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 ふと仰ぎ見れば、秋空の中を小窓から白い鳥の群れがばたいていく姿が見えた。


 今日を祝うために宮殿から放たれた白鳩だろう。ヴィレシア王国にとって戦後初めての慶事、それも君主の結婚式だ。華美な物を苦手とする女王の意志が尊重されたため、衣装も会場の装飾も歴代の王族に比べれば慎ましくはあるが、関わる人々の思い入れは決して劣らぬはずだ。


 危惧されていた天気は、三日三晩続いていた雨が上がり、今朝は嘘のように爽やかな青空が広がっていた。大聖堂の内外を彩る、色とりどりのダリアと百合がよく映えることだろう。




 聖堂の一画にある小部屋で、ただ一人椅子に座ったベルミカは己のドレスに視線を落とす。輝くような白地に、淡く繊細な金色で刺繍された花もまたダリアと百合だ。古い時代に分かたれた王家の支流である二つの家が、今日再び一つになることを意味していた。


 妖精の羽根のような薄布が幾重にも重なったトレーンは、軽やかな見た目に反して、一度座ってしまえば一人で立ち上がるのに苦労するほど重い。そうでなければ、身の置き場のない焦燥感に耐えられず、部屋のあちこちを動き回っていただろう。


(よりにもよって、この時期になんて……)


 ようやく待ちに待った日を迎えたというのに、ベルミカの気持ちは沈んでいた。緊張しているのは間違いないが、それとは別の懸念があった。


 実はここ二、三週間前からどうも体調に違和感があった。それは何かに集中している時には忘れてしまう程度のものだが、その頻度は日に日に増してくる。


 侍医に相談すべきだとわかっていたが、ベルミカの想像が本物であれば状況は一転する。さすがにこの結婚式が延期になることはないだろうが、その工程は大幅に削られるだろう。身近な人から顔も知らぬ人々まで、大勢の人間が今日のために尽力してくれている。水を差すようなことは言えなかった。


 後でゼノスや侍女頭に怒られるのは……よくはないが、慣れたことなので覚悟はできている。体調も騒ぎ立てるほど悪くはないし、多少重たい衣装を身に付けているとはいえ、実際に立って歩く時間は長くない。そう危険はないだろう。問題は望んでいると口では言っておきながら、いざとなれば足をすくませる自分の覚悟の無さだ。




 思えば幼い頃からそうだった。理不尽な状況に困惑しながらも、どうにか現実を受け入れ、腹を据えてこの人生を生きて行こうと心を決めた瞬間、また想像もしない場所に引きずり出され、別の生き方を強要される。


 そしてようやく女王として自分のすべきことを見定め、進んでいけると思った矢先にこれだ。ゼノスと()()()、戦争というものが過去の遺物となる世界を造り、次代へ繋げていくと誓ったばかりなのに。


 もし想像が当たっていれば、人々から求められるベルミカの役割はまた変わってくる。ゼノスはどうだろう。あえて無能な自分を女王として盛り立てる意義はなくなるかもしれない。暗い想像にまた胸が苦しくなった。




 ふいにドアが叩かれ返事をすると、顔を出した侍女が来訪者があることを告げた。ベルミカが承諾すると、現れたのは灰色の質素なドレスをまとった、小柄でほっそりとした貴婦人だった。


 その姿に思わず言葉を失う。若い頃の気苦労のせいなのだろう、まだ四十代だというのに髪はすっかり白くなってしまったが、その顔は公爵邸で暮らしていた頃よりも健康そうに見えた。


「お久しぶりにございます、女王陛下。この良き日を迎えられましたことを寿ぎ申し上げます」


「お母様……」


 ベルミカの生母、セベク公爵夫人アローネは実の娘でありながら君主であるベルミカに完璧な礼をもって挨拶をした。


 四年前、宮廷の使者から突然即位を告げられたあの日、母とはろくに会話をする間もなく引き離されてしまった。半年近く前ようやく再会が叶ったが、ゆっくり会話する時間はほとんどなかった。母に伝えたいことはたくさんあったはずなのに、胸が詰まり何も言えなくなってしまった。




 すでに化粧は施され、式典が終わるまで決して涙を零さないようにと侍女頭に言い含められている。『きっと緊張で感極まるような余裕はないと思うわ』と笑い飛ばしたが、この状況を予期していたのかもしれない。


「来て、くれたのね……やっと――」


「ええ。ベルミカ」


「お母様……お母様……――」


 ベルミカは重量のあるドレスによろめきながら立ち上がる。女王の顔をあっさりと脱ぎ捨て、子供のようにすがりついてきた娘に、母は「あらあら、どうしたの?」と苦笑を浮かべる。不遇な境遇にあってもいつも変わらぬ、あの頃と同じ穏やかな笑みだった。






