18
侍女たちを下がらせ、寝室に一人残されたベルミカは寝台に座っていた。サイドテーブルに置かれた燭台の明かりをまんじりともせずに眺め続ける。どのくらいの時間が経ったか、まっすぐに立ち上る炎がふいに揺らいだ。
「――失礼いたします」
続きの間から現れたのはゼノスだった。
「……先ほどミラリスが息を引き取りました」
「そう……」
素人目でも致命傷なのは明らかだった。覚悟はできていたが、それでも落胆を堪え切れずベルミカは顔を覆ってうつむく。
ミラリスは貴族の娘として生まれ、多くの令嬢たちがそうであるように、自分で人生を決める力はなかった。女王を政から遠ざけ、陰謀に加担していたことは事実だが、それが彼女の本心だったのかはわからない。罪悪感はあったとしても、彼女の立場では父親たちの意向には逆らえなかったはずだ。そして侍女を解任されてからはラザロに利用され、自らの意志はなく、ただ他人に翻弄され続ける人生だった。
(あの子はもう一人の私だったのかもしれない……)
ベルミカにもミラリスにも、己の人生を取り戻す力はなかった。自分には幸運にもゼノスがいてくれたが、ミラリスの傍にはそういう人間はいなかった。自分とミラリスの違いはただそれだけ、紙一重の差でしかなかったのではと思う。
「女王陛下」
傍らに寄って来たゼノスが、ベルミカの前で膝を突く。
「逆賊であったミラリスから、命を賭するほどの忠義心を引き出したのは、間違いなく陛下の言葉です。女王として立派なお振る舞いでした」
「では、あの子を殺したのは私のようなものね」
ベルミカは顔を上げると皮肉っぽく笑った。ゼノスは表情を変えることなく、静かに語る。
「私はある意味、あの娘をうらやましく思います」
「どういうこと?」
「私はさんざん人道から外れた行為に手を染めてきました。もとより寝台で安らかに死ねるとは思っていません。ですがせめて、『己の信念のために命を使い果たした』と思える最後でありたいとは願っております」
「……ミラリスは最後の瞬間、自分を取り戻せたかしら?」
「そう思います」
心のどこかで自分もあのラザロのように、耳障りのいい言葉でミラリスを都合よく操作しただけなのでは、という疑念があった。ただ少なくともミラリスは、ベルミカの膝の上で穏やかな表情を浮かべていた。まがい物の安息だったとしても、絶望と憎しみに囚われた彼女を処刑場に送るよりはましだった――そう思うしかなかった。
ベルミカは少し考えてから問う。
「そういえばあなた、よくあの時竜火砲を放さず意識を保てたわね?」
「武器と意識は死ぬまで手放すなと、戦場で叩き込まれました。ラザロは魔術師ほどの才能がない私なら、自身の魔術で無力化できると侮っていたのでしょう。幸い私は耐性にはそこそこ恵まれていたようです。……ミラリスもそういう体質だったのかもしれません」
魔力やその制御能力などと違い、魔術の影響を受けやすいか否かという耐性については、明確な判定方法というものがない。魔術師としての才能が一切なくても、耐性だけは高いという人間もいる。あの時、誰よりも俊敏に動けたミラリスは自身も知らぬだけで、そういう体質だったのだろう。――もしくは、才能を超える強い意志が彼女の体を動かしたのかもしれない。
「ねえ、ゼノス。だったらミラリスが私をかばわなくても、あなたがラザロを止める方が早かったんじゃないかしら?」
先ほどの自信に満ちた表情を引き締め、ゼノスは生真面目に言う。
「いいえ。うかつにもラザロの攻撃で、竜火砲の起動は一度解除されてしまいました。ミラリスがいなければ、私は陛下を失っていたと思います」
「そう……ありがとう、ゼノス」
ゼノスが後れを取るとは思えなかった。それでもベルミカの心情を気遣い、ミラリスの名誉を重んじる言葉を素直に受け取ることにした。
「それからミラリスの妹たちのことだけど……」
「今回のような場合、遺族には宮廷からまとまった慰安金を渡すのが通例です。……が、両親も成人した姉も亡くしている以上、身元確かな後見人の選定が先決かと思います」
ゼノスが危惧しているのは、財産を持った子供が心無い大人に搾取される可能性だろう。
「ミラリスとも約束したわ。……そうね、教育と財産の管理を任せられそうな方なら心当たりがあるわ。私の方から打診してみましょう。あとは今回の事件について世間にどう伝えるつもり?」
「メイズ伯爵は反逆の意を詰問され、逆上して陛下に襲い掛かったところを討ち取ったと公表いたします。ミラリスはそれを食い止めようと、陛下をかばい命を落とした――その点だけを公表すればよろしいかと。詐欺事件に関しては、商人のバジム氏がミラリスと共謀し捕らえられた自身の息子への温情を願い出ています。そこを飲めば、彼の方から訴えを取り下げるでしょう」
