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「さて……これでようやく本題に入れますね、女王陛下」
涼しい笑みを浮かべるラザロに、ベルミカは不快さを隠さずに睨む。
「今すぐに大声を出して人を呼んでもいいのよ」
「どうぞご自由に。どれほど叫ばれても人は来ませんから」
確信しているような余裕の態度に、ベルミカは眉をひそめる。
「この部屋にはあらかじめ『消音』と『隠匿』の術を付加してあります。『消音』は内部の音を遮断し、『隠匿』というのは対象を人の意識から締め出す秘術です。どちらも魔術への耐性がある者や、確固たる目的を持つ人間の前にはほとんど無意味ですが」
「あなた魔術師なの?」
「独学で少々。魔術を生業とする者からすれば児戯に等しいものでしょうが……」
「あなたは戦時中、胸甲騎兵隊に所属していたと聞いているわ」
「陛下が私の経歴をご存じとは、光栄にございます」
にこやかに笑うラザロに、ベルミカは冷ややかに言う。
「魔術の素養がある者は軍や学校で申告義務があるはずよ。術式を展開できるほどの才能の持ち主が、普通兵科であることは疑問ね」
魔術師を名乗れるほどの素質はないと言いつつも、ゼノスは魔力を持っていたゆえに竜火砲の射手である竜騎兵として激戦地に赴いた。戦時下では選択肢はなかったはずだ。正当な申告を行っていれば。
「おっしゃる通り、当時の状況なら魔導兵科に配属され、確実に前線に送られてしまったでしょう。私はメイズ家の一人息子、この身に何かあれば両親がどんなに悲しむことか……。たとえ軍規に背くことになったとしても、家族を悲しませるような真似はできませんでした」
ゼノスは同じく名家の一人息子でありながら、幾度となく命の危機に遭い、心を痛めながらも自分の責務を全うした。まだ幼かったベルミカの前で、己の無力に涙していた姿を今でも覚えている。だからこそ、目の前の男の矮小さに心の底から軽蔑を抱いた。
ラザロがどういう人間なのか、今ははっきりとわかる。穏やかな表情は演技かと思いきや、本当にこの男に悪意はないのかもしれない。ただ善意が自己満足だけで形成されているのだ。傍から見ればどれほど身勝手な言い分であろうと、この男にとっては本心からの正論なのだろう。話が通じない分、罪悪感を抱きながらも犯罪に手を染めたミラリスよりも始末が悪い。
嫌悪に表情を歪めるベルミカをどう思ったのか、ラザロは眉尻を下げて笑う。
「ああ、ご安心ください。もはや“既成事実”をなどとは、考えてはおりません」
「では、どうしてミラリスを追い払ったの?」
魔術で部屋を隠しているのなら、ミラリスの見張りなど必要なかったはずだ。
ラザロはおもむろに棚に積んであったシーツに腕を差し入れる。奥をまさぐって引き抜かれた手には短剣があった。警備と探索が厳しくなるより前に隠してあったのだろう。もしかするとこれにもラザロの魔術が付加され、人目につかぬようになっていたのかもしれない。
「追い払ったのではありません。この場に留まらせたのですよ。彼女には“女王殺し”の下手人になってもらわなければなりませんので。血に怖気づいて逃げられては困るでしょう?」
無事では済まないとはわかっていたが、まさか女王たる自分の命まで狙ってくるとは想定外だった。ベルミカの背に冷たい汗が流れる。
「罪を犯した元侍女が女王に許しを乞い、断られて逆上した。悲鳴に駆け付けた私は下手人を成敗したが、女王は深手を負い一足遅かった――こんな筋書きはいかがでしょうか?」
「……そこまでして、私を殺したがる理由は何?」
「私はどうしても父たちを卑劣な方法で追い詰めた、ハイレル宰相のやり口が許せないのです」
ここまでの会話でも、ラザロの口調からゼノスへの憎悪だけは隠し切れていなかったので、その点は驚かなかった。
「それで私を弑逆し、空になった玉座を継承権を持つ宰相に引き渡すの? 恨んでいるという割にはずいぶん親切なのね」
「どのみち陛下を傀儡にしている、あの男が実権を握っている以上、そこは今と大差ないでしょう。そして女王陛下を失えば、さすがの彼も思い知るはずです。それに世間はきっとこう噂する――『自分が玉座に座るために元侍女の手引きをし、女王暗殺を企てたのは宰相だ』と」
