告白 17
「何かあれから連絡はありましたか?」
司が彼の背中に声をかける。重清は黙って首を横に振って、ようやくソファに腰をおろした。
「なにも。でも、そ、そ、それは……」
「ええ。悪いことじゃないですよ」
先に言い含めていたのだろうか、司は重清にそう言葉を添えると彼を落ち着かせるように口を開いた。
「早くても遅くても心配ですが、お医者様は6時頃まではかかるとおっしゃってた。まだ待っていていい時間です。重清さんは僕たちがここに来たから驚かれているんですね?」
子どもに話すように言葉が選ばれている。伊太郎はそう感じて黙って聞いていた。それは実際、司の意識していないところでの重清を見下す態度にあたるのか、それとも重清には知能障害でもあるのか、伊太郎は知らなかったからだ。
重清の方も気分を悪くした様子はなく、素直に司の言葉に頷いている。そのやり取りには信頼感のようなものすら感じとれた。
それから重清は、司に向ける視線とは対照的な、まさに動物園の折の中の熊の様な、警戒と不信を混ぜたような訝しんだ目を、伊太郎と風香の間にうろうろ彷徨わせた。
司は眉を下げると、重清に見せるように風香の方に視線を向ける。
風香はここに来てからもまだ何も話していない。俯き、膝の上で両手を組んだまま、彫像のように動かないでいた。
「彼らが心配だと言うので。他の意味はないですよ」
「あ、あぁ」
重清が呻くような声で頷いた。それから唇をいろんな形に変えてから「し、心配するな。まかせろ」と彼なりの風香への優しさを口にした。
それから風香をなんとか元気づけようとしているのだろう、重清はのそり立ち上がると、差し入れをごそごそと風香の前に並べ「食え。食え」と繰り返した。
伊太郎は首を傾げる。
重清が家に戻った時、宮治が倒れていた。
もう、客はそこにはいなかった。
そして司とシスターが駆けつけた時には、救急車が着いたところだった。
本当に、これは事実なのか?
昼間感じた違和感と相まって、スッキリ飲みくだせない正体不明のなにかに、伊太郎は軽く唇を噛んだ。
そのまま、さした会話もなく、4人はそのまま転寝するように時間を過ごした。はじめに重清がいびきをかきだして司がそれを寝かせた。伊太郎も、重清の次に風香が船をこぎ出したのまでは意識はあったが、いつの間にか頭の内側に粘着質な飴をコーティングするような性質の悪い眠気に掴まり、そのまま夢の中へと落ちて行ってしまった。
夢は、酷く苦しいものだった。
やるせなさと悲しみ、そして焦りをごちゃまぜにした感情の深みの中に放り込まれたような、そんな夢だった。
夢の中で伊太郎は、可哀想がる、ババァや宮治の目にさらされていた。隠れようと逃げても、その視線は逃がしてくれない。ようやく辿りついた風香の部屋は空っぽで、呆然としていると母親の声がした。
振り返ると誰かがそこに立っていた。
でも、顔が見えない。
そして、伊太郎自身気がつくのだ。
自分はもう、母親の顔を忘れ始めている事に。
肌寒さに伊太郎は目を覚ました。体に僅かな重みを感じて首を廻らせると、風香が自分の肩に寄りかかって寝ているのが見えた。どうやら自分達二人はソファに寄りかかるように座ったまま眠ってしまったらしい。
二人に、重清と同じラクダ色の毛布が掛けられていた。
ふと、鼻先を甘い香りがくすぐった。
すぐにそれが風香の髪の香りだと気が付き、伊太郎は夢とは違う苦しさに彼女の体を突き放すようにうかせた。
離れた間に冷気が入り込む。彼女の温もりを惜しむように肌が震えたが、このままでいると身動きは取れないし、何より……。
心臓が寝起きにしては駆け足している。
寝覚めが悪くなる。
伊太郎は顔をしかめるとそっと、風香を起こさないように身をずらしながらソファを離れ、風香を寝かせた。
幸い、風香は僅かに声を漏らしただけで、起きはしなかった。きっと、精神的な消耗が激しかったのだろう。眠りは深いように見えた。