告白 39
汚いスニーカーが毛布の先から二足並んで顔を出している。
「ずっと気になってたの」
「え?」
ドキリと胸が蹴り飛ばされ、伊太郎は風香の横顔を見る。しかし、風香の視線はどこかに漂い、伊太郎の事は見ていなかった。
そこで、ようやくこの役目は自分じゃなくてもいいのに気がつく。
あの事件の事を知っているのなら、伊太郎じゃなくてもいいのだ。きっと。
それに気が付いた時、悔しさとやるせなさに伊太郎は居心地が悪くなり、やはり風香のように自分の汚いスニーカーを見つめた。
「どうして司さんも、重清も、柳のババァも名乗りでなかったんだろ。だって、そうでしょ? 相続を主張する位なんだから、始めから自分達は前妻の子どもとその子どもですって言えばいいんじゃない。こそこそ遺言書何か探さなくてもさ。それをあんな風にしたから、おかしくなったわけで」
伊太郎には、それは結果論だと思った。
蓋を開ければ宮治は娘の事を忘れてなどいなかったし、遺言書も彼女達の為にしたためられていた。
それがわかったからこそ、そう言えるが。おいてけぼりをくらった子どもには、きっとそれを確かめるのには勇気がいる。そう、かなりの、だ。
「風香。こんな風に思ったことない?」
「?」
伊太郎の声に風香はじっと耳を澄ませる。
「忘れられるくらいなら、憎まれた方がましだ。忘れられるのが怖い」
柳は、怖かったんだとう思う。司も、怖かったんだと思う。
名乗り出ても、もしかしたら忘れられているかもしれない。
めんどうがられたり、うとまれたら、それなりに哀しいだろうけど、共通の時間を軸にお互い揉める事だってできる。
でも、忘れられていたらどうなる?
共通に過ごしたはずの時間が、否定されたらどうなる?
それが、怖かったんだ。
とくに宮治はあの時物忘れが酷くなっていた。尚更、彼らは名乗り出るなんて事はできなかったのだろう。
「わかんない」
風香は拗ねたように吐き捨てると、唇を尖らせ缶コーヒーに手を伸ばした。二缶掴んで一つを伊太郎に差し出す。
両手で受け取ると、先まで冷えていた指先がジンジンとして、いたがゆかった。まるで、今の自分の気持ちのようだ。
伊太郎はじっとその指先を見つめる。
「でもね、僕も風香の意見には賛成なんだ。名乗り出てくれたら良かったのにと思ってる」
「でしょ? だって」
「宮治さんはきっと気づいていた」
風香の声を遮って、そのことを言うと、風香はその大きな目を何度か瞬かせてから、ふっと微笑んだ。
「そう。それ。宮じぃさ、しょっちゅう司さんのバイオリンの話、聞きたがったんだもん。私も、司さんにそれ毎回報告してたんだけどなぁ。宮じぃはどっかで勘付いてたんだよ。それで、待ってたんだと思う。重清と」
重清の件についても、彼はきっと気づいていた。いくら行き場がないからと言っても、施設の人間を全員引き取っていたら身が持たない。特に、重清は愛想がいいわけでも、何ができるわけでもない。
唯一の特技は家庭菜園くらいだ。
重清を引き取ったのは、やはり孫だったからじゃないだろうか。
「司さんが一緒に住むのなら、重清さんは?」
「柳のババァと一緒に住むんだってさ。ババァ、あぁ見えても顔が広いから。あ、顔がでかいって言う意味じゃなくて、知り合いが多いって言う意味ね」
「わかるよ」
「あはは。で、その知り合いに農家がいるから、重清はそこで働くって。親子の時間を取り戻すつもりらしいよ」
「そっかぁ」
あの日、叫んだ重清の言葉。
伊太郎は思い出して、彼もまた報われることを素直に嬉しく思った。
「アルバム。面白かったね」
風香が缶コーヒーを握りしめながら呟く。
小さな気泡がゆるゆる上がって、弾けた。そんな感じの声に、僕は目をそらしてただ頷く。
宮治さんの家で見たアルバム。
あの日、柳に言われて宮治の家にきた司が探しに来たのはこれだと、今日、聞かされた。
