だい31しょう
彼の人生はこれまで完全に親の敷いたレールを進んでいた。
親が良いと言った習い事をし、親が良いと言った学校に通い、親が良いと言った女性と婚約した。
尤も、婚約に関しては後にその親自身が何回も破談にしたが。
そして、親に言われて行った商いの見習い修行で、彼は初めてそのレールから逸脱した。
商い自体に問題はなかった。
皆父親の顔色をうかがい、取引はあり得ないほど順調に進み、たいしたこともしていないのに商いに関わった人間全員が彼に感謝した。
とはいえ、彼自身物心ついた時からそんな扱いばかりされていたため、不思議にも思わず、素直にそれを自分の功績と受け入れていた。
幸いにも彼は類まれなる美貌の持ち主でまた子供であり、そんな態度を取っていても人から恨まれることは滅多になかった。
問題が起こったのはその商いの後だ。
ただ単純にからかったのか、それとも将来の出世の布石と考えたのか、ある遊び好きの商人が、彼を近くの村に誘った。
そこは娼婦の村として名高く、グラナダ湖沿岸の男なら、誰しもいずれ世話になると有名な場所であった。
しかし、彼は今まで性的なことから一切遠ざけられ、知識も経験も全くなかった。
村のことなど知らず、性行為がどういったことをするのかも知らなかった。
その商人はそんな彼に向かって言った、「今から男になりましょうよ」と。
結果的に商人の言葉は嘘にならなかった。
彼はこの村で父親の敷いたレールから逸脱し、男になった。
ただ、彼女と初めて出会った最初の夜から、商人が予想したよりはるかに時間がかかってしまったが……。
「急がないと!」
彼――エクレアことナゴヤ代表ワーメントの一粒種、エクレッド・マイグルはとにかく焦っていた。
それも当然だ。
到着が遅れれば、愛する彼女の故郷は火に焼かれ、全てが灰と化すのだから。
しかし、焦ったからといって船足が速くなることもない。無駄に急かされる湖族もいい迷惑だ。
康大の命令があるため従っているが、内心ではこんな子供に顎で使われることに、少なからぬ抵抗があった。
そんなことも分からないエクレッドはより無駄に急かす。
「もっと急いでください! 何かあってからでは遅いんです!」
「あのなあ坊主……」
いい加減我慢の限界に達したのか、湖族の1人がドスを利かせた声で言った。
「俺たちゃもう十分急いでるんだよ。何もしねえガキのテメーが偉そうに命令してんじゃねえ!」
「え……あ……」
エクレアはその一言で完全に冷水を浴びせられ、涙目になる。
今まで彼の頼みをここまで乱暴に断る大人はいなかった。
そして、まだ幼い少年の彼に、修羅場をくぐってきた湖族達とまともにやり合う気概もあるはずがなかった。
あまりに情けなく張り合いのない態度に、湖族はむしろ恥ずかしげな顔をする。こんな子供相手になんで自分はそこまでムキになってしまったのか、と。
もちろん恥ずかしいのはエクレッドも同じだ。
自分はここまで来たものの、ほぼ全く役に立っていない。
さらに度胸も体力もない。
ただ愛する女性への想いだけで、突っ走ってきた。
こんな自分は確かにお荷物なのだろう。
情けなくてこのまま消えてしまいたくなった。
そんな思春期真っただ中の少年を乗せたまま、船は一路プータネス村へ向かう。
湖族達もこれぐらいでへそを曲げ、目的地を変えてエクレッドを放り出したりはしなかった。
何よりもしそんなことをすれば、既知の脅威であるダイランドと未知の脅威である康大から、何をされるか分かったものではない。
その後船上は沈黙に支配され、夕方頃プータネス村に着くまで誰もしゃべることはなかった……。
「おら坊主、出番だぞ」
ようやく口を開いた湖族によって、エクレッドは強引に船から降ろされる。
