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「陛下、それはどういう意味ですか?」
「このブローチは市場に流れた物ではないわ……これは私が直接あげたものよ」
「いったい誰に!?」
「前の侍女よ……あなたが暇を与えた人」
ゼノスは事態を悟り歯噛みする。犯人が『宮廷の事情を知る、女王の侍女を名乗る女』と知った時、当然ベルミカの元侍女たちの姿が頭を過った。侍女なら女王の持ち物の管理も仕事の内だ。
だが、いやしくも貴族の妻子が宮殿で窃盗を働くなど、さすがにないだろうと高をくくっていた。ましてあのような大胆な詐欺を働く能は、蝶よ花よと育てられた人間には良くも悪くもないだろうと。だがまさか、ベルミカが手ずからブローチを与えていたとは……。
以前の侍女たちは、ベルミカを傀儡の女王に仕立て上げ、権力を握った逆臣たちの妻や娘たちだ。夫や父親の命令の元、無力だったベルミカを堕落させた張本人たちでもある。
罪を犯した官僚や役人たちは相応の罰として、今も牢獄か、あるいは断頭台を経て墓石の下にいるが、侍女であった彼らの妻子たちは罪に問えるほどのことはしていないので、免職後のことには関与していない。ただし家長を失い、爵位や領地、財産を召し上げられ、それまでのような贅沢な生活ができているとは思えない。犯罪に走る理由にはなり得る。
「――その者の名は?」
「ミラリス……トラン子爵の娘よ」
どこかで聞いたことがある名……そう思い、すぐに記憶が呼び起こされた。トラン子爵は会計長官であったが官費を私的流用し、裏帳簿の作成を部下に指示していたことで処罰された男だ。生きていれば、今も牢獄の中だろう。
「最後の日にあの子が、もう二度と宮廷に出入りすることは許されないだろうから、せめて思い出の品が欲しいって言い出したの。官費で賄った物なら断ったでしょうけど、このブローチは完全に私の私物だし……」
侍女たちがときおり女王にねだり事をして、高価な物をせしめていたのは知っていたが、最後の最後までそんな有様だったとは、呆れ果てて物も言えない。
「陛下がご友人に私物を差し上げるのは自由です。ですが、だからといって一族の紋章を象った物を贈らなくとも……それも一応形見でしょう」
「だって見るのも嫌だったから……。捨てることはできないし、どうせ日の目を見ないのなら、大切にしてくれる人に譲ったっていいと思ったのよ。同じような物はたくさん持っているから、一つくらいはいいかと思って……」
ベルミカの語尾が徐々に弱くなる。
ゼノスは深々とため息をついた。侍女が宮廷を出る時に荷物を改めなかったのは失敗だった。まさか最後の時まで女王をたぶらかし、そんな重要な物をせしめていたとは……。物が物だけに、下手な盗人よりも始末が悪い。
「でもミラリスは、そんな大それたことを考えるような子じゃないわ。侯爵夫人や伯爵令嬢たちに比べると、侍女の中では控えめでおとなしい子だったし。あの子の方から私に何か頼みごとをしたのも、それが初めてだったはずよ」
「陛下……一般的に紋章の入った物を他人に預けるということは、その者にご自分の意向を託し、一任するという証でもあります。大変失礼ながら、陛下がなさったことは――」
「わかっています。……浅慮だったわ。今回の詐欺事件は私のせいよ」
うつむき、握った手を震わせるベルミカを、ゼノスは痛ましい思いで見つめる。
「いいえ、これは陛下ではなく私の失態です。あの当時の陛下に、まともなご判断が難しいことは知っておりました。もっと陛下の近辺に注意を払うべきでした。改めてお詫び申し上げます」
「なんでっ……なんで、あなたがそんな言い方をするの……!?」
声を震わせ、今にも泣き出しそうなベルミカに罪悪感が募るが、ゼノスは今ここでベルミカに――女王に伝えなければいけないことがある。
「私には失敗の責任を負う資格すらないということ?」
「その通りです、陛下」
ゼノスは心を押し殺して、淡々と告げる。
「君主が簡単に『自分の責任』などと口にしてはなりません。たとえ事実として臣下に一切の落ち度がなかったとしても、このような時には王に代わって、責任を取らねばならぬものなのです」
「それでは他人に罪を押し付けることになるじゃない! そんなトカゲのしっぽ切りのような、卑怯な真似はできないわ」