 ※※※※※※※※※※






「まあ……それは驚いたわ」


 母との再会に緊張感がほぐれたせいか、気が付けば胸に巣食う感情を吐露していた。


「自分でもわからないの。なんでこんなに不安になるのか……」


「すぐに宰相閣下に話しなさい」


「え?」


 ベルミカは目の前の母をまじまじと見つめる。母とはいえ、この人がはっきりと娘に意見することなどほとんどなかった。


「でも、他の誰よりもあの人に伝えるのが一番怖いの」


「だからこそ言うべきよ。その不安も含めてね」




 アローネは振り返り、ドアの向こうへと声をかける。


「――サフィア、マリエナ。こちらへいらっしゃい」


「はい、奥様」

 

 現れたのは十代半ばに見える二人の少女だった。先に入って来た背の高い少女は礼儀正しく顔を軽く伏せているが、後ろに控えた小柄な少女は興味を堪え切れなかったようで、ちらりと視線を上げる。その一瞬ハシバミ色の大きな瞳と目が合い、ベルミカははっと息を飲む。


「宰相閣下をこちらにお呼びして。緊急の用事よ」


「かしこまりました」


 礼儀正しくお辞儀をして去って行く少女たちを見送り、ベルミカは母に尋ねる。


「今のたちはもしかして、ミラリスの……?」


「ええ、あなたに頼まれた姉妹よ。よくやってくれているわ」


 亡くなったミラリスの妹たちをどこへ預けようかと考えた時、まっさきに思い浮かんだのは母アローネだった。少女たちには教養と作法を学びつつ、同時に自分の力で生きていけるようになって欲しかった。ずっと他人の意志に振り回され、無力を味わったミラリスなら、妹たちには力強く生きてほしいと望むはずだ。


 貴婦人としての教養に富み、修道院で少女たちの教育に携わる母なら、きっとその思いに応えてくれるだろうと思ったのだ。




「ありがとう、お母様」


「いいのよ。それにわたくしもうれしいの。あなたにしてあげたかったけど、できなかったことがたくさんあるの。そんなわたくしが今度こそ若いお嬢さんのために役に立てるのなら、この上ない喜びよ」


「お母様……」


 母が自分に負い目を抱いていることは察している。本音を言えば、あの苦しかった時期に母が傍にいてくれたらと何度も思った。同時にあの当時は、母を呼び寄せることを周囲が許すはずもないし、無理やり呼び寄せれば、せっかく平穏な日々を得た母をまた苦しめることになっただろう。


 結局母には娘が苦難にある時に何もできなかったという、自責の念を与えてしまった。しかし母はその悔恨を糧に、今度は未来ある少女たちを導こうと前を向いている。それがわかり、ベルミカの胸のつかえも少し軽くなった。




「ねえ、ベルミカ。きちんと夫君になる方には自分の考えを伝えなさい。わたくしは長いことそれができなかったけど、最後の最後には言ってやったわ」


「それってお父様に?」


 ベルミカは目を丸くする。自分と母にとって、父である先代セベク公爵は恐怖と暴力で自分たちを支配する、絶対的な存在だったはずだ。


「そうよ。『わたくしたちの人生に、もはやあなたは不要です!』って。……あの人、わたくしが逆らうなんて想像もしていなかったのね。顔を真っ青にして、棒立ちになっていたわ。ちょっと言い返されたくらいで、そうなる程度の弱い人なんだって、あの時初めて知ったのよ。もっと早くそうしていれば、あなたにいらぬ苦労をさせなかったかもしれないのにね」


「そんなことがあったのね……知らなかった」


 母のことは優しいが弱い人だと思っていた。ベルミカと同様、父からの罵言と暴力に怯えることしかできないと。しかし考えてみれば、それまでの貴族女性としての生活をあっさりと捨て、新たな人生を成し遂げることが気弱なだけの人間にできるはずもなかった。


 そして最後の最後で、母は暴君も同然だった父をやり込めたのだ。あの外聞を気にする父から、仮にも跡取りである娘を連れ出し、よく隠れ続けることができたものだとは思っていたが。母娘を探す気力も無くすほど、打ち負かしていたのだ。


「すごい……すごいわ、お母様」


 ベルミカは痛快さを堪え切れず、声を立てて笑う。




「相手を心配させまいとする思いやりも大切だけど、同じくらい本音を伝えることも大切よ。これから長い時を共にするのだもの。取り繕っていても、いつかは破綻するわ。大切な人が自分の見えない所で苦しんでいたと、後で知ることはとても悲しいことよ」


「ええ、その通りだわ……」


 この母の言葉だからこそ重みがあった。ゼノスにはすでに謝罪を受けている。ベルミカが不遇な立場にあるのを長く見過ごしてきたことを彼もまた悔いていた。同じ苦しみを、また味わわせてしまうところだった。


「本当にありがとう、お母様。ちゃんとゼノスと話をするわ」


 母は穏やかに微笑むと、両手を広げベルミカを招き入れるように抱きしめた。


「おめでとう、ベルミカ。幸せになってね」


「うん……」


 幼い頃、悲しいことや辛いことを癒してくれた温もりと香りは、あの頃と変わりなかった。……いつかこの母のように誰かへ“与えられる”存在になれたのなら――。胸の中に、不思議と今までになかった感情がにじみ始めていた。










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