機巧奇譚
数年前に書いた短編。
手直しを始めるとキリがなさそうなので、そのまま投下です。
一体何時、何処で路を間違えたのか。
気付けば男は、足元さえ不確かな、果てなど見える由もない、白い霞の中にいた。その濃さは、伸ばした手が埋もれてしまうほど。羽織った甚平の深藍色も白んで見える。先ほどまでは山路の中途にいたはず。そう心懐するが、見渡しても白一色で自然の緑は目に入らない。何より足裏の感触は険路のそれからはほど遠く、狐狸につままれたような、夢寐然とした所感に、幽世にでも迷い込んだのではないかとさえ思う。
取り乱さなかったのは、単に男が豪胆であったというだけではない。
ぐるりと辺りを見回して、ううむと唸る。雲海ならぬ霞海の中である。景色らしい景色もない。が、その白一色の世界こそが、男の頭の中で引っ掛かっていた。
自分は何時かに、ここを訪れたことがあるのではないか。
幽々とたなびく霞が刺激するのは、懐かしい童の記憶。が、十年よりも昔のそれは、淡褐色以上に褪せていて、路の先より不鮮明。手元に明瞭と残っているのは、この先に、大切だった何かがあったということだけだ。
「はて、何があったか」
もう半刻は歩いただろうか。何処までも続く平坦な路に、いい加減嫌気も差し始めた頃。男は記憶の底に人影を見つけた。当時の彼にはあまりに大きく見えた人影。南瓜大の頭部に、天上人を思わせる繊美な衣、作り物めいた、ぎこちない仕草。
――いや。
その全貌が露になった瞬間、影が陰影と色彩を取り戻したとき、彼は本当に大切だった存在を思い出した。それは彼と同じくらいの――曰く、私の方が少し背が高いと――。
何故忘れていたのだろう。
迷い込んだ路の、奥へ奥へと足が逸った。
この先には庵があるのだ。小さな、小さな、それでいて、無限の広がりを持つ、歪んだ迷い家である。そこには精巧なからくり人形に囲われて、彼女が暮らしている。大人びて、毒吐きで、妖術染みた人形師の腕を持つ彼女が。不安になるほど華奢で、引け目を感じるほど白い、彼女が。
男はもう一度、心の中で繰り返した。
何故忘れていたのだろう。
大切な約束だったのに。
☆
一向に晴れぬ霞の中に、ぽつんと寂しい草庵を見つけたときの、彼の心境と云ったらもう、筆舌には尽くせないほどだった、記憶に佇む襤褸と何一つ変わりなかった。となれば、彼女がいないはずがない。もう確信は歓喜と一緒くたになって胸裏を満たし、心は紙風船のように膨らみ、浮ついた。躊躇もなしに中へ入ると、やはり、待ち受けていたのは人形である。大小さまざまな人形が、戸口から庵の奥へと、整然と白磁の顔を連ねている。
その果ては暗く陰って見えない。あの外観からは考えられないほど、この庵は広く、複雑な構造をしているのだ。そもそも、庵ではないのかもしれない。と、主に似たのか、酷く歪んだ庵を改めて不思議に感じながら、そんなことを思った。
土間に並んだ人形の間を縫って行くと、開けた空間に出た。無残に解体された人形が、飢えた乞食のように、四方に散らばっている。その中心には、茣蓙が敷いてある。が、今は作業中ではなかったようだ。十字に分かれた四本の道を睨んでから、男は全くの勘で、うちの一つを選んだ。
果たして、その選択は正解であった。
突き当たったのは勝手場であった。男はそこで、淡雪のような白髪を尾と結い上げ、薄紅の小袖を振り振りと、炊事に勤しむ小さな影を認めて、吹き零れんばかりの懐かしさと喜びに、思わず飛び上がってしまった。抱きついてしまおうか。思ったが、今の今まで、約束どころかすっかり彼女のことを忘れていた男である。流石に尻込みした。ああこの無上の喜びを伝えたい。しかし、自分に彼女に触れる資格があるのだろうか。そんな風に男が煩悶していると、妙に騒がしい背後に気が付いたのか、少女が振り向いた。彼女は眉間に皺を寄せて考え込む男を見て、目を丸くした。
「また来たのか」
溜息と共に、少女は片手で顔を覆った。
何処か不機嫌そうな態度。されど、男には全く以て気にならなかった。幼くも嫣然と薄らに伸びた眉目、つんと勝気そうな鼻端、人形のそれと見間違うほどの白い頬。そして、そこに掛かる、霧雨が凍えたような長い白髪と、雪原の白兎を思わせる朱色の瞳。耳朶を甘く打つ、柊の実を鈴にして鳴らしたような声音もまた、ああ、十年昔と変わっていない。裡からせり上がってくる懐古に、欣喜雀躍する彼は、それまでの葛藤も忘れ、童に戻った気になって、
「糸織!」
「ええい、くっ付こうとするな気色悪い!」
飛び付いた男の身体を、糸織はぐいと引き剥がす。その体躯からは想像も及ばぬ怪力に、これまた懐かしさを感じながら、男は大人しく引き下がった。待てを喰らった犬のような体を晒す男を、上から下まで走査して、
「本当に蓬なのか。二度と来るなと云ったろうに」
「覚えていてくれたのか!」
「ええい、寄るな寄るな鬱陶しい。お前など知らん。とっとと帰れ」
「か、帰れとはなんだ。せっかくまた会えたというに」
「儂は会いとうなかったわ」
きっぱりと云い切る糸織に、蓬はぐぬぬと歯噛みをした。云い返せない蓬に、彼女は諦観の視線を送ると、はあ、とまた溜息を吐いて、くるり背を向け、
「ま、来たものはしょうがないがの。招かれざる客でも客は客じゃ」白髪を下ろし、円陣竈の前に立って、「お前も食べるだろ。それとも腹は減ってないか」
「もらうもらう。云われてみると腹が空いて仕方がない気がする」
