告白 1
孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、
孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。
バルザック
伊太郎はその日も窓の外を眺めていた。
孤児院、今風に言えば児童養護施設の中の彼の部屋。昨日、同室者が出て行ってしまったから、今日からしばらくは一人部屋だ。
六畳の部屋に二段ベッドとタンスが二棹、申し訳程度の本棚が一つだけの簡素な部屋。うち一棹は出て行った奴が使っていたから空っぽだ。本棚にも四冊しか本は並んでいない。伊太郎がゴミ捨て場から拾って来た古い文学集だ。
昨日まではその本棚もいっぱいだった。漫画ばかりだったけど、賑やかだった。伊太郎はマンガしか読まないそいつを軽蔑していたが、いざ、出て行ってしまうと、寂しいものだ。
アイツは、いる時もいない時も、人を不快にさせるんだな。まさに不快の天才だ。そう愚痴りながらも、伊太郎は抜け殻のようなこの部屋を見回すのも嫌で、いつもより少し意固地になって外を眺めていた。
聖ペテロ児童養護施設。
伊太郎の部屋はここにあった。
宗教色バッチリのこの名前は、この孤児院を経営するのが教会だからだろうけど、そんな事は伊太郎には関係なかった。伊太郎は無神論者だ。
もし、神とかいう奴がいるのなら、一度お目にかかりたい。お目にかかり、思いっきり罵倒してやるのだ。
『この独善者!』と。
「いたろ〜」
伊太郎が唇を突き出しながらそうやって老犬のように外を眺めていた時だった。鈴の音に似た軽やかな声がして、伊太郎の顔は一層ひきつり、その頬に赤みがさした。
そんな自分の怒ったようなその表情が窓に映り、その後方に見えた笑顔に伊太郎は舌打ちする。
ちょっと面長で色の白い自分と、やや丸顔で日に焼けている彼女は表情も含めて、まるで違う生き物のように見えた。
「何だよ」
「また、ママを待ってるわけ?」
風香は肩のあたりで外に跳ね上がった髪を揺らすと、その大きな目をにんまりと細め、からかうように伊太郎を覗き込んだ。
「ママじゃない。迎えの人間だ」
伊太郎は、何かにつけて自分にちょっかいを出してくるこの女が苦手だった。
風香。
同い年の15歳だ。伊太郎がここに来た時、彼女はすでにここの住人だった。というより、風香は赤ん坊の頃からここにいるらしい。
児童養護施設で保護されてる子どもの事情にはいろんな種類があるが、伊太郎のように途中でここに来たのと違い、正真正銘、生まれてすぐに捨てられてここに来た風香は珍しい方だと思う。
風香は、赤ん坊のころ、ここの庭の大きな銀杏の木の下に捨てられていたのだそうだ。
夏に差し掛かる季節の暑い日だったという。彼女の名前どころか、身元を割るものは何もなく『風香』と言う名はここのシスターがつけたと聞いた。
「なぁんだ、独りになっちゃた〜って、また泣いてるのかと思った。だって、伊太郎ってさ、いっつもここで外見てんじゃん。アンタ、ここに来てからこうしてるから、もう五年になるんだっけ。怖いよ。うん、キモイ。アンタの姿、外から見たらどんなのか知ってる? 幽霊そのもの! ここいらじゃあんたのせいで、この窓がちょっとした心霊スポットになってるのよ。もう〜、教会の施設に幽霊なんてシャレにもならないわよ。どうせなら、もっと景気のいい顔出来ないの?」
風香はべらべらとその良く回る舌で矢継ぎ早に何か言っている。風香はよくあの銀杏の木の股から生まれたんだと院の連中はからかっていたが、伊太郎はまず、間違いなく風香は口から生まれてきたんだろうと思っていた。
このお喋りさえなければ、結構可愛いのにさ。と伊太郎は勝手に隣に並んで外を見ている風香の横顔を盗むように見た。
風香はのんきな顔で鼻歌を歌い出している。きっと彼女はあれだ、マグロが泳いでいないと死んでしまうように、何か声を発していないと死んでしまうのだ。
そんな風に伊太郎がぼんやり考えている時、知ってる形の車が止まった。
車の停車音がする度、たいてい伊太郎の肩は期待に強張るのだが、この音だけは別だった。
特徴的な、端的に言えば下手くそな停車。白の軽ワゴン。
ボランティアばばぁのご到着だ。
「あのおばさん、また可哀そがりにきたよ」
風香が苦々しそうにそう毒づいた。『可愛がる』ではなく『可哀そがる』その言い回しには伊太郎も賛成だ。あの太った豚が服を着たようなおばさんは、ここの子どもに週一度だけ絵本を読み聞かせに来るボランティアで、彼女がやっているのはまさにそれだからだ。
いつも、子どもたちを無理やりに集め、勝手に選んできた本を、そのだみ声で無理やり聞かせて帰る。施設に入所したばかりの子供にはそれなりに受けがいいが、長年ここにいる連中にとってはうんざりする存在だった。
その最たる理由がそのおばさんの口癖だ。
おばさんの口癖、それは
「『可哀そうな子どもたち。おばさんがママの代わりになってあげるからね、思いっきり甘えていいのよ』」
隣の風香がしかめつらでそのまねをした。あからさまに不快な色を浮かべるその横顔に、伊太郎は少々小気味く感じくつくつと笑った。
おばさんは、その巨体を揺らし『私はいい人です』と言わんばかりに胸か腹かどちらともつかないそれを張って、玄関に続く道を歩いて行くところだった。
「なにが『可哀そうな子どもたち』ての。親がいない=可哀そうって決め付けがおかしいよ。親がいる子どもは皆幸せなのかって話。親のエゴとか都合に振り回されてさ、がんじがらめの奴隷のような子どもなんかより、よっぽどこっちの方が幸せだっての。なのにさ、あのばばぁ、私がそう言っても『寂しいのね、可哀そうな子』って、おかしいんじゃない?豚耳、ぜったい言葉の変換機がついてるんだよ。その変換機をとおせば、全部おばさんの都合のいように聞こえるって奴がね。あぁ、虫唾が走る。私、週の中で、おばさんが来る土曜日が一番嫌いよ」
やっぱり風香のお喋りは決壊したダムのようだったが、この意見には伊太郎は大賛成だった。
親のエゴとか都合……その部分には胸が疼いたが、それでも、少しだけ独りきりになったこの部屋にいるのが、嫌じゃなくなった気がした。