告白 21
医師の説明が終わり、伊太郎と風香は、司に「他の子どもたちが二人の外出に気がつく前に帰りなさい」と、タクシー代を握らされた。
もちろん。司の言い分は正しい。他の連中に自分達だけ夜間外出したと知れるとちょっとした騒ぎになるはずだ。まだ宮治の事も皆に知らせるかどうか決めていない今は、この外出は伏せておく必要がある。
一目でも、と何度も風香は食い下がったが、今回ばかりは司は首を縦には振らなかった。
ICUには限られた人間が、限られた時間しか入れない。これ以上病院にいても会えないのは同じなのだ。
一般病棟に移れば連絡をすぐ入れるからと、司に説き伏せられ、風香はしぶしぶ伊太郎と再びタクシーに乗り、施設に戻った。
施設はまだ静まり返っていた。時間は6時45分。起床前に起きてくる奇特な子どもはここにはいない。
朝の空気は肌に冷たく、伊太郎は首を亀のようにすくめた。
玄関の鍵は開けられており、中に入ると宿直のシスターがすぐに出迎えてくれた。
伊太郎はそのシスターに目で風香を頼むと、シスターもその意図をくんで黙って頷き、風香の肩を抱くように「おかえりなさい」と手をまわした。
二三言シスターと交わす内容から、風香は自室に戻るつもりらしい。学校も今日は日曜で休みだ。ゆっくり体を休ませるの方がいいだろう。
伊太郎はシスターと自室に向かう風香の背中を見つめた。
小さな背中は、小さな花がしおれたようにしょぼくれている。彼女といると、苦しいばかりだな。
伊太郎は舌打ちすると、その花に雨は降らせてやれないまでも、気休めに水をやるくらいの事はしたくて口を開いた。
「風香。心配するなよ。大丈夫だって」
しかし、風香は項垂れたまま、何一つ言わない。足も止めない。聞こえなかったのかと思うくらい反応なく、伊太郎の方を気遣うように一瞥したシスターと廊下の向こうに消えて行ってしまった。
一人玄関に残される形になった伊太郎は、手の中にあるすっかり冷めた缶コーヒーに視線を落とした。
司はコーヒーを2本買って来ていた。1本でも4本でもなく2本。その意味するところは伊太郎の分と自分の分。
つまり、伊太郎が起きているのを知っていたのだ。あの自販機の前にいる時点で。
伊太郎は背中に一本、針金でも通ったような気分になった。
正直、巻き込まれたく何かなかった。が、今や抜けられないところにいる。なら、こっちから手を打ってやる。
伊太郎は腹をくくると、手の中の缶を握りしめた。
医師の話だと、宮治の出血は少なくなく、広範囲の脳を圧迫していた。手術の結果、命には別状はないとまずは言える状態だが、後遺症の方は覚悟がいるとの事だった。
年齢も年齢だ。意識がこのまま戻らないかもしれない。戻っても、痴呆の進行や麻痺範囲の拡大は逃れられそうにないらしい。
つまり遺言状がすでに存在するとして、その書き直しを迫る事は出来なくなる。内容を彼らが把握しているか否かは不明だが、探している所を見ると、まずはその内容を確認するつもりか、その内容が彼らの意向に沿わないもので握り潰すつもりなのかもしれない。偽造も考えられなくない。
でも、遺言状の偽造は意外に困難だと聞く。もし握りつぶすに留まるとしたら宮治の死後、ここの権利は誰にわたる事になるのだ?
「あぁ」
伊太郎は声を漏らす。
配偶者も子どももいない。他の親族ももしいないのなら、きっと生活を共にしていた重清のものになる。そしてその重清は司のいいなりの可能性が高い。こうなれば司の手に落ちたも同然だ。
ようやく、司の目的がはっきり見えてきた。
「遺言状を先に探し出す必要があるな」
内容は分からない。でも、少なくともそれがない状態に持ち込むのは、司の思うつぼだ。
自分に話を聞かれても慌てず、いつもの表情を浮かべている司のあの顔を思い出した。
中学生に何にもできないと思っているのか。それとも自分の計画に自信でもあるのか。
ふざけるな。
施設は……。
伊太郎は周りを見回し、目を細める。
朝日がそこかしこに射し込んでくる、玄関やそこから伸びる廊下。嗅ぎ馴れた匂い、肌に馴染んだこの空気。
風香の影が遠くで消えたその先を想う。
ここは、皆の、風香の居場所なんだ。
そんなのを、こんな胡散臭い奴に任せられるか。
伊太郎はもう一度コーヒーを握りしめると、勢いよくプルトップを開け、一気に自分の喉に流し込んだ。
コーヒーのほろ苦い味が体に沁み渡たっていく。そして伊太郎はそれを全て飲み干すと、玄関の隅のゴミ箱にありったけの力で投げ捨てたのだった。