自らの情けない姿を愛する人……ではなくセイレーンに見せることに少なからぬ抵抗があったが、湖族に対する物理的な抵抗は不可能だった。
村の桟橋に降り立ったエクレッドは鼻をすすり、自分の頬をか細い腕でぴしゃりと叩く。
本人は気合を入れたつもりだが、第三者には顔を洗っているようにしか見えなかった。
なお湖族達は例によって店に入った。
ここまで来てそのまま帰るではあまりに旨味がなさすぎる。
「あら坊やじゃないのさ。戻ってきたのかい?」
エクレッドの姿を認め、近くにいた娼婦の1人が話しかけてきた。
顔は見たことはあっても彼女の名前までエクレッドは知らなかったが、エクレッドを知らないセイレーンはこの村にはいない。エクレッドの容姿はあまりに特徴的で、その立ち位置も村に来る客達とは一線を画している。
「大事な話があるんです!」
「……そうかい」
セイレーン間で情報共有はされているのか、すぐに事情を察し、娼婦はエクレッドを連れて姉妹の家へと急ぐ。
家の扉を開けると、康大に説得され村に戻っていたど姉妹が、そろって食事をしている最中だった。
エクレッドはとりあえず愛する女性の無事な姿に心底ほっとする。
「戻ってきたか……」
デネボラがエクレッド以上に安堵した表情で言った。そこに康大達と出会った時のような鬼気迫るものはかけらもない。
我が子の無事を安堵する母親のような優し気なまなざしであった。
ただ、エクレッドとしてはせめて、単刀直入に結果から聞いてほしかった。
これでは任務達成より、無事に戻ったことの方が重要だったと言っているも同然だ。
少なくともエクレッド本人は自らの使命に命を懸けている。もちろんそれは身に過ぎた覚悟であったが、自分が男としてほとんど信頼されいないことに、エクレッドの胸はチクリと痛んだ。
「それでエクレッドさん、首尾はどうだったのですか?」
そんなエクレッドの心中を察したわけでもないだろうが、ベルーガがすぐに本題に入った。
内心でエクレッドはベルーガに感謝する。
それからエクレッドはナゴヤであったことを洗いざらい2人に話す。
元来腹芸ができず、事実を隠しながら話すことなどできない。何より、まだ話すべきことと隠すべきことの判断がつかない。もし何か漏れがあったとしたら、それはただ本人が話し忘れていただけだ。
幸いにもエクレッドの話はメルセデスの出来事をほぼ網羅し、肝心なことは全て含まれていた。
「……まさかそんなことになっていたとはな」
話を聞き終えたデネボラは、頭を押さえながら沈痛な面持ちで言った。
秘宝がそもそもアイチになく、それどころか進軍まで画策していたとは、夢にも思っていなかった。
これでは交渉どころではない。
「それで、フジノミヤの方々は説得に間に合いそうなのですか?」
「正直分からないとのことです。何とかしてセイレーンが無関係である証拠を探すと子爵様はおっしゃられていましたが……」
「あの男は頼りになるのか? 簡単に捕まるような男だぞ。どうせ牢から逃げられたのも仲間の力だろう」
康大に対する評価が低いデネボラは、不満げにエクレッドの話を聞いていた。
実際に戦ったダイランドや圭阿の評価は上がっても、終始飄々とし、張り合いの無かった康太の評価は上がることはない。
尤も、康大本人にしてみれば、それは嬉しい正当な評価であったが。
「確かに僕も最初は子爵様のことは頼りない人だと思っていました。けれどあの方はとても頭の切れる方です。少なくとも、僕たちのすることは全て予想の範囲内にあるでしょう」
「そうね、私も頭の回転が速い方だとは思うわ」
「・・・・・・」
2人に反論され、デネボラは黙り込む。
力は2人がかりでも相手にすらならないが、口ではいつも簡単に負かされた。
それでも族長として、言わねばならないこともあった。
