月の原型
人を愛する難しさ。
人間の無力さ、弱さ、稚拙さ。
なぜあの時君は泣いたのだろう。
目の前に出てきたサプライズケーキを見て顔を覆う君は、感激している。僕の綿密な計画は成功した。
永遠と広がる美しい星空に心奪われる。
僕は今、日本夜空百景にも選ばれた『星の丘』にいる。空には無秩序にバラまかれた星々が、自分の存在意義を示そうと必死に命を燃やしている。だがその努力は虚しく、僕は輝きの強さすら区別できない。
不意に君が隣にいる気がして、首を左に回す。雑草の匂いをいっぱいに抱え込んだ風が吹き抜けて、そこは空っぽ。
騒がしい夏の夜の虫の鳴き声は、人を懐かしくさせる。たとえ以前の記憶に残ってなくても、それまでに経験してなくても。アスファルトだらけの都会じゃ熱帯夜のこの時期も、こんな山奥に来ていると涼しく、寂しい。
満たされた胃とは裏腹に、突然僕にぽっかり空いたその穴は、風が通り抜けて、乾いていく。いったいどうすれば、何を食べれば、この穴がふさがるのだろうか。
付き合い始めてからこの方、今まで記念日なんて一度も祝ったことのない僕が、付き合い始めてちょうど三年の日に、『星が降る山のフレンチ、グリーチ』を予約した。
先日テレビで紹介されたその店の、最後の空席を僕がゲットしたのだ。
日曜日だし、混雑するだろうと踏み、僕の十日前の予約が功を奏した。
さらに、あらかじめ店に電話をしておき、サプライズのケーキも予約。
デートのコースを考えるのは苦手だが、今回は失敗は許されない。
まず僕ら二人はさまざまな自然体験が可能な、山南の森で過ごす。この前、君が都会の生活には疲れた、と言っていたからだ。
『星が降る山のフレンチ、グリーチ』にて、夕食を食べて、デートのフィナーレに、君の最も好きな食べ物であるケーキを食べ、素晴らしい四年目を迎える。そんな一日。
君のアパートの前の駐車場で、僕はレンタカーの匂いを感じながら思う。
自分の車があったら、君は喜ぶのだろうか。車欲しいな。
助手席の窓から、何かを見つけた少年のような表情の君が、レンタカー内部を覗きこんでくる。
「待った?」君の決まり文句。
「そうでもない」僕の決まり文句。
「白のプリウスなんてお洒落だね」
「そうだろ?買うなら白だよなー」
たわいもない会話も弾み、なんとも計画通りの滑り出しだった。雲ひとつない快晴、なのに日中はそんなに気温も上がらない。夏なので、三〇度は超えてしまうが。
一時間ほどプリウスに鞭打って、到着するは神奈川県境の山。
山南湖で自然を感じるカヌー。
他にも多くの観光客などがいるものだと思っていたが、家族連れが三組ほどいただけだった。
向かいに座る君は、右手でサラサラな髪を押さえ、僕に笑いかける。
「最近こういう時間あんまりなかった。」
「うん?」
強いの風が君の声を邪魔する。
「広い空間で安心して二人って最近なかったよね!」
左手を頬に当てて、声を届けてくれる。
三年間も君を、君のみを、見つめ続けてきたはずなのに、そんな仕草にすら心臓が引っ張られる。
君は目を細めて山の向こうの向こうに呟く。
「山の中に住んだら、人と競い合うなんてこと無いのかもね」
痛いよ。そんなこと今言わないでよ。
喉をつかまれたような感覚に陥る。少しでもあの出来事に顔を向けたくない。
「まぁそうかもね」
「誰の目も気にせずに。」
沈黙。
蝉の生への絶望の叫び声と、鈴虫の羽がこすれる痛みを嘆く声と、白波を立てる風の音が僕らを支配する。
「あの事はもう忘れよう?君は、、、大丈夫、だから。」
僕の言葉が君の表情を満たせなかったのは、煩わしい虫の声と、風のせいで聞こえていなかったから、きっとそうだ。
カヌーに揺られる君は、君にしか見えない何かを見つめている。
僕を見て。せめて、僕の視界に存在するものを見て。嫌いになりそうだ。
そんな理由で君を嫌いになりそうな自分が嫌いだ。
ボートを降りたら、君は僕の気持ちなんぞ気にも止めず、笑顔で蝶を追っている。
あの情景を思い出す。
君はまるでウミガメの赤ちゃんだ。
ウミガメの赤ちゃんは孵化する前、すなわち卵の中で成長していく時、砂浜のわずかな温度や湿度の変化で、殻の中の幼体はあっけなく死ぬ。
近年、猛暑日の連続に伴う砂浜の温度上昇や、何日も降り続く雨に伴う砂浜の多湿により、約一二〇個の卵群でも一つも孵化しない場合も増えてきている。
