3話 大雨
今日は大雨だ。ザーザーザーと土砂降りだ。
さっきから身体に当たる激しい白い線は、まるで私を貫きたがっているかのよう。
「いつもは湿気ていて鬱憤を芽生えさせる天気だけれど、熱々な日が続いているせいか気持ちいいねぇ。ほら君も、そんな屋根の下でうずくまってないでこっちに来たらどうなんだい?」
屋上を囲う柵に手をついて、少女はいつもの場所へと眼をやった。そこには綺麗な水溜りができていて、曲を奏でるかのように連続で水滴が落ちて波紋を作る。
「――警戒するのはいいけどさ、いいもんだよ。この眺め。いつもは陽気で口々に叫ぶ生徒たちで埋まっているはずの校庭に、今日は人っこ一人いない。だーれもいなくて静かそのものさ。君にとってはこの屋上よりも心地よい場所だろうよ」
それから少女は、数十秒間後ろに据えていた目線を徐々に徐々に右へと移動させた。眼を細めて、期待外れと期待通りの相まった黒い瞳だ。
噛み締めるように隣を見てから、少女は再び校庭へと向き直って口惜しそうに呟いた。
「やはり君は濡れないんだね。私なんてこんなにもびしょびしょなのに」
――その声には軽快さがなければ、溌溂もない。
傘を差すことなく、雨合羽すら着ずに青いセーラー服で屋上内を闊歩していた少女は、すっかり全身がずぶ濡れになっていた。
彼女を包む布と長い黒髪は濡れきっていて、肌にぺったりと張り付いている。その姿は透けているというより、汚れているという印象を抱かせた。
だがその瞳は、黒に塗りつぶされたそれには、まだ淡く白い光が宿っている。時々薄くなるけれど――いつも通りのことだった。
彼女はどこまでも、いつも通りなのだ。
壊れていて、矛盾していて、心細いほどにか細い。
「君がそんな眼で私を見るようになったのは……確か、数日前からだったね」
少女はひとりごつ。そして続ける。
「どう? そろそろ私を逃がす気になったかい?」
その表情は、明るく笑っていて――儚い。どこまでも本物で、どこまでも華奢な笑み。
ようやくそう笑えるほどに、少女は救われていた。
――振り払えない絶望を、同時に背負いつつも。
「質問? いいよ、なんだって聞きなよ。どんな内容であろうとデジャブを感じようと、作業的に答えてやろうじゃないか」
芯のあるその声だったが、沈黙後に発せられた声は少々弱々しい。
「……」
ざわざわとした雨の騒音が、耳元からずっとする。これまで聞こえてこなかったというのに。
雨も、こんなにも冷たくなかったはずだ。
「……いや、何でもない。答えよう。いつかは訊かれることだと予想はしていた。さっきどんな内容でも答える、と明言したしね」
瞼を半分まで開いて、少女は目線をやや上げる。水平線まで続く灰色の空を視界に入れながら、語った。
「その問いに答えるために、人類は愚かだという話を始めようか」
ひとりぼっちでライトを浴びる、幼い子供の話をするために。
少女は笑う。困ったように。
「人間は愚かだよ。どいつもこいつも、何の努力も才能もない私如きの言いなりになるんだから。みんなみんな私の奴隷だ。彼らには意思があるようで、蓋を開ければないんだよ。この世界で遇されるのは、私だけなんだから」
ぺちゃん、と少女は水溜りの上であるにも関わらず座って、飛沫を上げる。
「君も例に漏れることなく、変わってしまった。この程度では変わらないはずの君が、私のために変わってしまったんだ。私がこの世界から逃げるためには仕方のないことだけれど、それでも少し、残念だったよ。日に日に私の都合のいいように動き始める君を眺めるのは」
駒のような在り方が人間とやらの本質であるなら、失望ものだ。
容易に操れてしまう人間が存在していい世界ならば、やはりそれも幻滅ものだ。
……けど、
「それが君で、それが私なんだよ。この事実はひっくり返らない。何せ事実だからね」
変化することのない事実ならば、受け入れるしかないのさ。順応して、それに合った生き方をするしかない。抗ったところで、意味なんてないのだから。
……そう、受け入れるしかなかった。だけど、認めたくなかったんだ。
「私はどうしても、人の価値というものを諦めたくなかった」
人間は愚かだ。度し難いほどに。
それでも。
私が人として生まれたからには、人の価値を見出したい。
そうして『人として生まれてきて良かった』と、そう思いたかった。
そう願い続けて、けれど私の思いに反して惰性な日々が続いた。それだけは誰も、叶えてはくれなかったのだ。
「そんな時に現れたのが、君」
最初はびっくりしたよ。いるはずの君が、そこにいなかったんだから。
家と学校から逃げるために形を失うなんて現象を起こせた君ならば、私の願いを叶えてくれそうな気がした。
「だから、悪いけど――人類のために、何よりも私のために、犠牲になってくれないか?」
きっと私がいなくなったら、もうちょいマシなものになるだろうからさ。私には逃げ方がわからないんだ。
それが私が、この世界からいなくなりたかった理由だよ。
「……望み? どんな?」
雨音は止まらない。視界を奪いそうなほどに、白い線は重ね降る。
「……そっか。ごめんね。諦めさせて」
水飛沫が舞い、水滴が弾け、雫が地に落ちた。
「……そう、そうだね。どの道もう、無理だろう」
あそこにはもう、君の居場所はない。
私の居場所は――ない方がいいだろう。なかったことにしよう。
「……っ?」
そこまで話すと、隣から視線を感じた。校舎内ではよくあっても、この屋上ではただの一度も感じたことのない感触。
だってここにあるものは、私だけだったから――。
雨で前髪が濡れる中、少女はその方角へとゆっくり振り向く。かくしてそこに、あったものは――
「……君、そんな顔してたんだね。最後に見たのが半年も前だから、すっかり忘れていたよ」
まぁ、要因はそれだけじゃないか。こんなどこにでもいそうな顔、印象に残りにくい。
……でも、
「半年前の君がそんな眼をしていたらなら、私はきっと君のことを忘れなかっただろう」
記憶の端に残っていたはずだ。そんな眼差しをこちらに向けてくれたのは、君が初めてだから。
訝しるでもなく、羨望でもないその瞳。
あははっ、惚れちゃいそうだよ。君を動かしたのは、本当に君自身の心なんじゃないかって思いたくなる。
思い過ごしだろうから、言わないけどね。
何も言わずに、少女は耳を傾けて待つ。
雨音で落ち着くためじゃない。君の口から紡がれる言葉を聞くために。
「……」
隣を向いていた少女は、次第に柵の向こう側へと視線を向ける。
立ち上がって、吸い込まれるように軽々と柵を乗り越え始めた。
屋上の最も外側である外壁の上で佇み、柵を除いたらこんな景色が広がっているのかと、少女はどこか他人事のように思う。
彼女を止める風はない。雨であっても彼女を止めるほどの力はない。
「……うん、私に見せて。人間の素晴らしさを。頼りにしてるよ」
柵を掴んでいた手を離して、前へ前へと伸ばす少女。
全身が濡れに濡れて、身体は冷たい。髪も冷たい。体内温度はすっかり冷えてしまっていた。
だけれど手は、手だけは暖かい。
――何かに引っ張られるように、少女は屋上から飛び降りた。
けれど少女の遺体は未だ見つからず、その日から行方不明扱いらしい。
消揺灯火と、同じように。




