。
ふいにゼノスの眼光が鋭くなった。
「誰がそんなことを言ったのです?」
「……え?」
「誰かがあなたにそう告げたから、その言葉を信じているのでは?」
「だって前の――あなたが追い出した、私の侍女たちが教えてくれたわ。傷物の女は女王であろうと価値はないと。だからこんな私でも夫となってくれる殿方がいたら、その方に誠心誠意尽くさなければ……ならないって……」
ベルミカの語尾が震える。
明らかに目の前の男が、全身から沸き立つような怒りをたたえていたからだ。
他人に指摘されなければ、そんなことも気づかないほど無能だったのかと、幻滅されたのだろうか。彼に出来の悪さを呆れられるのは、今に始まったことではないが。
それでも、少しゼノスとの距離が縮まったような気がした矢先にこれなので、さすがに胸が痛くなる。
ゼノスがうつむき目元を押さえる。怒りを堪えるように、深く長く嘆息した。
「……そうか。そうやって彼らは、あなたを壊したのか――」
「どういう意味?」と聞き返そうとしたが、それは言葉にならなかった。唐突にゼノスが自身の上着のボタンに手をかけたからだ。
邪魔だったのか、わずらわしそうに手袋の端を噛んで乱暴に引き抜く。あっという間に上着を脱ぎ捨て、タイをほどき、シャツにまで手を掛ける。
「ちょ、ちょっと……!」
さすがにこれはいくらなんでも早急すぎる。乱心したとしか思えない行動に、おもわず顔を逸らす。
しかしいつもと同じ、淡々とした声で呼ばれた。
「陛下、これを見てください」
「み、見てって……そんな……」
恐々と視線をやれば、ゼノスの上半身はシャツのボタンを外し、羽織っただけの状態だった。
薄明りの中、はっきりと隆起した胸板や割れた腹が浮かび上がる。その体もやはり彫刻の様に美しかった。軍役から離れて何年も経つとは思えないほど、鍛え上げられている。
ベルミカは真っ赤になって、すぐに顔を逸らす。
恥ずかしさと同時に、その完璧さに圧倒されていた。傷物の醜い自分との落差に泣きたくなる。我ながらよくこんな男を相手に、夜伽の相手をしろなどと命じられたものだ。
「どうです、これも醜いと思います?」
「え?」
問われた、ベルミカはもう一度ゼノスの体に視線を向ける。
「切り付けられたことも、砲弾の破片を受けたこともあります。炎の中を馬で突破したことも」
よく見れば、ゼノスの体には無数の傷がついていた。さらにシャツの裾をまくって見せられたわき腹には、はっきりと火傷の引きつれた痕が残っていた。
「どうです? 陛下の目から見て、私は醜いですか?」
「そんなことあるわけないでしょう!」
ベルミカは怒りにも似た激情にかられ、思わず叫ぶ。
「だってそれはたくさんの人の命を守るために、自分が生きるために戦った証でしょう!? 醜いはずはないじゃない!」
激高するベルミカとは対照的に、ゼノスがどこか安堵したように表情を緩めて笑った。そんな優しい顔もできるのかと、ベルミカはぽかんとする。
「……そうです。これは生きるために足掻いた証です。――あなたも同じだ」
「それは違うわ。この傷はそんな立派なものではないのよ」
「同じですよ。本来庇護してくれるはずの父親から、理不尽な暴力を受け続け、それでもあなたは生き抜いた。他者を尊重し思いやる、その魂の根底にある気高さまでは汚させはしなかった。――今も昔も。それがどれほど尊いことかわかりますか?」
思いがけない言葉にかけられベルミカは困惑する。
尊い身分、尊い血筋。そんな言葉なら嫌というほど聞かされたが、魂を尊いなどと表現されたのは初めてだった。
そしてはっとする。
(……どうして、この傷を付けたのが父だと知っているの?)
「ハイレル宰相……あなた」
「お許しください。……こんなことになっていたなど、思いもしなかったのです」
普段の居丈高な態度が嘘のような弱々しい声。ベルミカは驚愕する。自分よりも遥かに大人で、立派な男が泣き出しそうな顔をしていた。
その瞬間、唐突な既視感に囚われる。
ぼんやりした記憶が奥底から込み上げ、やがて目の前の光景と像を結ぶ。ベルミカはあふれ出す記憶の奔流に愕然とする。自分はこの男を知っている――宮廷に足を踏み入れるより、ずっと前から。
「……思い出した。あなたダグラートで泣いていた――『リオル中尉』……」
「……できることなら、そこは思い出してほしくなかったのですが」
ゼノスは泣き笑いのような表情で言った。