「そうね……バジム氏の息子に余罪がないのであれば、それでいいと思うわ。形としては身内が知人と共謀し、家からお金を持ち出しただけのことだもの。宮廷が関与することではないわ」
そしてつと考えて、言い添える。
「……そうだわ、結婚式の日に王都の民に配る記念の恩賜品について、まだ何も決まってなかったわね。相応しい物を手配できるのであれば、バジム商会に任せてもいいわ」
ベルミカのうかつな行動のせいで、バジム氏に迷惑をかけたことは事実だ。損得勘定に慣れた商人であれば、それが口止め料であることを察するだろう。ゼノスが口の端を上げて笑う。
「陛下もずいぶんとやり口が手慣れてきましたね」
「おかげさまで。きっと宰相閣下の薫陶ね」
冗談めかした言葉に同調したものの、胸を巣食う罪悪感からは逃れられず、ベルミカはもう一度大きな溜息をついた。
「私たちはこれから、何度もこういうことを経験することになるのよね」
「……おそらくは」
かつて友と呼んだ人間であっても、必要とあれば断罪し死に追いやる。その覚悟がなければ、きっといまだに亡国の危機にあるこの国を守り通すことはできない。
「陛下にはお辛いこととは存じます」
「いいのよ。私はもう後世で暗君と呼ばれる覚悟はできているわ。それでもせめて、次の王位を継ぐ子には玉座を清めてから渡したいの」
そう言うと、ゼノスはどこか安堵したように小さく笑った。
次の玉座に座る者――それが自分の産んだ子ではなく、ゼノスと別の女性の間にできる子である可能性をベルミカが考えているなど、さすがの宰相でも想像もしていないだろう。
ベルミカとしては、もうそれでもいいと思っている。本音を言えば、ゼノスの傍に他の女性が侍ることを考えると心は重くなる。だが同時に相手がどんな女性であろうと、義務的な敬意以上の感情をゼノスが抱くことはないだろうと確信していた。
子供に関しては自分と血の繋がりがなかろうと、愛する人の血を継ぐ子には違いない。きっと我が子のように慈しむことができるし、安心して次代を託せるはずだ。
「ゼノス、今日は本当にありがとう」
「こちらこそ遅くまで申し訳ありませんでした。私も下がらせていただきます。どうぞ、今晩はゆっくりお休みください」
「待って!」
立ち上がりかけたゼノスの袖口を引っ張り、この場に留まらせる。とっさに引き止めたはいいが、ベルミカはその感情をどう言葉にすればいいのかわからなかった。
黙り込んでしまったベルミカに、ゼノスは不思議そうな表情を向けつつも、ベッドの隣へと座った。
「ベル、どうかしましたか? 私にできることがあれば――」
「行かないで……ここにいて」
ベルミカは頬に集まる熱を感じながら、おずおずとゼノスを見上げる。
「陛下?」
「わかってるわ。不謹慎よね、あんなことがあったばかりの夜に……」
ベルミカの言わんとしていることを察したのか、ゼノスが驚いたように目を見開いた。
自分が酒に強い体質ならば、このやるせなさと悲しみをアルコールで洗い流せたかもしれない。叶わぬのなら、それに代わるもっと熱い奔流でさらってほしかった。
「軽蔑……する?」
金色の瞳と視線が絡む。恐々と問いかけた言葉は、にわかに押し付けられた唇で封じられた。
「……するはずがない」
かすかに上擦った声で言われ、腰と背に腕を回され引き寄せられる。厚みのある胸板から、早鐘のような鼓動が伝わってくる。それはあたたかな温もりに酔いしれている内に、少しずつ落ち着いた音へと変わっていった。この強い人も自分と同じ罪悪感や後悔を抱え、癒しを求めていたのだとわかりほっとする。
――生きている。今日消えてしまった命のすぐ傍らにありながら、自分たちは確かにまだ命を繋いでいる。それはきっと、とてつもない奇跡なのだ。
人生が続く限り、この先も暗く長い夜に身を震わせることはあるだろう。それでも自分たちは互いの熱を分かち合い、この凍えるような闇を超えることができる。それがどれほど幸福なことなのか、ようやくわかった気がした。
ベルミカのこれまでの半生は、人に蔑まれ利用される日々だった。これからも傍から見れば、そう変わらないのだろう。他人にどう思われようが構わない。半身というべき存在を得られた、ただそれだけでこの人生は『幸福』だと信じ切れた。
「愛してるわ、ゼノス」
ゼノスの腕の中で少し顔を上げると、息を飲む気配が伝わった。
「……ごめんなさい。私、こういうことを今までちゃんと伝えたことがなかったわよね」
「かまいません。……これから、何度だって聞かせていただきますから」
「うん……」
噛み締めるような声音に、ベルミカはもう一度、愛する人の体に身をすり寄せて穏やかな気持ちでうなずいた。
次からエピローグ的お話で、あと二話くらいで完結になります。