彼女は振り返ることもせず、「変わらず食いしん坊か」
「ああ。糸織も変わらぬな」
「お前は大分変わったようだがな」
糸織は漆器椀に草粥を盛り付けると、すぐ隣の床へと上がって、囲炉裏の前に一つを置いた。もう一つを蓬へと手渡し、「床が汚れるからお前はそこに腰掛けて食え」
囲炉裏に火をくべ、自在鉤に茶釜を掛ける。蓬とて山道で足を汚したまま人様の家の床へ上がる気にもなれなかったから、不平を洩らしはしなかった。ただ床にちょいと腰を下ろして、半身を捻ると、囲炉裏の前で粥を啜る糸織の方を向きながら、「あとで足盥を貸してもらえるか」
「粥を食ったら出してこよう」
しばし無言のまま飯を食らっていると糸織が、「なんだ先から」
「なんだとは」
「じろじろとこちらを見つめおって、気になって飯が通らん」
「粥だぞ」
「粥も通らんほど気色悪いのじゃ」
じろじろと見ていたつもりもなかったが、云われてみれば確かに、蓬の視界の中心には、ずっと糸織があった気がする。蓬は非礼を詫びてから、
「しかし、本当に変わらんな」
刺々しい彼女の態度はもちろんだが、姿形も十年前から全く変わりない。だからこそ蓬も一目で糸織だと気付けたのだし、こうして気楽に振る舞えるのだが。
「不気味か?」
「いや、全く」
道理にそぐわぬことではあるが、十年も昔から超然としていた少女である。何より現世か幽世化も分からぬ辺境に住む糸織が、今更人でないと云って何を忌むことがあるか。
彼女は溜息交じりに笑って、
「そういえばこの髪も目も気にならないとほざいた餓鬼だったな」
「改めて見ると面妖だが、異人には青目で赤や黄色の髪の者も珍しくないと聞く。騒ぎ立てる方が自らの寡聞を晒すようで見っとも無い」
「何が異人か」ぺっと吐き出すように、「文明開化か」
「仙人のような暮らしをしている糸織には関係ない話か」
「田舎で畑耕してるお前にも関係ないだろうよ」
違いないと笑って、蓬は椀を置くと、手を合わせた。久しぶりに食べた糸織の草粥は、染み入るほどの美味だった。そう伝えると、糸織は照れた様子もなしに、世辞はいらんと突っ撥ねた。連れない奴だと苦笑い、
「まだ変わらぬ暮らしをしているか?」
「とは」
「人形作りをしているのか?」
「人形を作った覚えはないが、新しいことを始めた覚えもないな」
蓬が初めて訪れたのは十年前。あれからずうと、糸織の時間は凍ったように変わらぬらしい。嬉しい反面、やるせなさも覚えた。蓬は自分以外に、生きた人形を見かけた記憶がない。成長の盛りにあった蓬にすら、十年は長く感じたのだ。その茫漠な歳月を、彼女はどれだけ味気なく感じたことだろう。
「ま、お前の云う通り、味気はないがな。悪いもんでもない」
「そうか?」
「図体だけでかくなって、全く成長していないお前の十年よりは中身もあったはずだしな」
「なにおう!」強気に返してやろうと思ったが、さりとて、彼女の前ではあの頃と同じ振る舞いしかできていない。あまりに説得力がないと分かれば、語調も弱まる。「こ、これでも若い衆の中じゃ顔役なんだぞ」
糸織は空になった椀を置いて、茶を啜り、「嘘吐きも変わっておらんな」
「昔から嘘など一つも吐いたことはない!」
蓬は村では堅物の、よく云えば青臭さの抜けた、悪く云えば老けた若者として通っていて、実際、評判は悪くなかった。そもそものところ、彼が堅物と評されるのは、旧来の生真面目さに起因するのだから、全く順当な評価と云えよう。
しかし、糸織は微塵も信じる素振りを見せず、
「じゃあ私は釈迦か耶蘇か」
「糸織は道士の類だろう」
「開祖にでもなるか」
「入信はしないぞ」
「嘘吐きの餓鬼は門前払いじゃ」
手を払う糸織に、「誰が餓鬼か。俺だって――」
だって、と。
喉まで出かかっていた言葉は、しかし、空気に触れることなく消滅した。用意していた弦が、手に取り結ぼうとした瞬間に解けてしまったよう。奇妙な焦燥に囚われながら、糸を手繰るかの如く捲き戻すが、記憶は醒めた明朝のそれと同じく、泡沫と化していくばかりで、残滓すら手には残らない。
「お、俺だって、だって」
「蓬?」
血相を変えた蓬に、糸織も首を傾げた。
何か大切なことを忘れている気がした。糸織とはまた別に。身の一部が切られるのにも似た、痛切な喪失感だけがあった。幾ら記憶の海に潜っても、拾い上げることは不可能と、半ば直感的に分かっているのに、探さずにはいられない。
我知らず荒くなっていた呼吸が、ひんやりとした頬の感触に収まった。
いつの間に距離を詰めたのか。糸織がそっと、その白い手を当て、朧のような笑みを浮かべていた。
「大丈夫だ」今にも消えてしまいそうに見えた。「大丈夫だから、少し眠れ」
身体の力が抜けていく。重力に身を預けることには不安しかなかったけれど、糸織の儚げな笑みと、希薄な存在感は、どうしようもなく蓬を安堵させた。意識が落ちる寸で、包まれたのは、彼女の体温か、彼を全肯定する幽世の大気か。
――本当に仕方がない奴だな。
誰かが囁いた気がした。
☆
一体何時、何処で路を間違えたのか。
お父の生まれ故郷である隣村の、年に一度の祭りの帰り。はぐれたのは經木に包んだ握り飯を食べたあとだから、午を少し過ぎたあたりだったろうか。彷徨っているうちに日が暮れ始め、嘲笑う烏の声に堪えかねて、泣き出したところまでは覚えている。