「だが、村を捨てるなど以ての外だ。俺達は元々人間達に湖から追い出されたんだぞ。そこからさらに今住んでいる村を追われるなど、許せるものか。他の仲間達だって、きっとこのまま追い出されるぐらいなら、戦って死ぬことを選ぶはずだ」
「姉さん……」
ベルーガは悲しそうな目をする。
今の姉の発言に関して完全に否定しないあたり、その思いはベルーガも似たようなものなのだろう。
この村に住んでいるセイレーンで、伝説にあるように湖で過ごしていた頃の記憶持っている者はいない。今のセイレーンの寿命は人間とさして変わらず、当時のセイレーン達はとうの昔に死に絶えた。
それでも代々湖で暮らしていたという話は受け継がれ、それを疑うセイレーンはこの村のどこにもいない。
彼女達にとってこの村は腰掛にすぎず、帰る場所はあくまでグラナダ湖だ。
その腰かけさえ同じ人間に奪われるというのなら、黙っていられないのも当然であった。
その思いは族長であるデネボラが誰よりも強い。
しかし、セイレーンでないエクレッドにはそこまでの想いはない。
彼女にとって大事なのはただ一つ、愛する者の平穏だけだ。
「別にずっと離れているわけじゃないんです! 今は安全の為にここを出て、安全が確認されたら戻ればいいじゃないですか!」
『・・・・・・』
姉妹は何も答えなかった。
ただ悲しげな表情でエクレッドを見る。
エクレッドの言っていることが正論であることは2人とも理解していた。
しかし、2人が問題にしているのは、正論かどうかではなく、長年湖を追われて暮らしてきたセイレーンのプライドである。
それを近しい人間の協力者であるエクレッドが全く理解していないことが悲しかった。
恋は盲目。
少年の視野は余計狭い。
「とにかくこの村から絶対に出ん!」
デネボラはばんと机をたたき、肩を怒らせながら寝室に引っ込む。
寝るにはまだ早く、何よりアイチ軍に備えなければならない。
あくまで頭を冷やすためだけのわずかな退避である。
デネボラ自身、自分の頭に血が上っていることを理解していた。
「なんで……」
「エクレッドさん、世の中には感情で割り切れないこともあるんです。今は子供だからいいですけど、いつかはそれを言葉ではなく頭で理解してくださいね」
「子供……」
ベルーガの言葉がエクレッドに追い打ちをかける。
感情論のデネボラと違い、ベルーガの言葉は打算的なものであった。
言葉通り、一族の命運のため、エクレッドにはもっと早く大人になってもらわなければならない。そうして人間の大人達と渡り合えるようにならなければ、セイレーンはこのセカイから消え去るのだ。
ベットした以上リターンは絶対。
彼女は姉のように甘くはなかった。
打ちひしがれるエクレッドを残し、ベルーガも家を出る。
姉がああなったため、代わりに村の住人達に、アイチ襲来の警戒を促さなければならなかった。
いちおう族長はデネボラだが、その仕事はだいたい姉妹で分担している。この2人はそうやって今まで生きてきたのだ。
残されたエクレッドはまた自己嫌悪の沼に嵌っていた。
なんで自分はこんなにダメなのか、どうしてこんなに役立たずなのか、と。
それが十分許される年齢であるにも拘らず。
「……いや、いつまでも落ち込んでちゃだめだ!」
しかし自分の幼さを完全に無視し、すぐに気持ちを奮い立たせる。
長く不貞腐れているわけにはいかなかった。
愛する人の失望が、今は何よりも怖い。
思えば彼女には初対面の時から失望され通しだった。
初めてこの村に連れてこられた時、誰もエクレッドを客とは思っていなかった。あまりに幼く見た目が少女のようであったため、誰かの付き添いだと思われていたのだ。
ただ、当時のエクレッドはそう思われている事すら気づかなかった。
そもそも生まれた時から周囲にそのように扱われてきたのだ。猫かわいがりされることが、彼の人生においては当たり前だった。