僕は湘南の砂浜保護の仕事をしている。リゾート地であるが故に人が集まる。金魚の糞のようにゴミも集まる。僕は、そのようなゴミを放置する輩を規律したり、砂浜の状態調査をする。
だが、そんな湘南にはウミガメだって出産にやってきてくれる。観光客に踏まれる可能性があるウミガメの卵群を守るのも、僕の仕事だった。
ある時、通常だと幼体のウミガメが、満月に向かって大いなる一歩を踏み出す時期に差し掛かったのにも関わらず、そんな兆候が一向に見受けられない年があった。
孵化時期が著しく遅いその卵群を調査するため、母ウミガメが掘った穴を覗くと、未だに綺麗な状態の卵が残っていた。
無数の卵の中の一つを、調査のために恐る恐る開く。
すると、歪んだ輪郭をしたグチャグチャの、形になる途中の赤ちゃんがどろっと落ちた。全身に走る激しい衝動に瞼が震える。毛が逆立ち、喉の奥から何かが上がってきた。
その年の、異常気象に伴う大型台風の連続直撃の影響で、日夜絶えず雨が降り続き、砂浜の湿度に耐えられなくなったその卵群は、全滅した。
彼女は二年前の冬、ストーカーに遭った。
初めは帰り道をついて来ることから始まり、時が経つにつれて、無数の脅迫メールや、極め付けはピンポンダッシュであった。警察に通報し、ストーカーをしていた人間が特定された。その時彼女は、真実を知ったことに後悔をする。職場の同僚の男だったのだ。
男は社内に恋人がいた。その女は、君が仕事でうまくいく姿を好ましく見ていなかったらしい。彼氏である男に君をつけ回すよう指示したのだ。当初その女は、君を怖がらせるだけのつもりだったが、男は君のことをストーキングするうちに、無意識に好意を寄せ始める。結果的に男は単独で、より過激なストーカー行為をし続けたのだった。
男は今頃、勾留所で不味い飯と孤独を味わいながら、窓から差し込む太陽の光を羨んでいるのだろう。が、その女は罪に問われる事はなかった。証拠となるようなメールなどもなく、本人は容疑を否定し続け、ついに法的措置を免れた。会社を辞めた今、どこかでのうのうと生きているのだろう。
それから君は心に大きな傷を負った。
外見は何も変わっていない。相変わら綺麗なままだった。だからこそ僕は、君の苦痛に気づけなかった。
それからというもの、君は人間を信用しようとせず、道を歩けばいつも後ろを振り返っては、見えない何かに怯えていた。
でも僕は君に言いたい。なぜ君は僕に伝えてくれなかったのか。
相談くらいしてくれれば僕だって力になれたはずだ。君を救うためならなんだってしただろう。ありがちなセリフだけど、本当に。
それ以来、僕もずっと考えてしまうようになった。
仮にあの時、君が僕に相談してくれたとして、いったい僕はどういう行動をしたのだろうか。
仮にあの時、君の前で「最近忙しくてさー」なんて会話をしなければ、君は僕に相談してくれていたのだろうか。
仮にあの時、僕が誘ったデートを「日曜日も出勤しなきゃいけなくなったから」と言って断ったことの違和感を言及していれば。
仮にあの時、仮にあの時、仮にあの時。
見えない夜に駆け出していく君の背は、孤独だった。
君は外側は美しいまま、僕の知らないところで勝手に死んでいった。些細なことから始まり、それがだんだん君を壊していく。僕が殻を割ったときには、人間を信用できない人間になっていた。
それは人間なのか。
それは、形の崩れた君だ。
それでも二年の歳月を経て、だんだん君は形を取り戻し始めてきた。これには少なからず僕が貢献していた、と言っても過言ではないはずだ。
事件の当時、力になれなかった僕はその後、全力で君を支えた。
仕事の合間を縫って君の所へ駆けつけたり、有給はすべて君との時間に使い切った。
今、君はだいぶ笑顔を取り戻している。
未だに拭きれないところもあるが、僕と君の二人なら乗り越えられると思う。
これからも支え合いたい。
そんな思いをこめて今日、君との四年目を誓おうとしたのだ。
ページをめくるかのように空は藍色になり、星が一斉に煌き始めた。
広大無辺の夜空の星々を見ていると、僕らは本当にちっぽけであった。
僕らは木々の間を、白いプリウスで颯爽と駆け上り、『星の降る山のフレンチ、グリーチ』に到着した。
一日を通していい日だった。カヌーの上での一瞬も、君と過ごす日常の中で、たまにあることなのだ。君はそれだけの傷を負っているんだ。僕が包んであげないでどうする。
