太武芯理教、山頂ガソリン事件
現実に起こった社会問題を題材にこそしていますが、内容自体はフィクションですのでご了承ください。
「天にまします父なる神、そして、平成の預言者、猫谷市立中央高校校長、太田武志尊師の恩恵に感謝。いただきます。」
太武芯理教信者が手を合わせると、他の連中も一斉にそれに倣った。
「太田尊師! ありがとうございます!」
「太田尊師!」
「太田尊師!」
太田は照れくさそうに頭をかいた。
「いやあ、私なんかまだまだですよ」
俺は心の中で思った。
田村正大師、あんたが一番教祖っぽいよ……。
さて、いよいよ食事だ。
俺がテーブルの上を見ると、そこには皿に盛られた肉料理があった。
見た目からしてうまそうだ。
しかし、問題はその味である。
毒入りでないことを祈るばかりだが……。
その時、部屋のドアが開いて誰か入ってきた。
誰だろう? 見ると、それはなんと、猫谷市長だった。
「えーっ!?」
俺は思わず叫んでしまった。
「な、なぜ市長がここに?」
すると、猫谷市長は言った。
「私は太武芯理教に入信したのです。これからはこの教団のために尽くす所存です。」
マジですか……(汗)
でも、よく考えてみれば、このカルト集団は元をただせば教育委員会の財政破綻に端を発しているのだ。
市長がその責任を感じていてもおかしくはない。
とはいえ、まさか入信までするなんて……。続いて入ってきたのは、市役所の職員たちだった。
「おおお……」
彼らは一様に感激している様子であった。
「ついに我らにも救いの手が来たぞ。」
「これでもう税金ドロボーとは言われずに済む。」
「ああ、ありがたいことだ。」
どうやら、彼らもこの教団に帰依したらしい。
俺は何とも言えない気持ちになった。
こんなことでいいのか、日本の未来は? しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。
早く食べないと冷めてしまうではないか。俺はフォークを手に取ると、早速肉を口に運んだ。
うまい! 噛んだ瞬間、口の中にジューシーな肉汁が溢れ出た。
これは間違いない。本物の肉だ。
続いてスープを飲む。これも絶品だ。塩加減といい、出汁の旨みといい、文句なしである。
次にパンを食べることにした。手でちぎって口に運ぶ。
柔らかい! しかもほんのりと甘い。焼き立てのようだ。
「うん、おいしい!」
思わず声が出た。
俺が感動に打ち震えていると、猫谷市長たちも続々と食事を始めていた。
「おほ~! こりゃ美味い!」
「本当ですねえ。」
みんな満足げな表情を浮かべていた。
一方、太田はというと、黙々と肉を食べ続けていた。
まるでリスのように頬っぺたが膨らんでいて可愛い。いや、そんなことより……この肉は本当に美味しい。
これまで食べたどの肉よりも上等なもののような気がする。
俺は夢中で肉を食らい続けた。
やがて皿の上には何もなくなった。
ふう、食った、食った。大満腹だぜ。俺は大きく息をつくと、椅子に腰掛けたまま目を閉じて天を仰いだ。
ふと横を見ると、他の連中も同じポーズをしていた。
「……」
しばらく沈黙が続いた後、俺はゆっくりと目を開けると言った。
「おいしかったなあ。」
「はい。」
「最高でしたね。」
他の連中も口々に同意した。
太田は言う。
「皆さんに喜んで頂けて嬉しい限りです。」
すると、職員の一人が言った。
「ところで、この後は何をすれば良いでしょうか?」
太田は答えた。
「それでは今日はゆっくり休んでください。」
それから一時間ほどかけて入浴し、その後は布団に入ってぐっすり眠った。
翌日。
俺は朝早くから目が覚めた。
「うーん、よく寝たな。」
伸びをして起き上がる。
窓の外を見ると、朝日が眩しく輝いていた。
天気も良いみたいだし、絶好の旅日和だ。俺は顔を洗って身支度を整えると、部屋を出て廊下に出た。すると、向こうから太田が現れた。
「おはようございます。」
太田は笑顔で挨拶してきた。
「ああ、おはようございます。」
俺は軽く頭を下げて応じる。
「昨晩はよく眠れましたか?」
「はい。」
「それは良かった。」
