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「あなたに夜伽を命じます、ハイレル宰相」
ベルミカはつんと高くあごを上げ、その一言を放った。
目の前にいる十二も年上の、背の高い男――ハイレル宰相ゼノスは、小娘であるベルミカの一言に呆気に取られ絶句していた。そして次の瞬間、表情を歪め視線を伏せた。
自信家で堂々たる態度を崩したことのないゼノスの、見たこともないその表情は嫌悪とも受け取れた。
ベルミカの頬がかっと熱くなる。
「あなたが私に言ったんじゃない! いい加減相手を選べって!」
女王たる者が感情をむき出しにするなと、目の前の男から苦言を呈されたこともあったが、そんなことも忘れてベルミカは叫ぶ。
「跡継ぎを産むのも、王の責務と言ったじゃない!」
「確かに言いましたが……」
議場で政策について発言するときには、朗々と響くその声が今は弱々しく聞こえた。
「それからこうも言ったわよね!? 血統のいい相手を選び、子を成すのが役目――しょせん私は家畜と同じって」
自分の発言にまた心が傷ついた。込上げる感情を抑えきれず、ぼろぼろと涙を流しながらベルミカは言い募る。
「それなら相手はあなたで問題はないでしょう、ハイレル宰相。あなたは王家に連なる人間なのだから」
「……陛下、少し落ち着きましょう」
「落ち着いてるわ。これはよくよく熟慮して出した結論よ」
ベルミカは泣き濡れたまま、口の端を歪めて笑う。
「それとも、さすがの『悪辣宰相』閣下も家畜と番うのは御免ということかしら? でも残念ね。これは王命よ」
ゼノスが鳶色の髪をかき上げ、嘆息する。
「……陛下はそれで本当によろしいのですか?」
「もう決めました。何度も同じことを言わせないで。覚悟なき発言は慎め、と言ったのもあなたよ」
ゼノスは押し黙ったままだった。
初めて彼に対し、主導権を握れた喜びに浸れたのはほんの一瞬だった。その反応なさに段々興が削がれていく。
「……話は終わりよ。下がりなさい」
「……御意に」
丁寧に礼を取り、去り行くその背に声を投げる。
「いいこと? 必ず今晩私の寝所に来なさい。もし逃げたら、宰相は男として役に立たなかったと公言してやるから!」
その言葉に返答はなく、ゼノスは去って行った。
部屋に一人きりになると、ベルミカは堪えきれないように吹き出し、高らかと笑った。そしてそのまま、子供のように声をあげて泣いた。
※※※※※※※※※※
夜半になり、ベルミカは侍女たちの手で入浴後の手入れをされていた。つややかな黒髪に香油を塗り、緩く編み終えると、侍女たちは壁際へと下がる。
「……今日はもう寝るわ。あなたたちも下がりなさい」
女王の言葉に侍女たちは膝を折って礼を取り、部屋から静々と去って行く。その姿にベルミカは小さく嘆息する。
全員ベルミカとは十以上も年齢が離れている。地味で面白みのない女たちだ。淡々と最低限の仕事をこなすだけで、愛想の欠片のなく、気の利いた会話の一つもできない。
以前の侍女たちは美しく話し上手で、その存在はベルミカの部屋を彩ってくれた。あまりの落差にがっかりだ。
かつてベルミカが腹心の友と慕っていた侍女たちは、全員暇を出された。まだ若いベルミカを心配し、娘か孫のように助言をくれた貴族たちは牢獄の中だ。それもすべて、あの冷徹な『悪辣宰相』の手によるもの。
ベルミカの父はとうに亡くなっており、母は遠く離れた修道院にいる。この冷たい宮廷の中で、ベルミカは家族も友達もなく一人きりだった。
ベルミカは鏡の前で、額にかかる前髪を持ち上げる。そこには周囲の皮膚と色が異なる、引きつれた箇所があった。
『お前のせいで私は王になれなかったのだ、この役立たずが!』
ベルミカの父はことあるごとに、幼い娘をそうなじった。
この傷は酔って激高した父に、階段の上から突き落とされた時に負ったものだ。体にも似たような傷がたくさんあった。