告白 10
「どうして素直に言う事なんか聞いちゃうわけよ。そんなにあのオバサンが気に入ったわけ?伊太郎の馬鹿!スケベ!エロおやじ!」
自転車を走らせながら前を行く伊太郎の後頭部に、遠慮や思いやりの欠片もない風香の悪口の矢が絶え間なく突き刺さる。
伊太郎は国道の道をようやく曲がり、一般の道に反れてから速度を落とし、風香の隣に並んだ。
「言いたい放題だな」
「そっちはしたい放題じゃないの」
「あの場はこうするしかなかったんだよ!」
伊太郎は鈍感なのか、空気をわざと読まないのか、はたまた身勝手なだけなのか、あの場で引こうとしなかった風香を軽く睨んだ。
「どういう事よ」
「お茶受け」
「へ?」
ちょうど目の前の信号が赤に変わる。伊太郎は少々乱れた息を整えながら、風香を改めてみた。
「重清さんに買いに行かせたって」
「うん。福々堂の羊羹でしょ。羊羹が何かまずいの?なに?羊羹が来る前に帰らないといけない理由でもあった?伊太郎、羊羹嫌いだったけ?でも、あそこの羊羹は……」
何回『羊羹』って言うんだ。伊太郎は心の中で突っ込みながら、話がそれるといけないので別の事を口にした。
「あったんだ」
「へ?」
「福々堂の羊羹」
伊太郎があの時、台所の戸棚の中に見たのは、間違いない。福々堂の羊羹と饅頭の箱だった。中身のないものを戸棚の中にしまうとは思えない。もしかしたら宮治があるのを忘れていたのかもしれないが、もしそうでも重清は確認してから出るはずだ。なぜなら、買いに行くのなら往復40分もかかってしまうのだから。
と、言う事は、宮治は重清に確認させずに買いに行かせた。もしくは古いものをお客様に出せないと突っぱねたのかもしれない。
どちらにしろ、重清にそう言った事を云いつけたのは……。
「宮治さん。三人だけで話したかったんだ」
「あ」
だから人払いした。いつも身の周りの世話をする彼にすら聞かせたくない話なら、自分たちに入る余地何かないだろう。それに
「たぶん、話は運営の話だよ」
「へ?」
風香は不思議そうに伊太郎を見つめた。いつものお喋りな口が、一音で止まる。
信号が青に変わった。
伊太郎はペダルを漕ぎだしながら、自分の考えを告げる。
「あの二人、ちょっと変だったと思わない?特に神父の方」
「耳の形?」
「そういう意味じゃなくて」
確かに耳の形はおかしかったけど。伊太郎は空知神父の耳を思い出し小さく笑った。
「ずっと、宮治さんの事、オーナーって呼んでたんだ。運営の事も「今の」ってわざわざ断りをつけてた。親しい仲ならそんな呼び方しないだろうし。想像だけど……たぶん、まだオーナーの名義は宮治さんなんだよ。宮治さんの状況も芳しくない。継ぐような子どももいない。運営をこのまま任せるのなら、運営の委託という形じゃなく、オーナーの名義ごと譲る形にしないかって話しに来たんだよ」
半分は勘の様なものだ。でもあの空気の感触は既知の間柄の人間の見舞いというより、ビジネスな感じだった。
もちろん、晴美の紹介も今日の訪問の目的の一つだったんだろうけど、それはどちらかというとオマケなような気がした。メインがそちらなら、今の施設の状況を簡単にでも自分達から聞き出しても良いようなものだ。
もう一つ、足せば、この訪問が突然だったというのも推測される。以前からのものならきっと風香に連絡していただろう。
「なによ!だったら、ますます見張ってなきゃ!私、やっぱり戻る!」
「よせよ。そんなの僕達が口出すことじゃないだろ?」
「でも!今、宮じぃは……」
風香はその先を言いかけて口を噤んだ。
噤んだ訳が伊太郎にはわかって、そこをつつくような事は憚られた。
風香は心配しているのだ。宮治の痴呆を。でも、そのことで彼が一人の大人として正確な判断ができないと、不用意に断言できるほど彼女は強くも無神経でもない。
「任せようよ。重清さんをお使いにやるくらいなんだ。宮治さんにだって考えはあるだろうし、きっと、僕達の様な子どもが傍にいても、きっと宮治さんを……」
「わかってる」
風香はそれきり黙ってしまった。
彼女自身、彼女の宮治を見る目の変化に気が付き、傷ついているようだった。
尊敬と敬愛。そして感謝。そんな気持ちで始めたはずの身の回りの世話は、少しずつその形を変えていたのだ。
それは悪いことではないと伊太郎は思う。仕方のない部類の問題だ。
でも、きっと、風香には許せない事なのだろう。特に、これまで周囲に『可哀想』のレッテルを張られ見下されてきた彼女にとっては。
だから伊太郎もそれ以上口を開けなかった。
陽は傾きはじめ、もう、西の空が赤く染まり始めようとしている。それは今、隣をゆく風香の頬の色と同じ色をしていた。