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
「何でしょう?」
「今、ここの人たちは何をしているんですかね?」
「今は修行の最中です。」
「そうですか。」
「皆さん、頑張っていますよ。」
太田は誇らしげに語った。
「ちなみに、どんなことをしているのですか?」
すると、太田は胸を張って言った。
「瞑想をしたり、経典を読んだりしています。」
「へえ…」
「あと、英単語を言われたら即座に和訳する『即訳修行』とか、歴史的偉人の顔を見てすぐに名前と業績を答える『顔面修行』とかですね。他にも色々ありますけど、」
「…………」
なんだそりゃ? 俺は呆気に取られた。
「そ、そうなんですか。」
「はい。」
「じゃあ、邪魔しない方がいいかな?」
「いえ、構いません。」
「分かりました。」
「それより、朝食の用意が出来ておりますので、食堂までどうぞ。」
「ありがとうございます。」
こうして俺は、太田の後に付いて歩いていった。
食堂に入ると、既に何人かが席についていた。皆、思い思いの姿勢で座っている。テーブルの上には、『猫谷交換日記』と題された最高教典がおのおのの前に置かれていた。
「皆、猫谷交換日記に書かれた太田尊師のお言葉は絶対だから、背くんじゃないぞ!」
正大師である田村光一が釘を刺した。
「でも、入浴時間まで太田尊師に監視されるなんて、あんまりです。」
出家信者の鶴田マキは泣き出してしまった。「そうだ、そうだ!」
他の連中からも不満の声が上がる。
「黙れ!」
田村は再び怒鳴った。
「文句を言うな! これも太田尊師の慈悲なのだ。ありがたく受け入れるんだ。」
しかし、彼らは納得していないようだった。
無理もない話である。誰だって入浴時間は自由にしたいはずだ。
俺は彼らの気持ちがよく分かった。
やがて全員が揃ったようで、食事が始まった。
献立はパンとスープと牛乳といった感じである。味は文句なく美味かった。
朝食の後、全員で後片付けをした。
そして、各自の部屋に戻り、荷物を持って玄関前に集合した。これからいよいよ旅が始まるのだ。俺はワクワクしながら太田の言葉を待った。
「では行きましょう。」
太田は言った。
「はい。」
俺は元気良く返事をする。
他の連中も威勢よく応じた。太田は続ける。
「今日は皆さんをある場所に連れていきます。そこで様々な体験をして頂き、最後に試験を受けて頂く予定となっております。では、私に続いてついてきて下さい。」
俺たちは太田に従って歩き出した。
やがて到着した場所は、山頂にある小さな小屋であった。周囲は木々に囲まれていて、道らしいものは何もない。どうやってここまで来たのか見当もつかなかった。
太田がドアを開ける。中は狭い物置みたいな部屋になっていた。
太田が振り返って言う。
「ここでしばらく待機して下さい。」
「はい。」
俺を含めた10人は声を合わせて答えた。
それからしばらくして、一人の男が入ってきた。
年齢は30代半ばくらいだろうか。痩せ型で、無精ひげを生やしている。服装はかなりラフな格好だ。男は俺たちの顔を見回してから、低い声で話しかけてきた。
「おぬしたちは何者じゃ?」
その質問に対し、最初に答えたのは正大師の田村光一だった。彼は一歩前に出て、堂々と答える。
「私は正大師の田村です。」
「ふむ。」
「あなたは?」
「わしは『祖父江博則』火の魔神じゃ。」
「そうですか。」
田村はさして興味なさげに言った。
「ところで、ここに何しに来た?」
「私たちは『総合学習』をしに来ました。」
「総合学習の修行?」
「はい。」
「おぬしたちは『受験生』なんじゃろう? なぜそんなことをするのじゃ?」
「我々は生徒なのですから、総合学習するのは当然のことでしょう?」
「うーん…」
「何か問題でも?」
「別にないが。」
「それならいいではありませんか。」
祖父江の手には、明らかに数学のセンター試験問題とおぼしきものが握られていた。
「お前ら、わしが数学入試対策をしていることを口外したら、火の悪魔たるわしがお前らの家を火事にするぞ。ここで見聞きしたことは口外無用じゃー!」
