告白 37
季節はあの日から冬を越え、春に差し掛かろうとしていた。
伊太郎は国道沿いのあの道を、風香と自転車で走っていた。宮治が退院し、新しい生活が始まるのを祝うために尋ねていたのだ。
思いがけず長居をしてしまい、時刻はとっくに門限を過ぎて夜中といえる時間に差し掛かっていた。泊って行くように引き留められたが、風香が帰ると言ってきかなくて、今、こうやって白い息を飛ばしながらペダルを漕ぐはめになっている。
まだまだ冬の気配が色濃く残る風は海のそばと言うのも相まって、身を切るように冷たかった。
伊太郎はあの日、宮治の告白を受けてから風香と一緒に病室を後にした。
なんだか脱力してしまい、二人で病院のロビーで缶コーヒーを飲みながらぼんやりしていると、晴美達が女性を一人従えてやって来た。
服装が変わっていたのでわからなかったが、よく見るとあの病室にいた看護師だった。
三人は伊太郎と風香に「お疲れ様」と声をかけると、食事に誘ってくれた。
昼もろくに食べずにいた伊太郎と、元来食い意地の張っている風香は一にもなくその誘いに乗った。
連れて行かれたのは、近くの洋食屋だった。
斜めに差し込んでいる陽が、自分達の呆けていた時間の長さを教えていた。夕食が入らなくなるという心配は、成長期の二人にはなかったので遠慮なくご馳走になる事にした。
それにしても、気になるのが、この看護師と依頼についてだ。
彼らがもう、まともと言っては少々失礼だが、非日常的な目的で行動しているのは明らかだった。この看護師はもしかしたら仲間かなにかで、あのモニターを操作していたのかもしれない。
つまり、宮治の心停止はダミー。
そんな事を考えてオムライスを口に運ぶ伊太郎に、晴美は「大当たり」といって微笑みかけた。
もはや、伊太郎は彼女が心の声を聴ける能力の持ち主だという事に、確信を持っていたので、心の中で「やっぱりね」と返す。
その反応が晴美は気に行ったのか、嬉しそうに目を細め「モニターはベッドの下に隠れていた空知神父につけていたんですよ」と種明かしをするようにそっと告げた。
その一言が逆に伊太郎を混乱させたが、神父の方を見ても、偽看護師の方を見ても教えてくれそうにはなかった。でも、晴美に特殊な能力があるというのなら、彼らに何かしらの能力があってもおかしくないのかもしれない。
「ね? 何の話?」
風香が二皿目のスパゲティいを平らげて口を拭きながら聞いてきた。食べている時は大人しい彼女も、食事が終わればその口はまた、お喋りの為に動き出す。
伊太郎は説明が面倒で「別に。デザート頼めば?」とおごりであるのにも関わらずそう言ってみた。真に受けた風香は無遠慮にメニューを捲り始める。
伊太郎はスミマセンと、神父に視線を投げながら、口には違う言葉を乗せた。
「あの、どうしても気になるんですけど」
能力の事も聞きたいが、一番は依頼人と依頼内容だった。
謎が結局自分の推理の他の所で帰結したのが少し悔しくも、なんだかしっくりこなくもあったからだ。ならば、せめて解法を自分にもわかるように説明してもらいたかった。
神父は頷き。
「依頼はお二人。宮治さんの奥さんと、司さんのお母様からです」
「は?どっちもいないじゃない」
風香が顔を上げる。しかし、神父はまた頷き。
「私達は、そう言った方々から依頼を受けるのを仕事にしているのです」
そう言った。死者からの依頼。きっと神父という職業の人間が言わなければ、簡単には信じられなかったかもしれない。いや、仮に神父だとしても、以前なら笑い飛ばしただろう。
でも、伊太郎にはこの説明で、全てがすっきりした気がした。
伊太郎は無神論者であると同時に、幽霊だの死後の世界だの信じた事はない。でも、ここではそれがあると仮定する。
