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鏡を見つめ続けていたベルミカの視界の端で、燭台のロウソクがじじっと揺れた。首筋にすっと冷気が通る気配と共に、寝室の続きの間から扉が開く音がした。
まさか、という思いで振り向くと、暗がりから音もなく、ぬっと背の高い男の姿が浮かび上がる。ゼノスだった。
「どうして……」
「陛下がお召しになりましたので」
昼間は多少動揺していたものの、『悪辣宰相』のあだ名にふさわしく、今のゼノスは冷ややかな表情をしていた。
本当にゼノスが来るとは思ってなかった。来なかったら「役立たずだった」と公言するとは言ったものの、ゼノスからすればそんなもの脅しにもならないはずだ。宮廷では誰もが宰相の意向をうかがい、無能な女王の発言など気に留めはしない。
実際に、侍女や衛兵にゼノスが来ると話を通していないのに、彼はあっさり女王の寝室までやって来た。今の宮中に彼を止められる人間などいないということだ。
ゼノスは昼間の宮廷と変らぬ格好だった。微塵も着崩れていない、しっかりとボタンが留められた上着に、首元を覆うシルクのタイ、手には白い手袋。
肌一つ露出のない彼に対し、ベルミカは薄手のナイトドレスにショールをかけただけの姿だ。ここは寝室なのだから当然だが、急に気恥ずかしくなる。同時にその頼りなさに不安が込上げる。
ベルミカはごくりと息を呑む。
彼がここに来たということは、昼間のベルミカの発言を真に受けたということだろうか。だとしたら、恥じらっているどころの話ではないが、啖呵を切ったのはベルミカの方だ。今更帰ってほしいなどと、怖気づいたことは言えなかった。
いっそ冗談だったという体で笑い飛ばすか……。いやそもそも自分が何を言ったところで、彼が『目的』を果たすつもりなら、そんなものに何の意味もない。泣いてもわめいても、おそらく誰も助けには来ないだろう。
ゼノスが無言のままゆっくりと歩を進める。寝室に踏み入り、ベルミカの前に立つ。高い場所から見下ろされ、ベルミカは息をつくのも忘れたように凍りつく。
金色の瞳がひたとベルミカを見つめていた。それは爬虫類や猛禽類の瞳を想わせる。感情のこもらない、ただ淡々と獲物を見据える目だ。
彼の顔立ちは彫りが深く、鼻梁が通り整ってはいるが、その造形の美しさはベルミカには何の慰めにもならなかった。どこか作り物じみていた、彫刻のように温かみがない。
すっと、唐突にベルミカの前に差し出されたものがあった。
思わずびくりと肩を揺らすが、それはどう見ても、ただのワイン瓶だった。
「……ロカーナ産の二十年物、ちょうど陛下のお生まれになった年です。私はあまり味の良し悪しはわかりませんが、手元にあったのがこれしかなかったので」
「……え?」
「キャビネットを勝手に漁らせてもらいますよ」
言って、ベルミカの返答を待つ前に、ゼノスは周囲の棚に当たりを付け、ワイングラスとコルク抜きを取り出す。寝台の側のナイトテーブルにグラスを置き、ワイン瓶の栓を抜く。
軽快な音がどこか場違いに響いた。
「……あなた一体何しに来たの?」
素朴な疑問がベルミカの口を衝いて出る。
「ですから、『夜伽』です」
署名を促す時の説明口調と変らぬ声音で、淡々とゼノスは言う。
「だ、だから夜伽って……その……」
「来て早々さっそく寝台に上がれと? ……私は無粋者ではありますが、それはいささか風情がないことくらいわかります」
寝台という言葉に、ベルミカの頬が熱くなる。ゼノスはここに来た意味を理解していないわけでも、とぼけているわけでもないのだ。
ゼノスがどこかわざとらしい仕草で、顎に手を当て首をひねる。
「……陛下? もしや怖気づいた訳では――」
「馬鹿言わないで! 」
ついつい負けず嫌いに火がついて、ベルミカは声を荒げる。
「いいわよ、せっかくの宰相閣下のお心遣いですもの。とりあえずワインをいただきましょうか」
腕組みをして高らかと告げると、暗がりからかすかに笑う気配がした。
ゼノスは壁際にあった椅子を片手で一脚ずつ持ち上げる。侍女が二人がかりで運ぶそれを、ゼノスはクッションでも持ち上げるように軽々とした動作で動かす。
「……意外と、力持ちなのね」
「士官学校で丸太を運ばされたことがあります。あれに比べれば造作もないことです」
ゼノスが宰相となったのは二年前。その前は外交官として国外に五、六年ほど赴任していたはずだ。もし軍人だった経験があるなら、二十代前半の頃だろうか。
「所属はどこだったの?」
ゼノスは答える前に、「どうぞ、陛下」とベルミカに向けて椅子を差し示す。椅子と寝台の距離がほとんどないことは気になったが、それ以上にゼノスの話に興味があった。
ベルミカが浅く椅子に腰かけると、その対面にゼノスも座る。