釜から昇る湯気よりも、白濁とした霞の中。蓬は一人とぼとぼと、右も左も分らないのに、帰り路を探して歩いている。声はもう枯れた。どちらにせよ、お天道様も隠す霞に、放吟も吸い込まれてしまいそうだけれども。
昼なのか、夜なのか。それさえ定かではない。
頬に触れる湿り気に慰められながら、がむしゃらに真っ直ぐ行くと、庵を見つけた。霞の中にひっそりと隠れたその庵は、哀れなほどの襤褸屋だった。済んでいるのは仙人か妖か。世捨て人の住むところですらないと思う。
ただ、見回しても白が満ちるばかりで、物陰人影一つない。
意を決して戸を叩く。返事はない。耳を澄ましても物音一つない。不在だろうか。もう一度、今度はもう少し力を強めてみる。やはり何も返ってこない。やにわに心細さが膨らんでいく。振り返れば、霞はなお以て密度を増し、蓬を呑み込まんとしているようにも見える。
誰も住んではいないのではないか。
この襤褸屋である。そういうこともあり得る気がした。いや、そうに違いない。まずは覗き込んでみようと、蓬は縁側に膝を乗せ、戸を滑らせて――気付けば、無数の人影が並んだ、土間に立っていた。
蓬が呆けてしまったのも、詮無いことだったと云える。
わっ、と上げた自分の声に驚いて、蓬はその場でぴょんと跳ねた。跳ねながら、すぐ脇で、壁を背に預け座している人影に腰を抜かし、物の見事に尻餅をついた。あわわあわわと狼狽えずりずり後退している最中に、やっと、人影がぴくりとも動かないことに気付いた。
よく見れば、それは精巧な人形である。
白粉を付けたように色のない顔を認めて、蓬はほっと一息ついた。果てまで続く人形の列が不気味でないと云ったら嘘になるが、妖や怪でないだけ儲けものである。
しかし、人形があるのであれば、持ち主がいるのではないか。
兎角、人形とは云えこうも囲まれていれば心も休まらないと、蓬は庵――庵と呼んでよいのだろうか――の中を歩き出した。何となく予想はしていたが、どうにもこの庵、外見とは裏腹に、空闊の極みであるようだ。歩いても歩いても、行き止まることを知らない。やはり仙人か妖の隠れ家だったのか。そう思い始めた頃、一人の少女を見つけた。
妖の隠れ家だったのだ。
吊るされた灯りの下、空所に茣蓙を敷いて、少女は人形弄りをしていた。少女が玩具遊びに興じること自体は何らおかしくないが、その少女の髪が年老いの如き白髪で、しかも、あろうことに、人形が食い荒らされたように四肢を投げ出し、四分五裂しているとなれば。
小さな悲鳴に振り返った、白髪の陰から覗いたのは朱色の瞳である。
きゅっと音を鳴らして肝が縮んだ。蛇に睨まれた蛙だった。取って喰われると確信しているのに、足が、身体が動かない。朱塗りの瞳の眼光に、蓬は貫かれ磔にされていた。淡黄の灯りが、こめかみを滑る汗を照らしていた。
「珍しいな」
見た目相応の、つまりは蓬と同年代の少女と同じような、囀りにも似た、高調子の音だった。しかし、村にいる彼女らより静淑で、気韻に溢れているようにも感じる。確実なのは、想像の中の、しわがれた声からはほど遠かったということ。
拍子抜けしたからか、金縛りは嘘のように溶けた。
少女は手を止め、膝を立てた茣蓙の上から、上半身だけを乗り出して、蓬の顔を覗き込むと、
「独りでに来たのか」
本当はおとうと二人だったのだがはぐれてしまったのだ。そう伝えようとしたが、如何せん、潰れた喉では、音を鳴らせても声を発することは能わない。少女はしばらくうんともすんとも云わぬ、遅れたような蓬を見つめていたが、
「もしや声が出ぬのか?」
蓬は戸惑いながらも頷いた。
「ほうん。枯らしたか。やれやれ、面倒だな」
立ち上がると、少女は蓬の方を一瞥して、
「ま、粥でも喰えばよくなるだろう」
粥はそこまで万能ではないと、やはり、蓬は伝えることができなかった。
☆
目を覚ますと、色褪せくすんだ天井の、大きな梁が目に入った。家のそれではない。不思議に思って身を起こして、やっと蓬は合点がいった。よろよろと床を抜け出し、彼女を探す。
屋内に揺蕩う、空腹に響く芳香に誘われて、辿り着いたのは勝手場である。
「おう、起きたか。朝餉はもう少し待ってくれ」
糸織は朝支度をしていたようだ。普段通り――恐らく――後ろ髪を結い上げ、何処か機嫌よく円陣竈の前に立っている。煮え立つ鍋から、お玉で一口分を掬い口に運ぶと、「あちっ」
「朝餉?」
聞き返すと、糸織は椀を並べながら、
「雑炊だ。食べるだろ」
「いや、そうじゃなくて。俺は一晩眠っていたのか」
「ようだの。どこか痛むか、気分はどうだ?」
素っ気ない口振りながらも、甲斐甲斐しく気を掛ける糸織に、蓬は不穏なものを感じた。が、まだ靄の掛かった寝起きの頭では正体に至るべくもないと諦めて、
「特には。腹も減っている」
「うむ。それがいい」
囲炉裏を挟んで、二人向かい合っての朝餉とする。相も変わらず、糸織はつんと宙へ視線を向け、蓬を視界の端に留めようともしない。折角糸織と共にいるのに、これでは彼女の雑炊も味気なく感じる。
「そういえばな」何気なさを装って、「夢を見た」
「そりゃ眠れば見るだろうよ」
「そうではなくてだな。それが昔の夢だった気がするんだ」
至極興味も薄そうに、「昔?」
「ああ。最初にここに来た頃の」
糸織は溜息を吐いて、「よく覚えているな」
む、と小さく返事をして、蓬は少しだけばつ悪く、座を整えた。覚えていたわけではないのだ。水底に沈んでいた記憶が、糸織と再会したことでかき回されて、水面下まで舞い上がってきたという話。沈黙に糸織も察したろうが、さして気にした様子もなく、