宮治の妻、つまり後妻は夫が罪を抱えて生きていくのをずっと見ていた。罪は、告白通り、家族を裏切った罪と伊太郎の母親の犯罪を見逃した罪だ。痴呆でその罪を忘れて、赦しを得られる機会がなくなるのを、たぶん一番恐れていたのは宮治自身だ。だから、彼の代弁を彼の亡き妻が果たした。
司の母親については、遺言状だ。妹と息子が遺言状に気がつかず、犯罪に関わろうとしている。きっと生きていれば、いずれは話したであろうバイオリンケースの秘密を話せずに事故で他界してしまった彼女は、そのことを伝えてほしかったのかもしれない。
全ては、想像だし、信じ難いけどね。
伊太郎は肩をすくめながら晴美の方を「こんな感じでどうですか?」と見る。自分でも声にしたのかしなかったのかわからない。
でも、晴美は「また大あたりよ」と快く頷いた。
一方、デザートをちゃっかり注文し終えた風香は「なにそれ〜」と面白がって三人の顔を覗き込んでいる。
「じゃ、幽霊の願いをかなえるのが仕事?」
「亡くなった方だけでなく、声を上げたくても上げられない人の代弁が仕事です」
「へ〜。面白そうじゃん」
どこをどう、面白いと思ったのか、伊太郎には分からなかったが、今や三人の興味が風香に向いているのはわかった。
晴美がずっと沈黙していた偽看護師に目くばせする。
偽看護師が頷く。
晴美は確認するように風香に問うた。
「貴女、一度死にかけた事、あるわね」
「は?私が?」
ありますとも。
伊太郎は代わりに答える。ただし心の中で。
口にすれば風香は誰に殺されかけたか知る事になるかもしれない。それは不必要な事に思われた。
晴美は伊太郎のその声を聞いたらしく、伊太郎の方を見ると一度頷いて、再び風香の方を見た。
「もし、貴女が私達の仕事に興味があるのなら、一度いらっしゃいな。うちに」
「え? いいの?」
風香の顔がぱっと輝く。
晴美は頷く。
伊太郎は思い出す。宮治の意識を取り戻させたあの風香の掌の光を。
もしかしたら、風香も……。
そうして、季節は過ぎた。
伊太郎は少しずつ、殺人者、しかも身内殺しの息子であるという現実を受け入れ始めていた。
警察の追及が自分に及ばなかったのは、事件当時すでに施設に入れられており、警察の伊太郎への面会を宮治が頑なに拒否していたからとういのも、母親がすぐに罪を認め、控訴もせず、求刑通りの罰を受け入れ裁判がすぐに終結したという事も、父は離婚し3年前に再婚し別の家庭を持っているという事も……。
窓際で外を眺めていただけの少年の目に映らなかった現実は、遺産相続よりもいともたやすく調べる事が出来た。
母は宮治の言うとおり、春には執行猶予つきで出所するそうだ。一緒に住むかどうかは決めていないけど、高校受験の結果がもうすぐ出る。そしたらその報告がてら面会くらいはしに行こうと考えていた。
「ね〜。ちょっと付き合ってくれない?」
風香がそう言うと、伊太郎の返事も聞かずハンドルを繰って横道にそれた。国道沿いにあるコンビニに滑り込み、自転車を止める。
「なに? 買い物?」
「うん。ちょっと」
風香は珍しく言葉少なに返事すると、さっさといつ来ても変わり映えのない空間へと先に身を投じてしまった。
落ち込んでいるんだろうな。
伊太郎はその背中について行く。
宮治はあの後、あの告白が嘘のように再び意識レベルを落とした。麻痺も今度は嚥下機能にまで及び、呂律も回らない状態だ。痴呆も酷く、一日中ぼんやりといった感じだ。
もう、風香の事も覚えていない。
覚えているのは同居を決めた、司の事と柳や重清の事くらいだ。
あの時の光は、やはり風香の起こした奇跡だったのかもしれない。
風香も、晴美達の様な能力が……そうでなければ説明はつかなかった。
非現実的な事象に回答を求めるのは、いささか不本意だったが、自分の知っている現実なんて、世界のほんの断片でしかないことは母親の件で思い知った。
こう言う事もあってもいいかもしれない。
それに、何より、今、風香を落ち込ませているのはこれだけじゃないのだ。