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1話 オレンジジュース

 ひんやりとした缶ジュースを手に、少女は上る。薄暗い階段を。

 段差はそれほどないけれど、それでも少女の青いスカートと閉ざされた缶ジュース内の液体は揺れていた。

 一段ずつ少女が階段を上がる度に、揺れていた。

 かつんかつんと乾いた靴音を立てて、唯一の光源が漏れ出る不透明窓ガラスが嵌められた扉へと近づき――

 『立ち入り禁止』と貼り紙されているのを無視して、無遠慮にドアノブに手をかけ、開けるのだった。

 視界に入るのは眩しいほどに白い空で、人間なんてものはどこにもいない。吹き荒れる風を気にすることなく瞳を開け続けても、やはり人影はどこにもいなかった。


(みんな殊勝だねぇ……)


 見下げるように、呆れ返るように、少女は思う。今日も今日とてどいつもこいつも皆等しく元気に愚かだ。そんな従順にならなくていいのに。

 しかしへらへらとした態度はそのままに、持っていた缶ジュースを握り直し、その冷たさですぐさま意識を切り替える少女。

 右へ右へと移動し、その壁の端っこへと着けば、壁に寄りかかって座り込むのだ。


「やぁ、透明人間くん」


 深い笑みを湛えて、少女は虚空へと声をかけた。


「それとも、概念くんと呼んだ方がいいかい?」


 角の向こう側――誰もいない、学校特有の緑色の床だけが物言わぬ様子で設置されているそこに、確かな視線を投げかけて。

 目元を見せることなく、白い歯を見せて笑う制服姿の少女は、ひとりごつ。


「まぁ、君の呼び方なんてどうだっていい。かつては固有名詞を保持していた君だが、今となってはなんにもないからね」


 姿も声も気配も、何もない。実に何もない君を、けれど私は尊敬に思うよ。

 オレンジ色の缶ジュースの縁を指で持ち上げる少女は、その手をゆらゆらと振り動かす。まるでその缶ジュースに中身なんてないかのように、軽々しく。


「雑に名付ける資格は親にしかないし、まぁここは適当にこの状態に相応しく、『君』と呼ぼうじゃないか。君と同じように世界は何も変わらなかったねーという話をするために。その無言は、肯定と受け取らせてもらうよ」


 屋上には、どこをどれだけ探しても少女しかいなかった。それでも少女は気にすることなく、むしろそれが当然のように、後ろに向けていた顔を前へと戻して続ける。


「君はここにいるからわからないだろうけど、ああそれとも、移動したところで目がないから視覚は機能してないのかな? もしそうだとしたら大層暇そうだねぇ。そんな君に朗報だ。こちらも何も変わらない退屈な日々だったよ。相変わらず日は昇って、校舎は白くて、屋上は緑色で、学校の中に生徒はぎゅうぎゅう詰めで――君がいなくなったことをみんな噂してる」


 ああ、みんなといっても本当にみんなというわけではないよ。大体は、と表現するべきだったか。君をいじめてた連中も気にしていたよ。必死になって自分は悪くなかったアピールだ。

 何が可笑しいのかくつくつと声を出しそうなほどに笑って話す少女は、だが持ってきた缶ジュースを未だ開けることをしない。


「というわけで、君に話せるようなネタは特に――うん? なぜ今日も来たのかだって? またそれか。もうこの関係を築いて数週間経つけど、懲りずによく問い続けられるよねぇ。どうでもいいじゃない。そんなこと」


 足元に位置していた缶ジュースを胸辺りまで上げて、少女は言った。どうでもいいという発言は何かを隠したがっているわけでも、話を逸らしたがっているわけでもない――ただただ、その問いに価値を見出せずにいたのだ。

 見出すことが、できなかった。

 だからそれができる君のことを、理解しなかった。


(面倒だなぁ)


 嬉しそうな表情で露骨に口を尖らせる少女。それでも仕方なさそうにいつもと同じ回答を返す。君の誤解を解くために。


「別に何もしないって。元よりそうなった君に私は何もできないのだから。何かできそうだったとしても、私は何もしない。何もしなくていいからね。私は君を観察するだけさ。そしてなぜ観察するのかといえば――面白いもの見たさだね」