「どれくらい経ったかな」
「十年だな。十年」
「十年か。長いような短いような」
「み、短いような、か」
「餓鬼が大人になる程度の時間だろう。私には大した流れではない」
糸織の希薄な時間感覚に驚きつつも、十年昔と同じ姿の彼女に云われてしまえば、結局のところ、大人は子供の延長でしかないように思えて、返す言葉も浮かばなかった。
彼女は茶碗を置くと、
「そんな餓鬼である蓬に使いがあるんだが」ただ飯食らいの蓬である。出来ることなら何でもするつもりだった。「夕餉には魚が食いたいとは思わんか?」
「魚?」頷く糸織に、蓬は記憶を巡らせて、「魚って、いるのか?」
あの白い靄の中である。魚どころか、水辺があるのかも分からない。仮にあったとして、見つけたときには時既に遅し。泳げない蓬は水の中である。
「安心しろ。ここを出て下って、水音を頼りに進めば川に出る。あとで道具を持ってくるから、仕掛けてきてくれないか」
「蓬は?」
糸織は少し言い淀んだが、
「ちょっと日課の用がな」
「そっちは手伝わなくてもいいのか?」
問うと、彼女はふわりと白髪舞わせて首を振った。
「よいよい。それより魚だ魚」
食事を終え、面白い構造をした硝子瓶と魚篭を渡されて外に出てみれば、彼女の云う通り、霞は晴れ、長閑な春山が広がっていた。緩やかな傾斜は上方にも下方にも続いている。遠くに鳥の声を聞き、足元に咲く白い一輪草を認めるのは蓬のよく知る光景だが、意識を細部にまで向ければ、見覚えのない草本もちらほらと見受けられた。野山を遊び場とすることの多かった蓬も、博識からは程遠い。寡聞にして知らない可能性もあったが、
「ことこの場所だからなあ」
切り傷がかぶれたりしないだろうか。虫に刺されたところが腫れ上がったりしないだろうか。そんな風に祈りながら、獣道を下っていく。
「にしても今は春だっただろうか」
名も知らぬ、獣の尾にも似た、青紫の花を見て、蓬は小さな疑問を呟いた。
春だったと云われれば、春だったような気もする。否定する根拠は持ち合わせていない。一方で、夏だったと云われれば、夏だったような気もするし、同様に、秋冬だったと教えられても驚くことはないように思われた。四季全てに現実感があり、現実感がなかった。
まるで昨日まで、四季が入り交ざった中で暮らしていたよう。
「そんなわけはないんだが」
記憶は欠落しているわけではない。四季という色も分らぬほどに、褪せてしまっているだけだ。もしくは、蓬自身が、あちらでの生活に対し興味を失くしてしまったのかも。糸織に云えばまた小言を吐かれるだろうな、などと思っていると、意識を逸らすのには丁度いいことに、せせらぎが耳を打った。
木々の間を縫って顔を出せば、小川が横たわっている。
「ここか」
恐る恐る近付いて、川面を覗き込めば、底の小石も見通せるほど透徹としている。
ゆるゆるとした水流に、時に逆らい時に流される影を認めて、蓬も男と意を決した。
実のところ、この蓬、水辺が大の苦手である。川海泉、田圃や用水路ですら好きではない。生まれからずっと苦手だったのかと問われるとそうではなくて、小さな頃は平気の平太郎であったはずなのだ。いつの頃からか、それは本人にも記憶がない。兎角残されたのは、今は犬畜生が嫌うように、水気のある場所を避けている、という情けない事実だけである。
しかし、糸織の頼みとあれば。
「ええい、飲み水も川水も変わらん変わらん」
近場の小枝に衣服を掛けて、裸になると、蓬はずずいと小川への進行を開始した。川辺にしゃがみ込んで、手を差し入れる。春の日に相応しい、魚もうたた寝しそうなほどの緩流である。
「行くぞ!」
飛び込めば、膝より上が濡れることもないほどに、水底は浅かった。蓬もあまりのあっけなさに赤面した。これでは糸織の云う通り阿呆である。瓶を設置し、ついでに水浴びを澄ませさっぱりとする。何故苦手意識を持っていたのか、いよいよ謎めいてくる。衣服を羽織ると、手近な枝に、そこらで拾った蔓を吊るして、目印を作った。これで、川さえ見つけることができれば、ここへもう一度辿り着くことができる。
思いの他早く済んでしまった蓬は、下流へと視線を向けた。
「……下ってみるか」
まだ日は登り切ってすらいない。できることなら一生でも逗留する腹積もりである。地理に詳しくなって、無駄ということはあるまい。蓬は川沿いに、山を下ってみることにした。
☆
夕頃、魚篭に二人分の得物を入れて、蓬は糸織のもとに戻った。彼女は魚の銀腹を一瞥すると、珍しく上機嫌に蓬を労った。本来なら、小躍りして然るべき一言である。が、蓬はただああ、とだけ上の空で返事をして、床の間に腰掛けると、夕餉の支度をする糸織の後姿を、ぼうと眺めるに留めた。
竹串に刺して、囲炉裏の灰で炙った魚は、美味だった。
ただ、それが表情や態度に現れなかったからだろう。糸織は食後の茶を啜りながら、
「旨くなかったか」
蓬は返事を渋った。糸織から話し掛けてくることは稀である。確かに美味ではあった。美味ではあったが、美味であった、と答えてしまえば、それで糸織は会話を終わらせてしまうのである。蓬は逡巡の後、唐突ながらも切り出した。
「日中な。山を下りてみようと思ったんだ」
蓬が二の句を継ぐよりも早く、糸織は察したようだった。白髪を耳元で掻き上げると、
「阿呆だな」