「陛下の権威に傷が付けば、王権により統治されるこのヴィレシアの基礎が崩れかねません。ですから女王たる陛下は明らかな間違いを犯そうと、知らぬ存ぜぬで、堂々たる態度を貫かなければならないのです」
「……臣下に罪を押し付ける愚王に、私は存在価値などないと思うわ」
「残念ながら、今のヴィレシアにはどんな王でもいないよりはましなのです。我が国はいまだに戦の傷が癒えぬ怪我人のようなもの。謀反にしろ革命にしろ、もはや耐えうる余力はありません。ディル王国との関係は改善しつつありますが、王政が倒れればかの国もどう動くかわかりません。どのみち先の戦争よりも、国内は荒れ果てるでしょう」
ベルミカは深窓の令嬢たちとは違う。ゼノスが世話になった療養所が解散した後も、前線に近い場所に赴き修道女たちと共に、兵士たちの看護など奉仕活動をしてきたと聞いている。悲惨な光景を目の当たりにし、戦争の惨たらしさは身に染みているはずだ。
「いい機会なのでお伝えしておきます。この先の私たちの道は平坦な物ではないでしょう。そして何があっても、何を犠牲にしてでも、陛下だけは生き続けなければならないのです。……たとえ『トカゲのしっぽ』が私の首であったとしても」
ベルミカは傷ついたように目を見開いた後、かすれた笑いと共に、小さく首を振った。
「……さすがは悪辣宰相だわ。あなたが王の立場ならば、同じことができて?」
「いいえ。もし立場が逆になれば、『自分はどうなってもいいから、ベルミカだけは助けてくれ』と無様に這いつくばって、あなたの命乞いをするでしょうね」
「……え?」
呆気に取られるベルミカに、ゼノスは笑って言う。
「私は『悪辣宰相』ですので。自分が死んでもできぬことを、陛下に涼しい顔で押し付ける卑劣な男なのですよ。だから以前のように、私に譲位するなどとは考えない方がいいですよ。いざとなれば私は国や民の命を犠牲にしてでも、自分の欲望を優先します」
「逃げ道まで塞ぐのね。本当にずるいわ」
言葉の割に、ベルミカの表情は少しやわらいでいた。
「……でもこんな私でも存在するだけで、救われる人はいるのね」
「はい。そしてそういう人々を増やすために、我々は地盤を固め、より良い道を模索し続けなければなりません。――さて、話が少し逸れましたね」
「いいのよ、あなたが伝えようとしたことは理解できたわ」
ベルミカは表情を引き締め、厳かな口調で告げた。
「――ハイレル宰相、今回の詐欺事件についてはあなたに一任します。責任をもって解決に当たりなさい。そのためなら、少々強引な手段を取ったとしても私は目をつぶります」
「御意に、女王陛下」
ゼノスはしっかりとうなずくと、宰相としての表情を解き、ベルミカの体を引き寄せ掻き抱く。
とっさのことで、ベルミカは驚いたようだが、すぐに身を預けるように体の力を抜いた。その頼りないほどか細く、しなやかな肢体を抱きしめながら、耳元でつぶやく。
「申し訳ありません……こんなひどい男が未来の夫で」
生まれた身分が、場所が違っていれば、ベルミカはその心根にふさわしい善良な男と添って、平凡だが穏やかな愛を手に入れていたはずだ。自分のような男の手に落ちてしまったことが恐ろしく痛ましく、同時に背徳的な悦びがあることも否定できなかった。
(我ながら救えんな……)
しかしベルミカは、そんなゼノスの劣情には気づかず、無垢な瞳を向けて笑う。
「それはお互い様ね。だって私は夫となる人に、手を汚せと命令する女だもの。こういうのを『似合いの夫婦』というのじゃなくて?」
その言い分に思わずゼノスは吹き出すと、にわかにベルミカを捕らえるように首裏に手を回し、口づけた。
「ちょっ……ゼノ――……!」
突然貪るように求められたベルミカは、何が目の前の男の導火線に火をつけたのか理解できていないようで、ゼノスに思う存分堪能された挙句、身を離すと目を白黒させていた。その様すらも愛しく、ゼノスはもう一度ベルミカを抱きしめる。
「ベル……私は悪党ではありますが、それがあなたの傍にいる資格になるなら、自分の生き方に後悔はありません」
「だからって、開き直らなくても……」
顔を伏せたまま、ベルミカはもごもごとつぶやいたが、やがて自ら身を寄せるようにゼノスの背に腕を回した。