それが不自然だと気づいたのは、彼女に出会ったからだ。
エクレッドは彼女の姿を見た瞬間、一瞬で恋に落ちた。
このセカイでは結婚年齢が現実セカイに比べてはるかに早いため、恋愛に関してはむしろ普通のタイミングといえるだろう。
彼女の方も初対面からエクレッドに悪印象は持たなかったようで、笑いかけてくれた。
それだけでエクレッドは天にも登るような気分だった。
そのすぐ後、彼女に対し親の言いつけもすべて忘れて求婚したのは、エクレッドにとって当然の行為だった。
しかし、彼女は少し困ったような顔をして、「もう少し大人になってから」と言った。
その瞬間、エクレッドが今まで住んでいたセカイの内装は粉々に砕け散り、そこがまだ揺り籠の延長であることに気付かされた。
エクレッド自身は自分はすでに立派な大人だと思い込んでいた。親の言う通りとはいえ、すでに商人として働き、周囲からも賛辞をを浴びせられてきたのだから、そうとしか思えなかった。
だからこそ、何のためらいもなく求婚もできたのだ。
だが、愛する彼女にとって自分はまだ歩き始めたばかりの子供同然であった。
彼女は言った。
ボクがもう少し大きくなったら――と。
娼婦の村で育ち、大人びていたと理解していても、愛するもののその一言はエクレッドにとってあまりに重すぎた。
それ以来、エクレッドは改めて今までの人生を見直し、また周囲の人間達を観察するようになった。
その結果、彼女の態度の正当さだけが証明され、自分の幼さがこれでもかとばかりに痛感させられた。
恵まれすぎる環境で育ったエクレッドであるが、タツヤの様に救い難い阿呆ではない。
根は素直で人の話はよく聞き、間違いだと指摘されれば反省もする。
その純粋さは育ちの良さから来るものだったとしても、事実を知ってからも性根が変わることはなかった。
自分の無力さを知ってからは、エクレッドはとにかく1日でも早く一人前になろうと、父親の指示がなくとも商売の手伝いをするようになった。
やっていることはインターンのようなもので、商売内容に口出ししたりはできなかったが、意外にもマスコット的な存在として重宝され、現場からはありがたがられた。
その過程で都で商いをする商人ともコネクションができ、実の娘(誤字ではない)のように可愛がられた。
康大に持ちかけた通行も、決して出まかせなどではないのだ。エクレッドは嘘に関しては未だに苦手だ。
また、合間を見つけてはプータネス村にも通うようにもしていた。
エクレッドには生来の打たれ弱さを補うかのような回復力と粘り強さがあり、何度相手にされず落ち込もうと、諦めることはなかった。
最終的にエクレッドより先に彼女の方が折れ、結婚とはいかないまでも婚約は受け入れてもらえた。
それはエクレッドにとって、初めて自分の男を見せることができた瞬間でもあった。
グラナダ湖の怪物騒動が起きたのはそのすぐ後だ。
エクレッドはこの時、再び自らの男が試されている気がした。
そこで、彼女とワーメント両方に勧められていたナゴヤ待機を無視し、康大のナゴヤ来訪を利用したのである。
「とりあえず今はベルーガさんに協力しよう」
部屋に閉じこもっている姉も気になるが、建設的に考えるなら妹に協力した方がいい。
そう思い家の扉を開けると、予想外の光景がエクレッドを待っていた。
「……何の用ですか?」
「用など言わずともわかるだろう」
ベルーガが厳しい目で睨みつけている相手は誰あろう、父ワーメントその人であった。
エクレッドが家の中で話している間、ワーメント率いる商船団が村に訪れていたのである。
エクレッドは2人に話しかけようとしたが考えを変え、家の陰に隠れ様子をうかがうことにした。
今自分がこの村にいることをワーメントに知られるのはまずい。
