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「……そういうことなら、その商人へのお礼はできる限り弾んで。少なくともブローチを返してくれたことは好意によるものよ。もちろん私の手許金から出していいから」
「いえ、それには及びません。女王陛下のご生家の物であれば、宮廷が管理すべき王家の財産でもあります」
ゼノスはその晩も女王の寝室を訪ね、今もベッドに二人で並び座っているが、昨晩以上に甘い雰囲気にはなりそうになかった。
「まさかそんなことになっていたなんて……。先に言ってくれればよかったのに」
「このような大事になりかねない事態とは想定していませんでした。完全に私が初動を誤りました。陛下にはなんとお詫び申し上げてよいか……」
「謝ることはないわ。でも、ちょっと困ったことになったわね。その詐欺師は私の侍女を騙っているのでしょう? 女王が借金を踏み倒しただなんて噂になったら大変だわ」
ベルミカは小さくため息をついて、ゼノスの肩にもたれかかる。
「……陛下、これがそのブローチなのですが、見覚えはございますか?」
ゼノスはサイドテーブルに置いてあった、例のダリアのブローチをハンカチに乗せて差し出す。ベルミカはそれを指でつまみ上げると、「ああ……」と力なく笑った。
「よく知っているわよ。……ちょっと待ってて」
ベルミカはベッドから降りると、寝室から繋がる衣裳部屋の方へ向かう。そう間を置かず戻って来た彼女の手には、首飾りと髪を飾る櫛があった。
「――ほら、見て。これと同じでしょう?」
シーツの上に置かれたそれは、確かにブローチと揃いのデザインだった。
「これを作らせた方は、特に黄色いダリアがお好きだったのよ。このデザインは同じ物が他にもあるわ」
「よく手元に残りましたね」
バジムにも話したが、セベク家が所有していた財宝や美術品などは、ほとんどが競売にかけられ離散したはずだ。ゼノスが宰相に就任した後、所在が知れている物は買い戻したが、その半分以上は今も失われたままだ。
「お母様が私を連れて屋敷を出る時に、女性物の装飾品を少しだけ持ち出したのよ。一度修道院に寄進したけど、院長がずっと預かってくださっていたの。私が即位した折にお返しくださったわ」
「さようでしたか……。陛下が身に着けていられるところを見た記憶がないので、このような物をお持ちとは存じませんでした」
「あまり私の好みではないもの。……これはね、おばあ様の物だったの」
「陛下のおばあ様……ああ、デジレ様ですね」
ベルミカの祖母である先々代の女公爵デジレは、厳格な切れ者として有名な女傑だった。婿であるベルミカの祖父も公爵を名乗っていたが、セベク家の爵位は本来彼女が所有する物だ。
その生涯を通して公爵家の采配を取り、一族の誰も彼女に逆らうことはできなかった。半面ベルミカの父親である息子のことは溺愛していて、彼の末路を考えれば、子育てには成功したとは言えないだろう。
ベルミカの父親が御三家の一つ、アリスター家の当主との王位争いに敗れた際に落胆と心労からか突然倒れ、そのまま帰らぬ人となったと聞いている。
「そういえば……陛下がお生まれになる前の話ですが、私が幼い頃どこかの屋敷に招かれた際、つい子供同士ではしゃいでしまいましてね。デジレ様に『静かにおし、ハイレルのひよっ子めが!』と一喝された記憶があります」
「まあ、ゼノスも叱られたことがあったのね。おばあ様らしいわ。……家の中でもとても厳しい方だったわ。何か私が粗相をするたびに『ベルミカ、手をお出しなさい』って鞭で叩かれたの。だからおばあ様にも、おばあ様がよく着けていたこのアクセサリーにも、あまり良い記憶がないのよね……」
ゼノスは痛ましさに眉ひそめ、そっと腕を回してベルミカの頭を抱き寄せる。ベルミカは当たり前のように淡々と話すが、それこそ彼女の半生に暴力や恫喝が当たり前だったことの証だ。
確かに古風な考えの貴族の中には、鞭を用いて子女を躾け、妻ですら逆らえば暴力を振るうことを、夫の当然の権利と考えるものは少なくない。
これまで人道にもとる手段も辞さなかったゼノスでも、暴力による支配が正しい教育などとは思えない。まして守るべき存在に手を上げるなどもっての他だ。
この腕の中にいる愛しい人と、いつか彼女が生んでくれる我が子には、理不尽な暴力に怯え、人生を奪われるような目には決して合わせない。そのためにも、ベルミカと自分の地位を揺るがす懸念は一切取り払わなければならなかった。
「……陛下、よろしければデジレ様の装飾品はお預かりしましょうか?宮殿の宝物庫に収めておいても問題はないかと」
「そうね」
ベルミカは珍しく人の悪い笑みで笑いながら、やたらギラギラとしたダリアのブローチをつまみ上げる。
「私は趣味じゃないけど、未来の王族の中には物好きが現れるかもしれないものね」
「あいにく私の血も引いている以上、この先の王族はしばらく洒落者ばかりかと思います」
「――……よく言うわよ。確かにあなたの小物使いは上手いけれど」
また一瞬だけ、ベルミカが声を失ったのがわかった。昨日の夜と同じような空気にゼノスは目を細める。確か昨日は、孫でも生まれればベルミカの母も宮殿に来てくれるかもしれない、という話に及んだ時、彼女は表情を強張らせた。
(未来の話が嫌なのか……? いや、違うな……子供のことか)
二つに話の共通点は、自分とベルミカの子供のことだ。結婚すれば自然に至る過程、程度の感覚で子供のことを語ったが、実際に産むベルミカからすれば不安もあるだろう。子供を望んでくれる程度には愛されている自信はあったが、そんな単純な話ではなかったのかもしれない。
(……多少知恵者と言われたところで、しょせん私も単純な男だな)
「ありがとう、ゼノス。長年の悩みがこんな風に解決するなんて思わなかったわ。家族の形見だからといって、傍に置いておく必要はないのよね」
ゼノスの葛藤とは裏腹に、ベルミカは何かが吹っ切れたのか、先ほど一瞬だけ見せた表情の陰りは、もう微塵もなかった。
「どうして気づかなかったのかしら? 目に入るたびに暗い気持ちになるくらいなら、遠くに片付けてしまえばよかったんだわ」
「……視点を変えなければ、存外わからないこともございます」
ゼノスは半ば己に言い聞かせるように告げる。隣にいる相手が当然同じ光景を見ていると考えるのは、愛を理由にした慢心だ。
「せめて、おばあ様と私の趣味に合っていればよかったのだけど。さすがに捨てることはできなかったから――」
にわかに、ベルミカの表情がまた固まった。
「陛下……?」
「どうしよう……! 私とんでもないことをしてしまったかもしれない……」
そう言ってベルミカはゼノスに青ざめた顔を向けた。