どうしてこれなのかわからない。でも、もしかしたら風香同様に『宮治の大切なもの』とでも言われたのかもしてない。そして、司が思ったのはこれだった。今際の際に必要なのは、遺言ではなく、記憶だと、思ったのかもしれないし、そうであってほしいと思ったのかもしれない。
「あれに、今度は三綾さんの写真も入るんだよね」
風香が寂しそう呟いた。
シスターの衣を脱いだ三綾は、司のとなりで幸せそうに微笑んでいた。愛する人とともに、恩のある人の世話が出来る。幸せだと。そう言っていたのを伊太郎も思い出し、切ない気持になる。
自分の母も、あんな風に思えたら、きっと幸せだったんだろうな。何が違ったんだろう。
「あぁ」
傍に誰かいるかいないかだ。
母は孤独だった。三綾は孤独ではない。
孤独、寂しさ、それは人を狂わせるんだろう。時に、怒りや憎しみ以上の力でもって。
「寂しい?」
風香の顔を覗き込む。
風香は今にも泣き出しそうなあやふやな顔で笑って口を噤んだ。きっと、声をだせば泣いてしまうからだ。
本当なら、ここで抱きよせてキスでもして、忘れろと言ってしまいたかった。そんな想像、正直、何度もした。
でも、実際、伊太郎が出来るのは……。
そっと風香の片手を缶コーヒーからもぎ取ると、毛布の中で温めるように握った。
風香は一瞬驚いたように身を固くしたが、すぐにその手を伊太郎にあずけ、自分の膝に蹲るように体の力を抜いた。
寂しさは、独りじゃない証拠だ。
誰かといた温もりを知っているから、不意に独りになった時の寒さに凍え、俯いてしまう。もし、ずっと本当に一人なら、一人を寂しいとはきっと思わないだろう。
孤独を感じるというのは、そういう事なんじゃないかと、伊太郎は思っていた。
親のない、本当に赤ん坊のころに捨てられた風香の孤独を、すっかりくみ取るほどの大きさは、まだ自分の手にはないけど、寂しさの切れ端をこうやって温めるくらいはできてもいいんじゃないか。
伊太郎はそう思った。
「温かいね」
風香が秘密を打ち明けるような声で言った。
伊太郎はただ頷いた。
風香の髪の香りがして、肩に重みを感じた。風香が寄りかかっているのがわかった。微かに耳をくすぐる呼吸が、眠そうだ。
「風香は、自分の親、恨んでる?」
風香の中にある寂しさはどれだけ深いのだろう。それはいつか柳達のように形を変えて彼女を飲みこみやしないか。伊太郎はそう思って訊いた。
しかし、風香はそれも曖昧に笑ってやり過ごした。
沈黙が津々と、冷たい夜に広がり、自分達の肌を凍らせようとする。しかし、毛布の下で繋がれた手は、凍る事はないと伊太郎は信じていた。
「伊太郎は、どうするの? 春から」
風香の声がわき出たように虚空に浮かんだ。
「うん。一応、受けたのは奨学金がもらえて寮のあるところ」
伊太郎は、施設を出ていくつもりだった。できれば、いずれは母とも住むつもりだ。まだ決めてないけど、高校が受かれば、面接で母に相談する予定だった。
もう、母が孤独でなくていいように。
でも、風香は……。伊太郎はまだ沢山のものを抱えられない自分の手の小ささを痛感しながら、風香を握る手に僅かに力を込めた。
「ふぅん」
「風香は? 受験してたよね」
「うん。もう、決めてるんだ。 私もたぶん……春に、は」
風香の声がとろんとしてくる。
そして、話し終える前に、風香は完全に夢の中に溶けて行ってしまった。
その寝顔を見ながら、伊太郎は力を抜いて壁によりかかる。その時、初めて自分が今まで必要以上に肩に力を入れていたのに気がつき、小さく苦笑いした。
彼女の寝息が隣りで聞こえる。
長い睫毛が傍で揺れている。
触れたい唇がすぐそこにある。
でも、伊太郎は目を瞑った。
そして心の中でそっと彼女に自分の気持ちを告げてみる。
当然、聞こえるはずも伝わるはずもない。
ヘタレだな。とそんな自分を罵りつつも少し誇りに思いながら、伊太郎も夢の中へと落ちて行った。