「あれは何がどうなっているんだ?」
魚の味よりも鮮明に、蓬の脳裏には、麓の光景が残っていた。
空より高い山に昇れば、眼下に雲を望むことができると云う。雲海と呼ぶらしいが、麓へと掛った、霞よりもずっと重い、白い瘴気を前にしたとき、蓬はその言葉を思い出したのだ。山の緑が突如にして、一寸先も見えぬ、白い濃霧に呑まれる。二十年近く生きて、一度も見たことがなかった。恐怖に尻尾捲いて逃げ出したことを、恥とは思っていない。
「儂にも分からん」
「下りれるのか?」
「無理だ無理。そもそも、あの先に何かがあるのか、誰かがいるのかすら怪しい。儂にはやることがあるし、確かめる時間も、興味もない」
平然と答える糸織に、蓬は微かな苛立ちを覚えた。
「糸織はいいのか。こんなところに閉じ込められたままで」
「何を熱くなっているか知らんが、蓬にとやかく云われる筋合いはないぞ」
「筋合いって」
とん、と湯呑を膝上に置いて、糸織は背を伸ばし、動揺する蓬の目を見据えた。
「あのなあ。儂はこれでもここでの暮らしは長いんだ。云っちゃあなんだが、ここで人形を直しながら、ゆるりゆるりと生きていく暮らしが、どうして悪いんだ?」
「わ、悪いとは云っておらん」
「云っているようなものだろう。お前は自分の故郷をこんなところと云われて良い気持ちがするか?」
「そ、それは」蓬はすごすごと引き下がるしかなかった。「俺が悪かった。謝る」
「素直さだけは認めてやるがの」糸織が立ち上がると、白髪が生き物のように波打った。彼女は蓬をちらりとも視界に納めず、呟くように、「本当に儂のことは気にせんでよいのだ」
洗い物の為、勝手口から外へ出ていく糸織を、蓬は力なく見送った。確かに、表現が悪かったかもしれない。しかし、自分の云いたいことが伝わらなかったとは思っていなかったし、自分の云い分が間違っているとも思ってはいなかった。
食後の茶を口に付ける気にもなれず、蓬は水音を聞いていた。
☆
蓬は寝入りの良い方である。
赤ん坊の頃は揺すれば眠り、夜泣き一つなかったと云う。
それが今晩はどうであろう。布団に入ってもう一刻は経っただろうか。櫺子の窓から覗く月光が、いやに明るく感じた。もぞもぞもぞと、体勢を変えては懸命に眠ろうと努力していたのは半刻も前の話で、今は斜光に煌めく塵を眺めて、自然と眠りに落ちる瞬間を待っている。
夜がこんなにも辛いとは知らなかった。
浮かんでは消え浮かんでは消え。それこそ宙へ舞い上がり、半瞬だけ煌めいては闇に溶ける塵と同じく、詮無い思考は取り留めがない。記憶のこと。幽世のこと。そして何より、糸織のこと。いや、並列はできないだろう。彼の頭は、九分九厘、糸織で一杯だったのだから。
それもそのはずである。
すぐ隣で布団を敷いて、糸織は横になっているのだから。
約束はした。確かに約束はしたと思う。だけれども、嫁入り前の糸織が、幾ら自分とは云え同じ部屋布団を並べて一晩過ごすと云うのは如何なものか。蓬だって男なのである。十年昔とは違う。もう立派な男なのである。彼女にとっての十年と、彼にとっての十年が等価ではないという事実を、見落としている気がしてならない。
別に、彼女の肢体に欲情しているわけじゃないけれども。
彼女の幼い肢体に感じるのは、哀愁や懐かしさに近く、人生経験豊富と云い難い蓬にも、それが異性の身体に対する憧れでないことは承知していた。それでいいと思う。彼女に何したいさせたいわけでもない。十年前、まだ幼かった自分が約束を交わしたときの、純粋な感情のまま隣にいたいと願って何が悪い。
心中、一人云い訳がましく、世間一般の男女観に異を唱える蓬だったが、さりとて、時折鼻腔をくすぐる、何とも云えぬ妙香だけは勘弁して欲しかった。不思議である。人でないからだろうか。水と果実だけで生きているのではないかとさえ思えた。
これは夜も長くなりそうだ。いっそ月見でもしようかと、床を抜け出そうとすると、
「眠れぬか」
闇に薄刃を入れたように、糸織の声が響いた。
わっ、と蓬は跳ねて、布団の上に転がった。反動で埃が舞って、光の中で渦を描く。「おおおおお起きていたのか」
「何を動揺している」
「しししししししししておらん」
無理があった。無理しかなかった。
ごそごそと、糸織が布団剥いで身を起こす。甲羅の重さに起き上がれない亀の如き痴態を晒す蓬を見たのか、楽しそうな声音で鳴らした。
「なんだあ、もしや儂に悪さでもしようとしていたか」ぶんぶんと音がするほど首を横に振る蓬に、「変な所だけ成長しおってからに」
「違うと!」
「では何故ひっくり返る必要がある」
蓬は少し悩んで、「化け物でも出たかと」
「誰が化け物か……って似たようなものだったな」
「あ、いや、その、なんだ」
食って掛かられると思っていた蓬は狼狽えたが、糸織はそんな蓬の心の機微も、闇の中から見通して、夜風に流れて行く雲の軽さで、「分かっておる分かっておる」
しん、と座には沈黙が下りた。重苦しくはなかった。蓬には、糸織が彼の言葉を待っているように思えた。「約束のことを覚えているか」
「十年前のか?」夜闇に糸織の声だけが届く。「忘れた、と云いたいが。十かそこらの餓鬼に夫婦になろうと云われた衝撃は、中々な」
面と向かえば恥ずかしい会話も、闇の中であれば紛れるものだ。一生の決断を迫るには、卑怯な手かもしれないが。「今でも俺は同じことを云えるぞ」
「成長していないってことだな」
「糸織、冗談ではなく、」