 悪気なく偽ることなく正直に、これ以上なく正確に伝える。反応を見るかのように眼を斜め後ろへと向けてから、笑みはそのままに瞼を閉じた。


「ははっ、信じないって顔つきだねぇ。恐怖と不安を募らせて、大変そうだ。どうやら逃げすぎるとデメリットもあるらしい」


 ふふっ、本当に楽しみだなぁ……。

 少女はなおのこと楽し気だった。新しい最新のゲームを買ってもらったかのように、とても無邪気に子供っぽく。音符さえも漂わせそうな勢いで。

 一体彼女は、そこに何を見て何を聴いているのだろう。

 どんな思いで、そんなわけの分からない行いをしているのだろうか。


「――さてそれじゃ、納得してもらえたようだし実験といこう」


 何かにひとしきり納得し、そこでようやく、パシュンと少女は缶ジュースの蓋を開けた。この屋上に来る前に、少女が自分のお小遣いを使って自動販売機で購入したものだ。

 この暑い季節にはぴったりの、数分経ってもなお冷たい温度を保つオレンジ色の缶ジュース。少女は何気ない仕草で腕を伸ばして、向こう側との境目である角の方へと移動させて――逆さまにして、中身の液体をどばどばと零していった。

 滝のように入っていたオレンジジュースは流れ落ちて、緑色の床に単色の円がじわりじわりと広がっていく。その様子を、少女は固めた笑みで見つめていた。

 ――一切の感情が省かれた瞳で。好奇心だけがあるかのように口元だけが上がっていた。

 缶からジュースから零れ切った後、中身がないことを確認するために少女は腕を上下に振って、数滴分も出させる。

 そうしている間にも、少女の足は汚れた。

 澄んでいた青いスカートも汚れる。落ちにくいシミができる。

 ……けれど、


「案の定、だね」


 広がるオレンジ色の円は、少女の所に辿り着くと止まった。

 当たり前だ。これらは液体。液体は布に触れればたちまち吸収されてしまうものだ。だから床に飲み物を零したときは雑巾を使う。実験と銘打ってすることのほどでもない、自明の理である。

 だから――そこに君がいれば、君の所でもオレンジ色の円が止まるはずだ。

 ……なのに、止まらない。そればかりか、不自然に輪郭を変えることなく、いつまでもそちらに広がり続けている。


「君は汚れない。汚れることがない。でもそれは、綺麗でいられるからじゃない。君が無いだけだ」


 本当に君は、そこにいない。形を失った君は、どこにもいない。

 私以外には、誰にも認識できないのだろう。

 誰も彼もから、認識されない。

 ……ああ、なんて。


「なんて羨ましい」


 カランっ、カランっ、カラカラカラ……という音がした。

 それは、少女がすっかり空っぽになった缶を遠くに放り投げる音だった。

 空き缶は硬いコンクリートに叩かれ、弾き、コロコロと転がっていく。転がった先を見れば、空き缶は少しだけへこんでいた。

 ……けれど、けれど少女の口元には、笑みが浮かべられている。

 胡散臭いものでも、歪んでいるものでもなく、ただただ、楽しそうだった。

 その黒い瞳にも、純粋な光が宿っていた。

 どこまでも真っ直ぐに、矛盾している。


「……ふふっ、こうしてずっと私を裏切ってくれればいいのに。君も最後には、私の期待に応えてしまうのだろう?」


 それは確かに君に対しての言葉だった。来るいつかの君へだけれど。

 少女は何も言わずに、角の向こう側へとにっこり顔を向ける。


(何も知らないで、可愛いなぁ……)


 無知は無垢を連想し、無垢は可愛いを連想してしまうものだ。

 でもそんなあどけなさは、もう見飽きてしまったよ。

 私が君に望むものは、そんな初々しさじゃない。

 少ししてから白々しいほどのにっこり顔をやめて、少女は立ち上がる。


「じゃあ、少し早いけど今日はこの辺でお暇しようかな。さすがに大きなシミができた制服で教室をうろつくことは避けたい。また明日も来るよ」


 閉じていた眼を開き、そこに視線をやる。するとその先には、予想通りの光景が広がっていた。

 ……睨んでる睨んでる。けれど君は自分のことを理解しているのかな? 私が何をやっても意味がないように、君だって何をやっても意味がないんだよ。

 なぜなら君はもう、この世にもあの世にもいないのだから。

 それから少女は扉へと歩き、下に続く階段を降りて行った。

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