空想の力
ソフィー妃のところから自室に戻り、ロードリック卿宛に手紙を書いた。
滞在先は知らないが、ダルトリー子爵のところへ送れば本人に渡るだろう。
しばらくして、手紙を見たロードリック卿が離宮の謁見所を訪ねて来た。
私の皇女としての仕事の一つに、民衆との謁見というものがある。
皇后陛下や皇太子殿下、皇太子妃殿下も一般謁見をしているが、他の公務との兼ね合いもあり、持ち回り制となっている。
ちなみに皇帝陛下は山積みの決裁書類を捌くのが主な仕事で、第二皇子は軍事担当だ。
ロードリック卿には私の持ち回りの日を手紙で知らせていたので、ちゃんとその日にやって来た。
謁見所には近衛兵と記録係が控えているが、内密に話したかったので人払いした。
堅苦しい儀礼的な挨拶を交わし合ったあと、ロードリック卿は素直な感想を漏らした。
「一般人も普通に入れるんですね。思ったより敷居が低くて驚きました」
「民衆の声を直接聞くことは大事ですから」
不満や要請ばかりでうんざりするが、聞く姿勢を見せることで誠意が伝わると教わっている。
私ではどうにもならない話にも丁寧に耳を傾け、寄り添う姿勢を見せるだけだ。
「素晴らしいお心がけですね」
ロードリック卿が世辞を言った。
「ところで私にお話というのは」
「ご足労いただきありがとうございます。話というのは他でもありません、ソフィー妃殿下のことです」
「と仰いますと?」
「もし皇太子妃でいられない日が来れば、一緒にメレナ国へ行こうと仰ったとか。本当ですか?」
「ああ、そのことですか」
ロードリック卿は少し迷う素振りを見せたあと意を決したような顔をして「本気です」と答えた。
「皇太子殿下から奪おうなどという気持ちはございませんが、もしもソフィー妃殿下が心配されているように、皇太子妃としてのお立場が無くなり、拠り所がない場合には私を頼ってほしいと申しました」
「それはどのようなお気持ちで仰られておいでですか。良き友人としてでしょうか、それともーー」
「勿論、良き友人としてです。しかしはっきり申し上げて、私はソフィー様をお慕いしております。多くは望みませんが、お側でずっとお支えできたら本望です」
「と仰いますと、もしソフィー妃殿下が望めば、結婚も視野にあるのでしょうか」
「ええ。それは、はい」
「不躾ですが、ロードリック卿のご年齢は」
「二十三です」
「実は本国に妻子がいらっしゃるということは?」
「ありません」
「我が国へは勉強のためのご留学だそうですが、じきに戻られますよね?」
「ええ、まあ。時期は決まっていませんが」
「伯爵家をお継ぎになるのでは?」
「家は兄が継いでいますから。私は十五からずっと旅に出ております」
とんだ放蕩息子だ。と思ったのが顔に出たらしく、ロードリック卿はこう付け加えた。
「世界各地の紀行を記したり、輸入栽培できそうな植物を探したり、自国の商品の販路を拡げたりと、ただ遊び歩いていただけではございませんよ」
「そうですか。では仮にソフィー妃殿下と結婚されても、経済的な不足はないということですね?」
「ええ、多分」
「多分……」
「面接みたいですね」とロードリック卿が苦笑した。「もしくは尋問だ」
「それはそうでしょう。どれほどの将来的視野と覚悟をお持ちなのか、お聞きしたいですから。仮にも結婚したいと仰られているのでしょう?」
「そう、仮ですよ。仮の話ですし、先のことはそこまで詳細に分かりません。ただ、そのときそのときの最善を尽くすのみです。レベッカ様は少し堅苦しくお考え過ぎではありませんか。もう少し柔軟性を持ってご想像ください。コフィーヌ川には、橋ごと丸飲みするような巨大な鯉は絶対にいないのでしょうか? もしかしたらいるかもしれない。そう空想したほうが人生は楽しく、より豊かなものになるでしょう」
ソフィー妃と同じ愛読書だという、荒唐無稽な小説の話を持ち出して、ロードリック卿は説いた。
「現実に満足しきっている豊かな者は、空想の力など必要としないのでしょうが、貧しい庶民は空想で人生を彩るのです。現実を見れば、深刻で苦しいだけですからね。空想をして夢を見るのですよ」
全く理解しがたい言い分だ。一気に不快感が込み上げた。なぜか猛烈に腹が立った。
貧しい者は空想して夢を見る?
それは本当の貧乏を知らない者の戯言だ。
本当の貧乏はな、空想する気力もないんだよ。空想するという概念さえ知らない。
白馬の王子様がいつか迎えに来てくれますようにと夢見るのは、その手のおとぎ話を知っている子供だけだ。
おとぎ話を聞かせてくれるような親を持たず、絵本など目にしたこともない子供を想像できるか? 裕福なお前に。
ただ目の前の、いや足元のことに精一杯で、靴も履けず裸足で、痩せっぽちでボロボロの服を着てーー……これは一体いつの記憶だ?
なだれ込んでくる記憶の嵐。
男の罵声。このブスガキが。張り手が飛んでくる。割れるグラスの音。鋭い痛み。鬼のような形相の父親。病床の母の青白い顔。激しい咳と真っ赤な吐血。姉の白い亡骸ーーああ、ああ、これが私だった。
気付けば絶叫していて、兵士がすっ飛んできた。
取り押さえられたロードリック卿に細剣が突き付けられ、その光景を見てはっと正気に返った。