糸織はぴしゃりと、「儂とて冗談で云ってるのではない。蓬、飯時云ったことを覚えているか」
「あれは、すまなかった」
「謝らなくていい。ただな、お前がああいった理由をもう一度思い出して欲しいんだ。たぶん、ここが退屈だと思ったからか、外の世界の方が優れていると思ったからだろうが、どちらにせよ、蓬は自分が生きるべき世界を知っているんだ」
「そんなもの、」
「そんなものなどと云うな。今は薄れて、矮小に感じるかもしれないが、それらはお前にとって大切なものなんだから。いいか。お前は帰るんだ。一人で。儂にはやることがある。覚えているか。お前にとっての十年前にも、同じことを云った」
「……そうだったか」
「儂の言葉を忘れてしまうほどに、お前は大切なものを詰めてきたんだよ」
丸きり云い包められて、蓬は布団の上で膝を抱えた。もしも同じ言葉を掛けられていたのなら、十年前の自分も、無力感に苛まれたのだろうか。
それでは全く成長していないではないか。
ふと顔を上げると、いよいよ夜も更け、中天より下り始めた月の光が、櫺子の窓より角度を変えて、糸織の一身に注いでいた。仄かな灯りに照らされて、浮かび上がった糸織の姿は、ああ彼女は間違いなく人ではないのだと、言葉でなく理解できるほどに幻想的で、もしも蓬に彼女との面識がなければ、夜光虫を纏って現れた、海神か乙姫の親戚かと恐れすら抱いたことだろう。
もしかしたら、と。
もしかしたら、十年前の、無力さに打ちひしがれた自分も、今のような彼女を見て、いややはり彼女と共にありたいと、願ったから今があるのではないだろうか。
月光に晴れた闇の雲間から、糸織は儚げに微笑んで、
「眠れぬなら、人形でも見ているか」
☆
淡黄色の照明は、月光とはまた趣が異なる。云えるのは、人工の灯りは自然のそれよりも温かいということ。蓬のすぐ隣、敷いた茣蓙の上で、迷いなく手を動かして、人形の体内に生きた機巧を仕込んでいく糸織を見て、それは人肌の温かさにも似ていると、何気なく蓬は思った。
「妙に静かだの」手を止めた糸織は、傍らの蓬を見上げて、「昔は鬱陶しいほどだったのに」
「どうせ聞いても分からんからな。見ているだけでも楽しいし」
「殊勝なことだ」
複雑怪奇な体内の仕掛けは、腹に詰まった臓器にも似ている。素人目には、どれがどんな役割を担っているのか、てんで見当もつかない。しかし、その全てがかちりと噛み合って、やっと一つの機構として成立することを、種明かしの前に皆知っている。
木製の、無数の部品を組み上げて、小さな機関とする。そこに大小様々な歯車を噛ませて繋げ、糸を伸ばし、最終的に、一本のぜんまいで仕掛けが作動することを確認すると、糸織は次の人形へと取り掛かる。
「一から作っているわけじゃないんだな」
糸織は人形に意識を凝らしたまま、
「前にも云ったろう。私は修理専門だ。一から作っているわけじゃない」
初耳だった、はずである。
「じゃあいつかの茶運人形も、音を鳴らすあれもか」
「あれもそれもこれもだ。変な所だけ覚えていて肝心なところは覚えてなんだな」
「あれは忘れんだろう」
「泣いてたからな」
「ああ、泣いた」
茶を零して、糸織に盛大に叱られたところまで明瞭に覚えていた。怖かったのだ。幾ら巧くとも人形は人形。生のない物が生のある者の振りをする様は、幼心に不気味に思えた。
懐かしくなって、同じものがもう一度見たいと頼み込むと、
「あれはもうない」
「ない?」
「修理だからな。直ればあるべき処へ帰るのが筋だ」
寝耳に水である。蓬は目をぱちくりとさせてから、声を荒げた。
「あ、あるべき処とは!?」
糸織は手を止め鬱陶しげに蓬を睨み、
「人形はお前たちの文化だろう。仕方ないから置いてやってるだけで、儂には人形を眺めて愛でる趣味はない」
それはつまり、ここと現世とを行き来できるということだろうか。ならば、
「顔に出てるぞ」
はっとして蓬は顔を覆ったが、もう遅い。
「それはできないし儂が許さん。帰ったら二度と来るな」
「お、俺はまだ帰ると決めてはいないからな」
糸織は身を乗り出すと、蓬の額を小突いて、「今までだって一人で生きてきたわけじゃないだろうに。少しは周囲の人間のことを考えろ。いつまで餓鬼でいるんだ」
気分を害したのか、直し掛けの人形を置いて、糸織は立ち上がった。「もう寝る」
不意の子供っぽい口調に、蓬は噴き出してしまった。むっとした糸織の睥睨に、視線を泳がせながら苦笑い。糸織はぷいとそっぽを向くと、やにわに灯りを消した。
「あ、糸織お前」
「そこで野たれ死ね」
屋内で野たれ死ぬとはこれに如何に、と笑えないのがこの庵である。今にも床が底なし沼と化してもおかしくない。慌てて立ち上がって、糸織に飛びついた。
「わっ莫迦、どこ触っておる!」
後頭部に強烈な衝撃を喰らって、蓬は目前に火花を見た。
「ひ、肘で打ったな」
「当たり前だ痴れものめ。いい加減離れろ」
身体を揺すり、ふるい落とそうとするが、蓬だって必死である。芳香だ肢体だと悶々としていたのが嘘のよう。ただじゃれつく子犬の兄妹のように、仲が良いのか悪いのか、罵詈雑言を交えつつ、投げては付いての大立ち回り。
そうこうしているうちに、幽世の夜は明けていく。
☆
目の下にくまを浮かばせた蓬は、音を立てる腹を宥めながら、糸織の背を追っていた。山登りの最中だった。長閑な春山と云えど徹夜明けでは堪える。幸いにも、普段から糸織が通るからか、道は踏み固められていた。
