プロローグ
最大の不幸とは貧乏なことだと姉は言った。
母に似て美しかった姉は、母の死後父の手で娼館へと売られ、稼ぎ頭だったが齢十八にして病でこの世を去った。
姉の仕送りは殆ど父の酒代となっていたため、大酒を飲めなくなった父は荒れ狂い、白目を血走らせ、震えの止まらない手で私をぶった。
張り飛ばされて転んだ拍子に、古ぼけたチェストに背中をしこたま打ちつけ、激痛が走った。
この世で最も不幸なことは貧乏ではない、この世に生まれてきたことだ。
はだけたワンピースから伸びる、ただ真っ直ぐなだけの脚をじっと見て、父は忌々しそうに舌打ちをした。
「鶏がらみてぇな脚だな。けどそうか、お前ももう売れる歳か」
私も姉のように売り飛ばされる。
ぐっと片足で私の空きっ腹を踏みつけて、父は怒鳴った。
「勘違いすんなよ! お前みたいなブスガキが娼館に売れるか。そこらの道端で売ってこい。表通りを歩いて繁華街に出りゃ、赤レンガの橋があるだろ。そこに立って金持ちそうな豚野郎の袖を引っ張って、誘うんだよ。お兄さん、あたしと遊んで。お小遣いちょうだいってな。小遣いっつっても駄賃じゃねえぞ、分かってんな? 金貨を貰ってこい。ブスでも初物なんだ、金貨一枚くらいは吹っ掛けろ。手ぶらで帰って来たら容赦しねえぞ!」
おさげ頭を引っ掴まれ、放り投げるようにして家を追い出された。
靴も履けず、仕方なく裸足でトボトボ歩き出した。
父の命令は絶対だ。元より自分の頭で物を考える力が残っていない。
言われたから歩き、言われた場所を目指した。
日の当たらない路地裏の、ごみ溜めのような場所を出て、表の大通りに出ただけで世界は一変した。
明るい日差し、通りを行き交う人々は皆晴れやかな顔をして小綺麗な服に身を包み、きちんと靴を履いている。
この辺りで最も賑わいのある場所へ来ると、父の言った赤レンガの橋があった。
そこには一際多くの人間が溜まっていた。
待つための場所なのだ。特定の相手を待っている者に混じり、不特定の誰かを待っている者もいることに、しばらくして気づいた。
身なりのいい紳士が通る度に、袖を引いて声を掛ける派手な女がいた。何度か断られ、何人目かの紳士に了承され、二人で連れだって消えた。
また別の若い女性二人組はずっと賑やかに立ち話をしていて、男たちから声を掛けられては何度か断っていたが、数組目で意気投合し共に立ち去った。
遊ばないかと見知らぬ者に声を掛けるにはおあつらえ向きの場所らしい。
しかし私にはひどく場違いだった。
ワンピースのスカートをぎゅっと掴んでいる自分の手を見た。黒ずんだ短い爪、ささくれだった指。薄汚れたワンピースの裾はほつれていて、そこから伸びた脚は鶏がらのように細く、裸足だ。
路上生活をしている子どもたちと何ら変わりがない。ただ、かろうじて家があるだけ。
その家にももう戻れないかもしれない。
絶対に手ぶらで帰るなと父は鬼の形相で言った。
しかし、こんな薄汚い子どもと誰が遊びたいというのか。さっきの綺麗な女でさえ、何度も袖を引く手を振り払われていたのだ。
その光景に私はただ固まっていた。
石のように立ち尽くして、どれだけの時間が流れたのだろう。日が傾いてきた。影が色濃く落ちる。このまま石となって、橋の一部になってしまえたらいいのに。
「どうしたんだい?」
一瞬空耳かと思った。顔を上げると、目の前に髭があった。
シルクハットをかぶった、中年男性だった。もっさりとした濃茶の髭が顔の半分以上を覆っている。
「お嬢ちゃん、何歳? 一人?」
唇が乾ききっていて上手く動かない。
息苦しさがぐんと増して言葉に詰まった。
「食べるものに困ってるのかな?」
男が喋る度に口髭がもさもさと動く。
「……あ……遊んでください」
男は一瞬驚きの色を浮かべたがすぐにそれはかき消えた。私の顔から下へ、絡みつくように視線を這わせた。
「いいけど幾ら?」
金貨が欲しいと告げると、男は怒った顔をしてふざけるなと唾を吐いた。
それはそうだ。父は吹っ掛けろと言ったけれど無理に決まっている。
背を向けて歩き出した髭男に対して、やっぱり銀貨でいいと追い縋るべきだろうか、逡巡した。銀貨だと何枚貰える? 銀貨一枚の価値さえ自分にはないと思えたが、それでは父が許さない。
では幾人もの袖を引っ張れば良いのか。根気よく金貨に変わるまで。無理だ、出来っこない。そうまでして、この世に縋りつく意味がない。
生まれてきたこと自体が不幸だったのだ。
赤い橋のかかる川沿いを歩いて、下手へ向かった。人通りが少なくなった辺りで、川へ身を投じよう。川から流れて、私は海へ還る。もう二度と生まれて来たりはしない。
繁華街から離れ、すっかり人気のなくなった川のほとりで佇んだ。
雄大なコフィーヌ川の水面は幻想的な月明かりを反射して、ゆらゆらと煌めいている。
暗い闇の中では唯一の救いに見えた。吸い込まれるように一歩を踏み出したとき、ぱしっと手を握られた。
本当に吃驚した。
手を握られる瞬間まで近くに人の気配はなかった。まるでこの瞬間に生まれ出たように、男は突如としてここに立っていた。
「良い顔をしているな」
私の左手を握る男が言った。
「心底絶望している。花を咲かせることもなく、固い蕾のまま手折るのか。憐れな娘よ。咲かせるはずのその花、要らぬなら私が貰い受ける。良いか」
低くて平坦な、ぞくりとする声だった。
手の平を包む温度も外気と差違がなく、ひやりとしている。
見上げた顔は月光に照らされて青白く、恐ろしいほど整っている。美しすぎて凄味があり生身の人間とは思えない。フード付きの黒い外套に黒いブーツ、黒づくめの男。
ああ、これは死神だ。私を迎えに来てくれた。
「……あげません。金貨一枚で買ってください」
死神相手に皮肉を言った。金貨一枚さえ手にできないまま終える、私の人生への皮肉だ。