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ベルミカには恨まれたが、ゼノスが悪者に徹した成果はあった。
やがて彼女は『悪辣宰相』たる自分にも意見をぶつけられるようになった。権力を掌握したゼノスを前に、ただ怯え縮こまる当初に比べれば、ずいぶんな変化だった。
失っていた感情を取り戻し、大人の女性として成熟していく姿に、いつしかゼノスも心惹かれるようになっていた。
ただ一人の女性として、無理やりベルミカを腕の中に閉じ込めたいという欲望はあったが、それではまた彼女は籠の鳥だ。ベルミカ自らの意志で、ゼノスを選んでもらわなければ意味がない。
ゼノスは客観的に見ても、女王の伴侶候補として国内で最も好条件を有していた。しかしこればかりは最後に物言うのは、ベルミカ個人の判断だ。
(だいたい、あれだけ憎まれていれば、そんな日は確実に来ないだろうな……)
自分と顔を合わせるたびに、威嚇する猫のような態度を取る女王を思い出し、どこか諦観していた。
結局ゼノスは個人の感情よりも、宰相としての仕事を優先した。若く美しい女王の結婚式は、戦争に疲れ果てた国民に明るい話題を提供できる。なにより世継ぎができれば、ベルミカの女王としての立場がより強固になる。結婚は彼女のためにも必要不可欠だった。
その反面、ゼノス自身はいい年をして妻を娶ることはしなかった。職務に専念するためという表向きの理由も嘘ではない。宰相になってから、自分の屋敷に帰れたことなど数えるほどしかなかった、こんな有様では結婚したところで、跡継ぎなどできようがない。妻となった女性を不幸にするだけだ。
それと同時に、未練がましく浅ましい本音も自覚していた。『独身』という最後の切り札がどうしても手放せなかったのだ。
ベルミカにはせめて、心許せる男と添ってほしいと待ち続けたが、二十歳を過ぎても彼女は結婚相手を選ぼうとしなかった。さすがにゼノスも宰相としての立場から、厳しく苦言せざるを得なかった。例の『家畜』発言も、その最中に言ったことだ。
だから「あなたに夜伽を命じます」との王命は、ゼノスを大いに動揺させた。
密かな期待とは大分違ったし、ヤケクソじみていたが、確かに彼女はゼノスを選んでくれた。そしてベルミカが身に降りかかる理不尽に、真正面から反抗できるまでに成長したことに安堵していた。
これでようやく対等になれる、そう思ったら先の発言もあり、冷静さをを保つことができなくなった。緩みそうになる表情を堪えるのに苦労した。
そもそも、自分は周囲が思うような冷静沈着な性格ではない。感情を堪えきれず、年下の少女の前でみっともなく泣き顔をさらしていた、若造の頃から何も変わっていない。
そして悪辣かどうかはともかく、ゼノスは少なくとも降って湧いた幸運を辞退するような、慎み深い人間ではなかった。
ベッドの端で眠るベルミカを観察していると、やがて「うーん……」と艶かしい声を立て、寝返りを打った。両手を広げ、薄いナイトドレスに包まれた姿を堂々とさらす様に、ゼノスは思わず目を逸らす。ここまで無防備だと、さすがに据え膳どころか居たたまれなくなってくる。
今日の反応を見る限り、自分に嫌悪感はないようで、伴侶として本気で考慮してくれそうな気配もあった。喜びに先走りたくなる気持ちは当然あったが、慎重に事を進めなければいけないこともわかっていた。ベルミカは周囲の悪意と暴力により、心に深い傷を負っている。力ずくで関係を強いるような真似はできない。
そんな葛藤など知らず、ベルミカはすよすよと、呑気な寝息を立てている。ゼノスは少し恨みがましい気持ちで見つめる。
無体なことは絶対にできないが、同時に寝室に呼びつけたのは彼女の方なのだから、忠実な僕に多少の労いはあってもいいのでは、という誘惑も込み上げる。
ゼノスは鼻を鳴らし、羽織っていただけのシャツを脱ぎ捨てると、乱暴に椅子の背に投げる。そして女王のやたらと広いベッドの傍らに身を滑りこませた。
慈悲深い女王陛下のことだ。明日も忙しく政務に励む臣下が、傍らで安らかな眠りを確保することくらいお許しくださるだろう。
指を伸ばし、子供っぽい丸みから、大人の女性らしく優美な曲線へと変化した輪郭をなぞる。くすぐったそうに、むにゃむにゃと口元が動いた。
その様子に小さく笑いながら、形のよい耳に指を滑らせていると、ふいにベルミカが大きく寝返りを打った。ゆっくりと閉ざされていた瞼が上がり、焦点を結ばぬ目が、目の前にいる存在を捉えようとしていた。
さすがに起こしてしまったかと、気まずく思っていると、ふいにベルミカは両腕を伸ばした。ゼノスの首筋にすがり、そのまま身を預けるように抱き着くと、甘える猫のように胸元に頬ずりをする。
「陛下……!?」
ベルミカの大胆な行動に、呆気に取られていたゼノスだったが、やがて聞こえてきた寝息に愕然とした。
石鹸の香りと共に、やわらかな肢体が押し付けられ、吐息が肌をくすぐる。その状況にゼノスは深く絶望した。
(……慈悲深いどころか、とんでもない暴君だ)
どうあっても、安らかに眠ることなどできそうにない。自業自得を後悔しつつ、ゼノスは悶々と夜を明かす羽目になった。
翌朝、寝台の上に座り込んだベルミカが頭を抱えていた。しどけなく上半身を晒しながら、半身を起すゼノスに恐る恐る問う。
「あの……宰相……? 私、昨日の記憶が途中からないんだけど……」
混乱する女王は幸か不幸か、宰相の目が赤いことに気づいていなかった。
ゼノスは悠然と笑うと、寝不足のささやかな仕返しとばかりに、ベルミカの髪に指を差し入れ、頬に手を添わせる。
「私には生涯忘れようのない夜でした。……よもや『役立たず』とは言わせませんよ、陛下」
ほっそりとした腰を抱き寄せ、昨日の女王の発言を悪用しつつ、耳元に低い声でささやきかける。
それを都合よく解釈してくれたベルミカは茫然としていた。やがて恥じらうように視線を逸らし、もごもごと口ごもる。しかし不快には思われてないようで、ほっとする。
うつむきかけたベルミカの顔を持ち上げると、昨日の続きとばかりに自然な流れで口づける。ベルミカは赤くなったまま、悔しそうにゼノスを睨むが、抵抗することなく受け入れた。
彼女が本当のことに気づくのは、皮肉にもその勘違いが真実になる時だ。しかもそう遠くない内だろう。
ゼノスは薄く笑って、果実のように瑞々しい唇を親指でなぞる。
不憫で、狂おしいほど愛しい女王に、悪辣宰相はもう一度口づけた。