「どこへ行くのだ」
問うても、糸織は一言も返してはくれない。回り込んで顔を覗き込めば、何やら神妙な面持ち。どうにも胸騒ぎの収まらない蓬だったが、それは限りなく第六感に近いもので、対処のしようがなかった。ただ、絶対に彼女の傍からは離れるまいと、胸に刻む。
一帯から草本が失せるまで、一刻には満たなかったはずである。
見渡せる距離に、白雪が積もっていた。かなり高くまで登ってきたようだ。振り返れば、木々に埋もれて、庵は影も形もない。二人より一足先に昇り切った太陽を、いつもより近くに感じながら、「寒くないな」
「日が出ているからだろう」
感情の篭っていない返答は、単なる相槌に過ぎないことは明白だ。しかし、それより気になるのは、残雪に染まった山頂付近での、糸織の目的である。草本はもちろん、山鳥や獣の姿もない。と、蓬は、所々に雪の被った凹凸を見つけた。
「もしやあれか」
「うむ。済まないが手伝ってくれないか」
お安い御用と安請け合いして、雪の上をさくさく歩く。足裏に冷たさは感じたが、悴むほどではなかった。糸織と二人、手分けをして掘り返していくが。
「いいいいいいいいい糸織!」
なんと、雪の下で眠っていたのは人であった。腰を抜かした蓬に、掘り返した人を背に乗せた糸織が寄って、「よく見ろ。人ではない。人形だ」
見れば確かに人形である。生気はない。雪の下にいたのだから、生身の人間でも生気は遠に失せているだろうが、「ににに、人形でもおかしいだろう!?」
「ここにきておかしくないことが一つでもあったか?」
糸織の冷静な一言に、蓬もやっと落ち着いた。ひいふうと呼吸を整えながら、雪の上に寝かせた人形を眺めて見る。
「よくできているな」庵にあるものと比べてもそん色ない。「もしや」
糸織は背に負った人形を、蓬が掘り起こしたものの隣に並べる。「うむ。儂が修理しているのは、ここへ流れ着いたもの達だ」
小一時間作業をすれば、ひいふうみと全部で七つも眠っていた。大人の人形五つに子供が一つ。大きさは一つ覗いて等身大。糸織はその場で検分すると、七体の人形を二つに分けた。三つの方を蓬に託すと、四つを両肩に乗せる。
「俺がそっちを持った方がよいのではないか」
提案すると、糸織はいつになく強い語調で、
「駄目だ。お前はそっち。儂はこっち。それより、庵まで持つか?」
「持つ持つ。このくらい」
大人人形二つを肩に乗せ、達磨大の人形を小脇に抱えながら、蓬は気張って見せた。大人人形一つで子供一人分程度の重量だろうか。内部に詰まった機巧を勘定に入れれば軽く感じる。これもまた、幽世の力かもしれない。
行きよりも緩い速度できた道を下れば、庵についた頃には彼方に紫雲が見て取れた。朝昼夜が一食になってしまいそうだ。糸織の指示で、担いでいた人形を庵の中に入れ、代わりに昨日彼女が直した人形を持ち出してくる。
「これらは?」
「これは別の場所だ。付き合ってくれるか」
蓬が否と答えるはずもない。
頑として人形を渡さない糸織に、蓬は口を尖らせながら、山は下り路である。いい加減足に疲労も溜まってきたが、糸織の方が負担は上。泣き言一つ洩らしてはならぬと口を固く縛る。しかし、糸織には隠し通せなかったようで、例の小川で一休憩を挟むことになった。
さあと川沿いに下って、このままでは靄の壁に突き当たるというところで、
「この辺でいいかな」
全く出し抜けに、糸織がぽいと、川面へ人形を投げた。
仰天して、思わず人形へと伸ばした蓬の手を、糸織が制した。不思議にぷかと浮かんだ人形は、ゆるりゆるりと流れて行く。蓬はそれを、呆然と目で追うことしかできない。布地は水を吸うし、時が経てば、木は腐り体内の機巧は瓦解してしまうだろう。だが、小さくなったそれを救うことも、緩やかとは云え水の流れを止めることも、蓬にはできないのだ。
視線を上げれば、糸織もまた、白髪を靡かせながら、何処か遠くを――例えば故郷を――見ているような、寂しげな目で、遠ざかる人形を追っていた。
「直せぬのなら、手遅れになる前に還すだけのこと」ひとりごちて、「ほら、蓬もそれを流してくれ」
「な、せっかく直したのにか?」
蓬の前に、糸織がしゃがみ込む。木々の間を通って吹いた春風に、白髪が蓬の鼻先を撫でた。我知らず抱え込んでいた人形に、糸織の白い手がそっと触れ、滑って、蓬のそれと重なる。
「直したから、還すのさ」
大した力が掛かったわけでもないのに、人形は、まるで蓬ではなく糸織の腕の中に納まることを望んでいるかのように、蓬の手を離れ、糸織に移った。彼女はちょんと首を傾げて、幼子に接するよう微笑んだ。初めて見る、彼女の無邪気な笑みだった。瞬きすら惜しいと思ってしまうほど鮮烈な光景は、一方で、幾千の瞬きの後も、瞼の裏に鮮明に焼き付いていることだろう。さあ、と掛け声と共に、人形が宙に踊って、一拍のあと、水音に消えた。
人形が再び浮かぶ間もなく、糸織が、
「さて、まだ一つ残っているな」
稚い笑みを蓬に向ける。小川を背にした蓬には、逃げる場所がない。
「やめてくれ」
「悪いな、蓬。それだけは聞いてやれん」
「もう少しだけ」
「歪んだ幽世がそれを許さなんだ」
「冗談か?」
「違う。夢だ。目覚めたとき、お前は全てを忘れる」
違う。夢ではない。頬を撫でる新風も、心地よい日差しも、花と交った彼女の香も、背に流れる水流も、眼前に咲く、最後の一輪草みたいな微笑も、ありありと感じることができるのだから。何より――そう、何より。
