告白 9
宮治はそんな好戦的な風香の口調を一笑すると、ふと、伊太郎の方に視線を投げた。
それは不思議な眼差しだった。懐かしさとも、珍しさとも違う。敢えて例えるのなら、可哀想がるあのババァの目に似ていた。
でも、同じなはずありえない。長年施設のオーナーとして運営に携わってきた彼が、そう言う風に子どもを見るなんてありえないはずだからだ。
とはいえ、伊太郎は宮治と過ごしたのは初めの一年だけ。彼の事をよく知るわけじゃない。世話になった恩を感じないわけではないが、懐かしいというほどの間柄でもない。
だからさした落胆もしないで済んだ。伊太郎はただただ居心地の悪さに苦笑し「お久しぶりです」と軽く頭を下げただけだ。
宮治は目を細めると、軽く頷いた。最近、物忘れが始まっていると聞く。もしかしたら、自分の事は覚えていなかっただけかもしれないな。伊太郎はそう好意的に思いなおすことにした。
「重清は使いにやってるよ。お客様に出すお茶受けを切らしていてね」
「そんなら、私に言ってくれたら途中で買って来たのに。だいたい重清が買うお茶受けって、どうせいつもの福々堂のまんじゅうか羊羹でしょ?遠いじゃない。片道自転車でも20分はかかるし、お客さん、待たせる事になっちゃうでしょ?」
「そうだな。気がつかなかったよ。次からはお前に頼む事にしよう」
宮治は頷きながら客の二人に「すみませんね」と付け足した。二人は「いえ、おかまいなく」と無難に返す。
「そういや、風香、頼んでいたものは……」
宮治がふと気がついたように言葉を向けた。風香は唇を尖らせ、背負っていたバックパックを肩からおろし、中をまさぐる。
「持って来たよ。けど、宮じぃさ、CDなんか聴けるの?」
「馬鹿言うな。それくらい造作ないわ」
風香はCDケースを取り出すと、客の二人の隣を通り抜け、宮治に差し出した。それは販売されているようなものではなく、ラベルも何もない真っ白なCDだった。
「これは?」
空知神父も不思議に思ったらしく首を傾げる。
風香はなぜか自慢げにその神父を振り返った。
「クラシックよ。うちの保育士さんがヴァイオリンで弾いてくれたの。毎週土曜にいつも聞かせてくれるんだけどさ、私、いつもそれ、録音してて、宮じぃに話したら、ど〜しても聞きたいって言うからさ、コピーしてあげたわけ。凄く綺麗な音色なんだから。これはもう、世界の宝ね。これが聴けるのと聴けないのとじゃ人生、3倍くらい幸福度が変わると思う」
風香は本当に宮治さんが好きなんだな。
今日は、こんな風香が見られただけでも良かったかもしれない。うざい風香が少しだけ好きになれそ……。
そこで伊太郎は慌てて思考を強制終了した。
好き?自分が、風香を?
「ありえないって」
思わず声に出る。
しかし、心臓が何かを勘違いしたのかその収縮を速めていた。馬鹿、違う。伊太郎は、言う事を気かない自身の体に向かってそう言うと、俯いた。
「伊太郎君?」
肩に手を置いたままの晴美がそんな伊太郎を覗き込む。するとさらに心臓はアクセルを踏み込み、手がつけられなくなる。
なんだよ!もう!
伊太郎は口を固く結ぶと完全に俯いた。
「いたろ〜。やらし〜」
「関係ないだろ!」
本当は大ありだが。伊太郎は怒ったように立ち上がると、風香の傍まで歩み寄り彼女の手を強引に握った。
「いいから、帰ろう。これ以上ここにいたら僕達邪魔だって。CD渡せたんだし、風呂とか飯は今日はいいって言ってるんだし、行こうぜ!」
「けど!」
「いいから!」
伊太郎は一刻も早くこの状況から逃げ出したくて、風香の手を引っ張った。小柄な風香は簡単に伊太郎に引きずられる。
「ごめんなさいね。今度、施設でお会いしましょう」
「すみません。気をつけて」
「すまんかったな」
大人三人の声がそれぞれ子ども二人に投げられる。
「ちょっとお!」
まだ諦めない風香を引っ張りながら、伊太郎は部屋を出る前、三人の方をもう一度だけ見た。
宮治と目が合う。
やっぱり、宮治は自分を憐れみの目で見ていた。それに不快感がこみ上げ、眉を寄せる。
なんだ、元オーナーっていっても、豚ばばぁと変わりねぇんじゃねえか。それとも、約束を反故された俺がそんなに『可哀想』か?うっとおしい。
この視線は勘違いじゃない。そう確信した瞬間、もう、好意的にその視線を受け止められる事をできそうになくなった。
伊太郎はその視線を遮断するように頭を下げ、それを振り切るように風香とこの家を後にした。