「分かりましたぁ…」
田村が素直に応じたため、それ以上追及する者はいなかった。
やがて、太田が部屋に戻ってきた。手には何枚かの布切れを持っている。
「お待たせしました。」
太田が言った。
「今、入試問題を解いてもらっていましたが、もう結構です。」
「分かりました。」
田村は軽く頭を下げて言った。
「それで、これから何をするのでしょうか?」
「まずは着替えてもらいます。」
太田はそう言って、一枚の服を取り出した。
「これは、我々の制服です。」
「制服?」
「ええ。」
「この服を着るんですね?」
「はい。」
「ちょっと露出度が高い気がしますが……」
「気のせいでしょう。」
「まあ、着ればいいんでしょ、着れば。」
しかし、マキは黙っていなかった。
「そんな変な服、嫌ですよ!」
彼女は叫んだ。
「黙れ!」
すかさず田村が叱りつける。
「すみません…」
マキは大人しく謝った。
「早く着替えろ!」
正大師に言われては逆らうわけにもいかない。もう、ここまで来てしまっては、マキに残された選択肢はただ1つ、逃げることだった。マキは一目散にその露出の多い服を持って山を下り、真っ先に目についた公共機関である県庁へ駆け込んだ。
たちまち猫谷市と太田とがグルとなって生徒を洗脳し、思うがままに操ろうとしたことは明るみに出た。猫谷市長は失踪し、太田と祖父江は懲戒免職となり、太田の校長室からは大量の盗撮とおぼしき画像が、祖父江の自宅からは放火用とおぼしきガソリンが押収された。田村は極度の危険思想に犯されているとして、精神病院送りとなった。ところが、証拠不十分や、被害者の羞恥心への配慮により、起訴やマスコミ報道といった騒ぎにはならなかった。
実は、今まで俺が使ってきた「太武芯理教」という言葉は、このときマキが県庁職員に対して説明するための造語だったのだ。これまで新興宗教と揶揄して書いてきたが、これはあくまで比喩表現だ。俺たちはしぶしぶ市役所職員の接待をさせられていたのだ。マキは県庁職員に対して、太武芯理教の全てを洗いざらい話した。
「修学旅行の最中でした。先生たちが突然、私たちを車に乗せて連れ去ったのです。そして、『総合学習の時間だ』と言って、ある場所に連れていかれました。私は必死で抵抗しましたが、『これを着なさい』という指示とともに、渡されたのがこれです。とても恥ずかしかったです。まるで痴女みたいじゃないですか。」
彼女の言葉を聞いた県庁職員は、「まさかそんなことが……」と信じられない様子だった。
平成も後半に差し掛かった頃、高校において総合学習の時間に数学をしたり、英会話をしなければならないはずの時間に英文法の授業をしたりという、受験偏向型教育による「未履修問題」が明るみに出た。これは、実はこのようにして明らかになり、世間で問題視されるようになったのだ。しかし、この裏に、このような洗脳や放火脅迫があったことを知るのは、俺とマキとを含めたわずか数人である。
数年後にマキと再会した俺は、当時を振り返って語り合った。
「あのときは本当に怖かったよ。もし、あのとき県庁に行かなかったらどうなっていたことか。」
「でも、よく逃げられたね。」
「うん。だって、あんな格好、恥ずかしくて耐えられなかったもの。」
「ああ、分かる。俺もそう思ってた」
「やっぱりそうだよね。」
「でもさあ、未履修問題がこれだけ取り沙汰されてるのに、太田の洗脳や祖父江の脅迫が取り沙汰されないなんて、あんまりじゃないか。」
「ほんとだよ! あいつらは絶対許せない!」
「ところで、あれからずっと、太田の学校には行ってないのか?」
「うーん、まあね」
「なんで?」
「なんか、行きづらいじゃん。」
「でも、行くのを拒んだせいで、証拠を集められなかったのも事実。未履修問題は全国共通で疑いようなし。それが、世間が下した判決ってことじゃないか。」
「まあね。」
「俺はお前のことを応援しているぞ。いつか、太田と対決する日が来ることを祈っている。」
「私も。」
2人は握手を交わして別れた。
猫谷市では、今でも毎年のように行方不明者が出ているらしい。