店のドアをドキドキしながら開けると、山の中にこんなに人が集まるのか、と驚く。メディアの影響力は恐ろしいものだ、と感じる。僕らは慣れない手つきで膝の上にナフキンを置く。二人、目を見合わせあって小さく笑う。肩をすくめた君は、とてつもなく可愛い。
隣の席に座る老婦人の二人のうち、右に座る婦人が僕らを見てクスッと笑う。僕はむっとして婦人らを見る。
すると左に座るの婦人が、
「ごめんなさい、この人悪気はないんです。」
右の婦人は軽く一礼し、
「ごめんない。悪気はないけどあなた達、ナフキンを広げるタイミングは、ギャルソンがドリンクやお水を持って来てくださった時よ」
君は身を乗り出し、
「ギャルソンとはなんですか?」
「そうね、フランス語でウェイターという意味かしら」
右が答える。
そういうことか。いや、それでも、笑われるのは少し納得いかないが、ありがとうございますと返事を返した。一方君は、なんと婦人らと仲良くなっていた。
それを見て僕も、夫人らと会話を交わし始める。
僕は君が、楽しそうに話をしている姿を見て、本当に嬉しかった。
僕らはポワレをほおばる。なるほど、これがテレビで紹介されたフレンチ。ナフキンを広げるタイミングのわからない人間でも、この味の素晴らしさは、他のフランス料理店と比べても天と地の差がある。いや、もともとフレンチを食べる機会が少ないけれど。
「このパテっていうパンにつけるやつ、ほんとに美味しい」君は小さな声で僕に言う。
「バケットよ」
切れ味の良い包丁がスパッと大根を切るように、老婦人が入ってきた。
さすが婦人、素晴らしい反応である。
それから老婦人には様々なことを教えてもらい、すっかり僕らは二人と仲良くなっていた。
数十分後、婦人らはデザートのタルト シトホン メランゲを食べ終え、帰路に着いた。この後は、日本有数の夜空の名所、『星の丘』というところに行くらしい。
「ここからそれほど離れていないし、ここに来たついでにね」と言い残していく。
僕の今日のデート計画に追加するのもいいな。そんなことを思っていたら
「私たちも行ってみない?」
君が目を輝かせながら言ってくる。
「ちょっとそれ、僕も今言おうとしてたんだよ」
「ほんと?意外とそういう粋なこと考えるんだね。」
「僕だってそのくらいはさぁ」
目を細めて笑う君。
途切れることがあるだろうか。
いなくなることがあるだろうか。
僕ら二人はきっと今後も、共に歩いていける。
君の失った部分も、僕が持ち合わせてない部分も、拾い合って埋め尽くせる。
きっと二人なら。
そんな思いを込めて僕は
「今日ってなんの日かわかる?」
「海の日とかだっけ?」
「それは先週。」
「なんかの記念日?そういうのだったら今まで一切なかったからわかんないよ」
そう。君のこういうところも好きなんだ。
「僕ら付き合ってちょうど三年だよ」
「え?」
「七月二十六日」
「あ!よく覚えてたねそれ!」
「忘れてたでしょ」
「もう覚えた」
いたずらっぽく笑う君に、少し時間を空けて言う。
「これからも二人で一緒に、、、」
会話を聞いてたのか、というくらい、変なタイミングでケーキが運ばれてきた。
なんという絶妙なタイミングなんだ、ギャルソン。
でも君の驚く顔が見れたから、それも気にならない。
「え!これどーいうこと?」
「あ、これ、サプライズ!」
「すごい!こういうことしない人なのに!」
君のクシャって音がするくらいの笑顔。そう、それが見たかった。
ケーキを運んでくれたウェイターが、ケーキの説明をし始めてくれた。
「こちらはガトーフランボワジーでございます。日本語ではショートケーキですが、当店では栃木県産のイチゴ、スカイベリーのジュレを混ぜた生クリームを使用し、、、」
ふと気づくと、君は顔を覆って泣いていた。
普段こんなに感情をあからさまに出す人ではないので、こんなに感激するとは思ってもなかった。
ちょっと待って。そんなに泣かないでよ。
ちょっと。様子がおかしい。
小刻みに震える肩、細い指の隙間から見える顔は血の気が引いている。
「ねぇちょっと、どうしたの?大丈夫?」
「・・・」
「大丈夫?なにかあった?」
○
「こちらはガトーフランボワジーでございます。日本語ではショートケーキですが、当店では栃木県産の、、、」
胸が凍りつく。かすれた冷たい声。
私はゆっくりと顔を上げた。
それを見る。その大きく見開かれた目を。
私の形を壊した些細なそれ。
私を狂わせた元凶であるそれ。
そこにはストーカーを指示したあの女が立っていた。