「俺は思ったんだ。何か大切なものを忘れているって。誰にも云えなかった。そんなわけの分からない理由で所帯を持ちたくないなどと抜かすことはできなかったからだ。でも、そいつは俺から離れなかった。譲れなかった。だから俺は村を出て」
ろくな備えもなく出て――。
糸織の声が震えたのは、たぶん、おかしかったからだろう。
「莫迦な奴」
「……だから流れ着いたのか」
十年前の状況と、流れて行った人形と、照らし合わせて、蓬は一つの答えを得た。
「だから来るなと云ったんだ。儂は」
「あの流した人形達は」
「直したものは次期目覚めるだろう」糸織は力なく首を振って、「そうでないものは、せめて自らが生きた世界で終わらせてやりたいからな」
糸織のやるべきこととは、つまりそういうことだったのだ。この閉じた世界で、延々と、流れ着いた物言わぬ人形を直し続け、感謝されることも無く送り還す。不毛だ。庵に並んだ無数の人形を思い出して、蓬は気が狂いそうになった。
「頼む、俺をここに残してくれ!」
糸織は微笑もそのままに、小さく首を横に振った。
「気持ちだけ貰っておく」糸織は蓬の手を取った。四六時中人形を弄っている手とは思えない柔らかさである。彼女は蓬を立たせると、散っていく葩の儚さでその手を離すと、「さあ、達者でな。蓬」
蓬の胸を、とんと押した。
嘘みたいに落ちていく意識の中で、蓬はうめき声一つ発することもできず、
何処かで、水音を聞いた。
☆
目覚めたのは、背を預けた大木の、蓬の頭すぐ上に止まった蝉の声が、ひとしお喧しかったからである。それまでぴくりともしていなかった蓬が首をもたげたことに、蝉も度肝を抜かれたのか、ぎい、と残して飛び去って行った。
「もう昼か」
葉末から覗く日差しは強烈で、山中に轟く虫の声は、彼が寝過ごしたことを示していた。寝起きはいい方である。一昨日までは朝方に目が覚めていた。昨日も何とか蝉が本格的に活動を始める前には目覚めることができていた。とどのつまり、野宿に野宿を重ねた疲労が、流石に現れてきたということだろうか。
「しかしその割には」
立ち上がって見ると、節々の痛みはあれど、身体は軽い。昨晩が、正直動くのも億劫だったことを考えれば、快調に近い。しかも腹が減っている。三日四日と口にものを入れないうちに、消沈していった腹がである。
「うーむ。一度戻るか」
一度は覚悟した死の吉兆が遠ざかると、温かな飯や床、見知った顔が恋しくなってきた。何も云わず飛び出して決まった手前、気は引けるが、どうにも抗い難い欲である。悶々とする。死にかけの男にしては贅沢な悩みだと思った。
気掛かりなのはただ一つ。
家を持てと云われた。所帯である。そろそろ一人前になれ、ということらしい。悪い話ではない。相手方も、気立てのよい女性だと聞いている。悪い話ではないと思う。全く然り。理性は十全の肯定をしている。
ずっと、何かが、誰かが邪魔をしているのだ。
忘れてはいけないと。
ここで手放しに幸せになってしまうような男であって欲しくないと。
靄は一向に晴れなかった。しかし、周囲は縁談に賛成だったし、蓬も断る理由を持っていなかった。そう遠くないうちに、蓬の身は固まるはずだった。
だから、逃げてきた。
誰にも云わず、風来坊の真似でもすれば、思い出すのではないかと。
「結果このざま、か」
何一つ思い出せてはいなかった。自嘲して、空を見上げる。同じ世に在るのなら、この空の下を何処までも歩いていけば、いずれ巡り合う、などと考えたのか間違いだったのかもしれない。蓬は水辺が駄目だ。どうせ海は越えられない。最初から無謀であった。
「帰るか」
決めた。妙に軽い足取りで、蓬は翻って、夜半に越えた山路を戻ることにした。肩に乗った葉が、はらりと落ちた。何と謝ろうか。父にも母にも妹にも、向けられない顔を向けるのだ。三日三晩死力を絞って考えねば。こういうとき、兄ならどうするか。舌先の上手な兄の気持ちになって蓬は、考え始めた。
それから幾度かの夜を挟んで、村が見えてきたところで、草案はやっと纏まった。
「俺は莫迦で阿呆だからな、何と思われてもいい。正直に伝えて、断ろう」
浮かんだのは、夏真っ盛りと両翼を広げる、彼方の影より自信げな笑み。
☆
二度目の波紋に、水甕に映し出されていた情景が掻き消えた。
彼女は溜息を一つ吐いて、視線を上げた。薄暗い屋内、円陣竈の上に置かれた小さな鍋には、吹き零れが跡になって残っている。七日ほど前のことである。別段、食わずとも生きていけるから、丸一日放置している。いやはや、現世を覗くとつい時間を忘れてしまう。
ついと風鈴の如き優雅さで、土間から勝手口へと歩を進める。
勝手口の外は、小さな庭園になっている。
現世の植物を真似て栽培しているのだ。見た目はともかく、味は彼女一人で比べることはできないから、完成度のほどは不透明。結局、あの男に出すこともなかった。不味くはないと思うのだが、一応客人である。毒見させるわけにもいくまい。
もし次があれば。
もしも運命が精巧な機巧のように、もしくは世界がこの幽世のように、予定調和であるのなら――いや、よそう。
「まあ、しかし」
彼女だけの庭から、彼女は、彼女だけの空を仰いだ。手庇で陽光を遮りながら、この空の下にはいない男へ向けて、「全く仕方のない奴だな」
その嬉しげな笑みも声音も、見聞きするものは一人としていない。