表情に出さぬよう努めながら、ベルミカは密かに自分の迂闊さを呪っていた。ラザロの計算の内に入っていたわけではないだろうが、直前までベルミカに同行していたのはマルダで、ミラリスが現れると同時にその場を離れている。
マルダはゼノスの遠縁であり、彼に推薦され侍女になった。大広間に向かう途中、数人の女官や侍従とすれ違っている。もしベルミカが生きて戻らねば、宰相とマルダにも疑いが向けられかねない。
「私は戦時下でも魔術の素養を隠し通しましたが、結局配属地は激しい戦火に見舞われました。そして何度も死に直面しながらも生き残りました。……これも仲間や部下が命がけで守ってくれたおかげです」
憂いの表情で語るラザロに、ミラリスのように心が弱った人間をたぶらかし、文字通りいざという時の“盾”にしたのでは、という嫌な想像が頭をかすめる。
「そうして命からがら戦地から帰還し間もない内に父は投獄され、領地や財産も奪われました。残ったのは名ばかりの爵位だけです。戦場で命を張った報いがこれではあんまりです」
「国のために命を賭して戦ったことは立派よ。でもそれと先代伯爵の罪は話が別だわ。恨むのなら、悪行に手を染めた自分の身内を恨みなさい」
「悪行という言葉はあの宰相に使うべきでは?」
「……確かにハイレル宰相は強引な手段を使って、宮廷の規律を乱した官僚や役人への断罪を行ったわ」
証拠の捏造に関しては事実であり、ゼノスも認めている。やり口の度が過ぎているのは間違いないが、そこまで強引な手段を取らなければ、もはや自浄もままならないほど宮廷は爛れ切っていた。そして一切の経緯を看過し、事態を悪化させ続けた責は女王である自分にあると思っていた。
「彼に罪があると言うのなら、あなたの言う通り彼を宰相に任じ、そのやり方を黙認してきた私が責任を負うべきだわ。恨むのなら私を恨みなさい」
「……陛下は本当にお変わりになった。ろくに人の目を見てお話しにもなれなかったのに。よくそこまで陛下を篭絡したものだと、仇ながら感心いたします」
「それはあなたのやり口でしょう? 自分が浅ましいからといって、他人までそうだと思うのはやめなさい」
せせら笑うように言ってやると、ラザロがすっと目を細めた。取り繕っていた表情がついに歪む。
不思議な気分だった。相手はベルミカを殺すことが目的だと言うのに、思うまま言葉を吐き出すことをためらうつもりはなかった。
確かに少し前までの自分は他人の顔色を伺うばかりで、無礼な仕打ちに抗議することも、理不尽な状況を変えようとする気力もなかった。そうして悪意ある人々を付け上がらせた結果が、己を余計に惨めな立場にしていたのだ。
ミラリスに感じた嫌悪の意味がわかった。あれは少し前までの自分の姿だ。孤独と失敗を恐れるあまり、自分を利用する人間を妄信するしかないと自らに言い聞かせ、考えることを放棄し傀儡に下った人間の末路。
「残念です……あの頃のように愚鈍な女王であれば、命だけはお助けできたのに。――いや、あの悪辣宰相にいいように寝室で玩ばれているあたり、利用される相手が違うだけで本質はお変わりにはなっていませんか」
ひどい侮辱を受けたというのに、ベルミカの頭は冷えていた。
「私が愚かだという点には反論できないけれど、あなたの言い分は少し違うわね」
不思議そうな顔をしてるラザロに、ベルミカは堂々と告げる。
「私がゼノスを選んだの。私の意志であの人を自分の寝室に呼んだのよ。私は本当に浅はかで多くのことを間違えたけれど、その選択だけは正しかったと思っているわ」
こんな無能な自分でも他国の王に引けを取らぬ点がある。後備えが自分よりも有能な人間であることだ。ここで自分の命が潰えたとしても、事実上の女王の伴侶であり、唯一正統な継承権を持つゼノスが王座に就くことに誰も異議を申し立てられないはずだ。
それならば、なんの憂慮もなかった。ゼノスならばラザロの謀略などに絶対に負けない。彼はどんなに心を痛めようと涙に暮れようと、真実にたどり着き、すべきことを必ず果たしてくれる。
たとえベルミカがいなくなったとしても、この国を今よりもよりよく統治し、導いてくれるだろう。彼のために捨て駒になったのなら、自分の惨めな人生も無駄でなかったと思える。
ラザロが表情から笑みを消し、ベルミカの元へと歩み寄ってくる。
いよいよかと、ベルミカが覚悟を決めると、にわかに複数の人間が足音荒く近づいてくるのがわかった。外からミラリスの短い悲鳴が聞こえる。――弾かれるように音を立て、扉が開いた。