勝手に婚約し、しかもその婚約者がこの村にいると知られれば、温厚な父も許してはくれないだろう。
――そう思っていた。
この時、エクレッドは2つの勘違いをしていた。
それを彼はこの場で思い知らされることになる。
「息子がいるのは分かっている。手荒な真似をされたくなければ、とっとと出せ」
ワーメントは張り付いた笑顔のまま、敵意しかない目でベルーガに脅しをかける。
その異様な表情が、逆にただ激昂する人間以上の凄みを見せた。
ベルーガは我知らずつばをのんだ。
「息子が以前からこの村に来ているのは知っている。まああの子はあまり異性に興味がないと思っていたから、多少の女遊びはした方がいいだろうと大目に見ていたが、いい加減こんなところで時間をつぶしていられる状況でもなくなった。それにこれからはお前らのような二束三文の売春婦ではなく、高貴な貴族のご令嬢を相手にしなくてはならないのだからな」
「――――!?」
エクレッドは2つの意味で絶句した。
1つは父にこの村に来ていることをすでに知られていたとこと。
そしてもう1つはあの優しい父が、自分の大事な人たちを口汚くののしったことだ。
高圧的なワーメントの態度にも怯えず、ベルーガは娼婦の笑みで応じる。
ただの男なら骨抜けになるような笑みだ。
だがワーメントはくすりともしなかった。
ベルーガは内心で唇を噛みながら、それでも精いっぱいの虚勢で表情を変えずに話を続ける。
「それはどうも。けれど私達のような売女は今日を生きていくのに精いっぱいですから、いちいちお客様の顔など覚えておりません。どうぞお引き取りを」
「黙れ雌豚!」
ワーメントは本当に唐突にベルーガに平手打ちをする。
表情が変わればベルーガも避けることが出来たが、この期に及んでもこの商人は忌々しい薄ら笑いを一切崩さなかった。
叩かれると同時にワーメントの指輪が頬にかかり、ベルーガの白い肌に赤い線が刻まれた。
それでもベルーガは怯えるどころか、挑発するような眼でワーメントを見返す。
精神的な成熟度で言えば、エクレッドよりベルーガの方がはるかに上だ。それどころか父親のワーメントより上かもしれない。
ワーメントは初めて表情……ではなく顔真っ赤にする。
もはやここまで表情変わらないのは、明らかに異常である。その異常さはあからさまな内心の発露とも言えた。
(2人を止めないと!)
呆然としていたエクレットもようやくそう思い立ち、隠れている家の陰から身を乗り出そうとする。
そんなエクレッドの背後にいた誰かが彼の体を抑え、口をふさいだ。
突然のことに少し涙目で振り返ると、そこには複雑な表情をしたデネボラがいた。
さすがにセイレーンの族長を務めるだけあって、村がこのような状況にありながら不貞腐れて家に籠っているほど、彼女も愚かではなかった。
仲間達の悲鳴や怒号を聞きつけると、すぐに家を出てエクレッドと合流したのである。
相手がデネボラであることを理解すると、エクレッドは抵抗せずに口を閉じる。
デネボラもエクレッドが落ち着いたことを理解すると、抑え込む腕を離した。
「(ベルーガさんを助けないと!)」
エクレッドはデネボラに囁く。
だがデネボラは悲しそうな目で首を横に振った。
「(助けることは難しくはない。ただその場合、お前の親もおそらく死ぬことになる。俺はフジノミヤの連中と違って手加減が下手だから、ベルーガを傷つけられた上血に酔えば、おそらくお前の父親含めて皆殺しだ。それにもしそんなことをすれば奴らも黙ってはいないだろう。仲間達も大勢死ぬ)」
「(そんな……)」
「(今は悔しいがベルーガに任せるしかない。ベルーガも俺の力が必要になった時は必ず合図を出すはずだ)」
エクレッドは唇を強く噛みながらデネボラの言葉にうなずく。
一番どうにかしたいのは姉のデネボラであることは明らかなのだから。
