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その日は吹きすさぶ風が少し冷たかったが、雲一つない晴天に恵まれた。
庭園には長テーブルが据えられ、白いクロスと色とりどりの花に飾られていた。軽食や飲み物が用意され、宮殿にやってきた来場者たちに振舞われている。大人たちがワインを傾ける傍らで、子供たちにはバスケットを携えた女官が焼き菓子を配り歩いている。
ベルミカは三階の窓から階下の様子を眺めていた。
「陛下、今ハナミズキの傍に立っている方……」
マルダの耳打ちにベルミカはうなずく。
「ええ、メイズ伯爵ラザロね」
直接会話を交わしたのは、式典や宴での型通りの挨拶だけだが、彼の姿は宮廷で何度か見たことがあるので知っている。
すらりと背が高く、整った柔和な顔立ちの貴公子だ。遠目から見ても、身振りや笑い方に品がにじむ。ラザロの周りには貴婦人たちの姿が多くあり、人好きされる性質なのだろう察せられた。こうして少し観察しただけでも、少し前までマルダが執心していたように、若い令嬢に人気があるのは納得できた。
やはり元軍人で宮廷貴族であるゼノスも美丈夫とは言われているが、きびきびとした軍人らしい動作や、端的な言葉遣いはむしろ女性たちを恐れさせ、遠ざけてしまう。まるで対照的だと思った。
「あっ……」
マルダが小さく声を上げると同時に、よそ見をしながら走って来た男の子がラザロにぶつかった。その手に持っていた飲み物が飛び散り、彼の衣服を汚したのがわかった。
尻もちをついた子供は事の成り行きに驚いたのか、ただ茫然としている様子だ。ラザロが子供の傍にしゃがみ込む。その手が子供の首元に伸びて、思わず息を飲んだ。
ラザロは子供の解けかけていたスカーフタイを結び直してやった。穏やかに微笑み、子供に話しかける様子から、『せっかくの晴れの日だ。身なりはきちんと正しなさい』と諭しているのが、遠目からでもなんとなくわかった。ラザロは最後に男の子の頭に手を乗せると、心配そうに成り行きを見ていた貴婦人たちに挨拶をし、あっさりとその場から去って行った。
「うーん、やっぱり問題のある方には見えませんね」
「ええ、そうよね」
小首を傾げたマルダと顔を見合わせる。
メイズ伯爵ラザロ――彼のこれまでの経歴については、先日ゼノスから説明を受けている。寝室への侵入事件について聞かされたマルダが、どうしても不安をぬぐい切れず宰相に報告したらしい。
ラザロが元軍人であった経歴や品行などは聞いたが、その為人に関してはいまいち判断しかねるという、宰相にしては歯切れの悪い報告だった。念のため、今後ラザロとは接点を持たぬようにと言い含められている。
「――女王陛下、そろそろお出ましになる時間にございます」
ロッサム夫人に声をかけられ、窓に寄り掛かっていたベルミカは慌てて居住まいを正す。
侍女たちの手で肩に深紅のマントを掛けられ、頭にずっしりとした王冠を被せられる。錫杖を渡されると、先導されるままにバルコニーへと進んだ。
庭園を見下ろせるバルコニーにベルミカが現れると、女王の姿に気づいた人々からわっと歓声が響いた。祭典を寿ぐ言葉の他に「ご婚約おめでとうございます!」という声も聞こえた。歓声に応えるように、ベルミカは穏やかに微笑みながら手を振る。やがて丁寧に礼を取ると、拍手が響く中その場を後にした。
「今日は長丁場でございましたね。お疲れになられたことでしょう」
屋内に戻ると、ベルミカを労うロッサム夫人に錫杖を手渡した。
「ええ、さすがにね。これで四度目ですもの」
他の侍女たちが手慣れた様子でベルミカから王冠とマントをはずしていく。ほんのわずかな時間、宮殿に入場した市民たちにただ笑顔で挨拶をするだけのことだが、二時間ごとに同じことを繰り返しているとさすがに疲れてくる。ベルミカは小さく息をつく。今の挨拶が最後の顔見せだった。
「お部屋にお茶を用意いたします。晩餐会まで少しお休みになってください」
「ああ、待って。まだ大広間での演奏会は終わっていないわよね? 少し顔を出してくるから、その後でいいわ」
庭園が身分を問わない集いなら、大広間での演奏会は完全に貴族の集いだ。結局ゼノスの提案で、庶民が自由に出入りできるのは庭園のみとした。その分、無料で振舞われる食事や飲み物は例年よりも予算をかけてもらった。今のところ不満の声があるとは聞いていない。
同時に、宮廷を支えてくれる貴族たちも蔑ろにするわけにもいかない。今日は大広間で一日中音楽会や舞踏会が開かれている。こちらも貴族の肩書を持つ者とその家族は誰でも出入りが自由だ。
そして宮殿の主である女王がその場にいるかいないかで、催しの格が変わって来る。遠方からわざわざやってくる地方貴族にとっては重要なことだ。
「マルダ、同伴をお願いできる?」
「はい、よろこんで!」
傍でマントを畳んでいたロッサム夫人がちらりと視線を上げたが、寡黙な侍女頭は特に何も言わなかった。公の場で女主人に同行が許されるのは、特にその侍女に信頼がある証拠だ。マルダはまだ若く経験も浅いが、今後はそういった役割も任せたいと思っていた。
ベルミカはマルダを伴い大広間へと急いだ。かすかに聞こえてくる舞曲に耳をすます。
「急ぎましょう」
「はい」
スカートを軽くからげ早足で回廊を進んでいると、柱の影からすっと一人の人物が行く手を塞ぐように立ちはだかった。
現れたのがまだ若い娘で、使用人のお仕着せ姿であったことに、ベルミカは一瞬肩の力を抜くが、その顔が見知った人間であったことに気づき息を飲む。
「あ、あなた……」
「――女王陛下、ご無沙汰しております」
記憶にあるその娘は豪奢なドレスをまとい、髪を高らかに結って、常に女王の傍らで優雅に微笑んでいた。かつてベルミカの侍女だった娘――トラン子爵令嬢ミラリスだった。