10
窓の外に目を向ける。今日は月明かり一つ見えない暗夜で、外が白み始めるまでにはまだ時間がありそうだった。
ゼノスは寝台で静かに眠る、女王の額から濡れた布を取り除く。頬に手を当てると、異様な熱はなく顔色も悪くない。静かな呼吸にゼノスは安堵して息をつく。ベルミカがくすぐったさに、むずがる幼子のように顔をしかめた。その様子に小さく苦笑する。
すべて目論見通り、というわけにはいかなかったが、同時に少しほっとしていた。混乱に乗じて押し切ってしまえば、今度こそ自制心を失いかねない。
時間はたくさんあるわけではないが、あと少しくらいなら――酒の力がなかったとしても、ベルミカがあの手のことに押しが弱いことは、なんとなくわかる――そのくらいなら彼女の覚悟が決まるまで待てる。
少なくとも政略的な目的は一つ達成された。ゼノスは特に人目を忍ぶことなく、堂々と女王の寝室へとやって来た。そこに至るまでの回廊には、衛兵や女官の姿もあった。
明日にはこの部屋でゼノスが一晩過ごしたことが、宮廷中に広まっているだろう。とりあえず既成事実はできた。さすがに『悪辣宰相』たる自分を敵に回してまで、分不相応に女王を狙う男はいなくなるだろう。
そもそもベルミカは自分の身に迫る危険に、まるで気づいていないのだ。若く美しい未婚の女王を狙う、不埒者がこの宮廷にどれほどいたことか。実力行使に及びそうな人間は早々に排したが、それでも心配は尽きなかった。
(この人が、自分の価値を正しく理解していないのは仕方ないが……)
修道院で育ったベルミカは、この宮廷の『作法』がまるでわかっていなかった。人の悪意や心の裏を読むことをだ。何も知らない無垢な少女に対し、宮廷貴族たちが最初にしたことは、まず彼女を『壊す』ことだった。
二年前、ゼノスは宰相職を引き継いだ。あの優しく気高い少女がどのように成長しているか、密かに心を躍らせながら宮廷へやって来た。
戦時中ダグラートの療養所にいた頃、両方の祖国の民の血に塗れながら何の成果も出せず、ゼノスは無力感に打ちひしがれていた。
『傷は自分や、大切な人の命を守り抜いた証なの』と彼女は言った。
よく意味はわかっていなかったかもしれない。だがあの時の無垢な少女の声が、自分にとっては神託のように聞こえた。そのただ一言に、絶望の底に沈められていた記憶が呼び起こされた。
『君にはまだ成すことがある』と自分を後退させた上官の後姿。
『中尉殿がたくさんの兵を救うことを信じます』と先に息絶えた部下の言葉。
戦地に取り残された子供を救助したときに、向けられた笑顔。
膝を屈している場合ではない、多くの人々の命を守るため、自分にはまだ生きる価値があると信じさせてくれた。
結局戦地では役目を全うできなかったが、その希望と熱意は、後に両国の和平を結ぶ外交官としての成果に繋がった。
本音を言えば、ベルミカが即位したことを知り、すぐにでも宮廷に参じたかった。しかし何の実績もない自分では、女王の側に上がるにはふさわしくないことも自覚していた。仕事をまっとうし成果を出す方が、若き女王のためになると信じ耐え忍んできた。
そして実績と地位を手にし、ゼノスはついに宮廷へとたどり着いた。
十年前のベルミカはまだ子供だったが、ゼノスは心からの友情と敬意を抱いていた。さらに美しく気高く成長したベルミカが、忠義を捧げるにふさわしい存在になっていることを、疑いもしなかった。
ところが再会したのは、容貌こそ美しく成長していたが、その瞳に光のない無気力で怠惰な娘だった。
就任の挨拶のためずっと謁見を申し出ていたが、許可されたのはずいぶん後だった。ようやく目通りが許されたその日、ゼノスが来訪することは伝えてあったはずだが、ベルミカは自室で侍女とカードゲームに興じていた。遊びを中断させられたベルミカは、やって来たゼノスをわずらわしそうに見やった。
どうにか気を取り直し、挨拶と父の代では成せなかった、改革案について発言しようとした所を遮ってベルミカは言った。
「説明は結構よ。難しいことは任せるから、好きに計らいなさい」
女王はそう言ったきり、ゼノスの存在など最初からなかったかのように、ゲームを再開した。
侍女たちとはしゃぎ合う姿に愕然とした。自分がかつて『リオル中尉』と呼ばれていたことを告げる気力も失せた。どうせ覚えてもいないだろうと。
(十年前の一時の安らぎなど、所詮は幻想か……)
深い失望と共に、ゼノスは静かにベルミカの元を辞した。
若かりし頃の思い出を打ち砕かれたゼノスだったが、気落ちしている暇はなかった。薄々覚悟はしていたが、宮廷を蝕む腐敗は想定上に深刻だった。