ワーメントの部下らしきガラの悪そうな大柄の男が、たいまつを持ってワーメントに近づく。
エクレッドが家にいる間に村はワーメントの部下に支配され、家々を破壊しながらの捜索が行われていた。
らちが開かないとしびれ気をらしたその男は、ワーメントにこう聞いた。
「ワーメント様、もうめんどくせえから村に火をつけたらどうですかい?」
「(――――!?)」
思わず叫びそうになったエクレッドの口を、再びデネボラが塞いだ。
まさかあの父が、こんな凶暴なモンスターのような思考回路を持つ人間を部下にしていたとは、想像だにしていなかった。
エクレッドが今まで接してきた父の部下は皆紳士的で、大柄な人間もいたが礼儀作法はしっかり弁えていた。
あの遊び好きの商人にしても、母親は貴族出身である。
エクレッドの世界にこんな男がいる余地などどこにもなかった。
ワーメントは部下の言葉を聞き、持っていた鞭でその部下の顔を思いきり叩きつけた。
鞭は男の目に当たり、男は絶叫を上げながら地面にのたうち回る。
「この阿呆が! そんなことをしてエクレッドの身に何があっただろうするつもりだ! 他の奴にも言ってもっと慎重に調べるようにしろ! もしエクレッドに傷1つでもつければ、貴様ら全員怪物の餌になると思え!」
『・・・・・・』
屈強な男達がワーメントの言葉に顔を青くする。
それは彼の息子も同じだった。
父にこんな凶暴な一面があったとは。
たとえそれが自分のためだったとしても、心優しいエクレッドには決して受け入れられない現実であった。
エクレッドは今まで父に抱いていた尊敬や信頼が崩れる音を、はっきり聞いた気がした。
「……さて、確かに父親として私は我が子を傷つけるような真似はできん。だがお前たちが何人に死のうが知ったことではない」
そう言うとワーメントは、近くにいた部下に命じ、まだ幼い娼婦見習の少女を捕まえさせる。
突然の男の行為に少女は思わず泣き出したが、ワーメントはそれを鞭で叩き力づくで黙らせた。
少女の肌は、蚯蚓腫れどころか皮膚が裂け、血がにじむ。
誰がどう見ても外道の行為だ。
エクレッドはもはや父を父とすら思えなくなった。
「息子を出さないならこの場にいる人間……いや、セイレーンか」
ワーメントは顎を撫でながら他人事のようにつぶやく。
これにはさすがにベルーガでさえも表情を変えた。
ワーメントは村にエクレッドが来たことだけでなく、セイレーンの村であることも知っていたのだ。
その秘密の出どころは、まず間違いなく自分の迂闊さによるものだろう。
エクレッドは自分がどれほど父親の掌で踊っていたのか、これ以上ないほど思い知らされた。
「エクレッドの足取りを調べているとき偶然知ったが、まあ、所詮伝説は伝説だな。凶暴な怪物も今ではただの娼婦、か」
「……私から見ればアンタの方が怪物よ」
ベルーガが絞り出すように言った。
彼女がここまであからさまに敵意を見せ、口調も荒げるのは珍しい。
……珍しいどころか、姉であるデネボラでさえ初めて見た。
「怪物結構。お前らに舐められるぐらいなら恐れられる方がはるかにマシだ。さて、話は戻るが、息子を渡さなければこの村のセイレーンを1人づつ殺す。おそらく1時間もすればこの地上からメスのセイレーンは全て消え失せるだろう」
「・・・・・・」
ベルーガは何も答えられなかった。
姉のデネボラもどうしていいのか分からない。
動いたのはエクレッドだ。
この時こそが、自分の今までの短い人生の中で、最も男を見せるときだと思った。
「デネボラさん、僕を父の前に出してください。ただし人質として。僕が父と交渉します」
「エクレッド……」
デネボラは一瞬迷ったが、すぐにエクレッドの言うとおりにした。
未だ男として完全に信頼したわけではなかったが、別の策が思い浮かばない以上断ることはできない。
デネボラはゆっくりと、エクレッドの細く折れそうな首に手を伸ばす――。
「そこまでです!」
――そして2人はワーメントたちの前に姿を見せた。
ワーメントは愛息子が姿を見せた瞬間喜び、すぐにその状況を把握して愕然とする。
刃物をちらつかせずとも、デネボラの剛腕ならエクレッドの細い首を折ることなど容易いと、誰の目にも明らかである。
「エクレッド!?」
「かほ……ここにいる人は全員聞いてください!」
加減してもなおデネボラの力は強く、エクレッドは少し涙目で、息苦しそうに言った。
デネボラは思わず手を離そうとしたが、その指を逆にエクレッドが抑える。
これぐらいしなければ、説得できないと思ったのだ。
アイチでも交渉役を任されながら、結局なにもできなかった。
その面目をここで晴らさなければ男が廃る。
そうエクレッドは覚悟していた。
「おおエクレッド、今すぐ助けて――」
「動かないでください! もし動けば僕は死にます! 本気です!」
エクレッドはワーメントに全て言わせず、そう叫んだ。
はったりではない。
自分の命以上に大事な恋人のためなら、ここで死ぬことに迷いはなかった。
しかし、ワーメントは息子の覚悟を侮り、エクレッドの言葉を無視して交渉を始める。
彼の中ではエクレッドはまだまだ幼い子供だ。
「貴様らがどうエクレッドを垂らしこんだかは知らんが、現状この村は完全に支配している。ここにいる小娘2人の命と引き換えに、エクレッドと交換だ」
知らぬ間に少女だけでなく、ベルーガの身柄も抑えられていた。
この状況にデネボラはどうすればいいのかさっぱり分からない。
こと交渉事に関しては、ワーメントとは天と地ほど差があった。
しかし、その息子は違った。
この土壇場で、父親譲りの交渉力を発揮する。
「・・・・・・」
エクレッドは脅しでもデネボラが自分の首を絞めることはないと察すると、懐から護身用のナイフを取り出す。
そしてそれを、何の躊躇もなく自分の腹に突き刺した。
『――――!?』
エクレッドの想像を超えた行為に、ワーメントのみならずその場にいた者が全員が絶句する。
まさか本当に命懸けの説得だったとは本人以外誰1人思っていなかったのだ。
「……言ったはずです、動けば僕は死ぬと。セイレーンの皆さんから手を放してくださいお父様。もしそれが受け入れられなければ、このままナイフを横に動かし、腹を斬ります」
エクレッドは突き刺したナイフから手を離さずに言った。
元から白いその顔色はさらに白くなり、今にも倒れそうだった。
息子の本気にワーメントは絶句する。
たとえ反抗されても、目の中に入れても痛くない一人息子だ。
ワーメントはエクレッドを宥めようと口を開いたものの、結局何も言わなかった。
長年の商人の経験から、息子の目が決して誤魔化しやその場しのぎを許さないことを瞬時に理解していた。
余計なことを言えば本当に自決するかもしれない。
こうなるとワーメントも引き下がらざるを得なかった。
やがてワーメントは部下に指示し、全員を船に乗せる。
その間、エクレッドは気力を振り絞って腹にナイフを突き刺したまま、ずっと父親の姿を見ていた。
残酷な本性は隠していたものの、その有能さは決してまやかしではない。
最後の最後まで気が抜ける相手でないことは誰よりも理解していた。
やがてワーメントを乗せた船は村を去り、グラナダ湖の彼方に消えていく。
船と同時に太陽も水平線の向こうに沈み、いよいよ本格的な夜になった。
その瞬間エクレッドの視界も一気に暗くなる
(僕も今回はうまくやれたかな)
そう思いながら、エクレッドの意識は深い闇へと落ちていった。
ただ、その眠りは愛する者の手に受け止められた心地よいものであった……。




