生きてみる男
「とんでもねぇ力があるのに使うなと言われ、無視しようものなら捻じれて死ぬ。何もしなくても邪魔者で、どこへ行っても蔑まれ、疎まれる。逃げる手段が死ぬしかねぇ。酷ぇ責め苦だ。これが罰じゃねぇなら何だってんだ? あるいは地獄か?」
男は俯き、右手で額のバンダナに触れた。その手によって顔に影が差す。さっきまでは焚火の明かりに照らされてよく見えたのに、今や暗い闇が纏わりつき、その表情は見えない。まるでそこが地獄の入り口になったかのように、深淵がこちらを覗き込んでくる。
「俺だって、こいつらだって、お前たち異世界人を恨んでいる。こんな世界にした元凶だ、殺したいとも思ってるさ。けどな……」
右手が力なくだらりと下ろされ、再び顔が露になる。だがその表情は曇り、力ない笑みが唇を歪めている。静かに燃える炎に照らされた瞳は輝き、どういう訳だか、泣いているように見えた。
「どいつもこいつも揃って惨めに形も留めず死んでるのを見る度に、流石にもう『ざまぁみろ』とも思えなくなってきちまった。こんな死に方する為に来た訳じゃなかろうに、どうしてそうなるしか道がねぇんだろうなって。それが"運命"だってのか?」
哀れすぎるよ、お前たちは。男は消え入るような声でそう呟いた。
身動ぎする事すら困難に思える程の重苦しい空気が周囲を満たし、誰もが押さえつけられるようにうな垂れた。
薪の爆ぜる音だけがする。虫や獣の鳴き声は聞こえず、この場にいる者の息遣いすら耳に届かない。ひとつの光源を囲んでいようとも、それぞれが孤独であるように思えた。ただ偶然、ここに居合わせただけの、別々の命たち。そう思っているのは俺だけだろうか? そんな事を思いついた時、自然と口が動き、声を発していた。
「俺、この世界に来る前、向こうの世界で死んだんですよ」
全員の顔が跳ね上がる。困惑か、それとも猜疑か。また理解出来なかった者もいるのだろうか? 俺は彼らの視線だけを感じながら、しかし顔を上げる事なく、焚火を見つめたままでいる。誰かではなく自分に言うつもりの、まるで独り言のような口調だった。
「理不尽で、まさに"運命"だって言いたくなるような死に方でした。『俺は今日ここで、こうやって死ぬ為に生きてきたんだろうな』ってくらいの」
思い返してみても、やはりどうしようもなかったという結論しか出ない。後悔よりも憤って、けれどやっぱり口惜しくて。そんな時にあの"意思"が届いたのだ。俺に力を授け、別の世界へ送る。思えば突拍子もない事を、俺はあっさりと真に受けた。
「でもこうしてこの世界に送られてきた。別人としてではなく、元の自分のままの姿で、とんでもない力まで与えられて。だったらこう思うでしょ? 『俺の死はこの為にあった、ここからが本当の始まりなんだ』って」
俺は選ばれた。俺は特別なんだ。誰もがこうなれる訳じゃない。俺の色付き切らぬ青色の生は、ここで熟し、実を結ぶのだと。
だが様子が違った。説明もなければ準備もなく、着けば枯れた土と空。色付くどころか腐り落ちかねない、恵みに見放された死にかけの地。そこを埋め尽くすのは、あまりにも似通った出来損ないたち。
「だけど、送られて来たのは一人だけじゃなかった。しかも肝心の力は使えば死を招く代物で、先人たちは皆、捻じれて死んだ後。残されたのは何の変哲もない俺だけ。なら出来る事なんて、極僅かしか残ってない」
俺は顔を上げた。バンダナの男の顔が揺らめく陽炎の向こうに見える。今の自分がどんな表情をしているのか自覚出来ない。それを確かめるように、男の瞳を見つめてみる。ゆらゆら歪む瞳は小さすぎて、俺が映っているのかすらも見えやしない。
「あなたは俺たちがここに来た事を罰だと言った。なるほど、確かにそうだ。何でも出来る気になって、その実、何も出来やしない。力を使えば死ぬし、使わなければ不便に苦しむ。辛いだ何だと喚いてみても、誰も助けてくれやしない」
三人組から食料と飲み水を分けて貰った。それを食べたし、飲んだりもした。けれどそれは助けてくれた訳じゃない。「早く死ね」と願われながら投げ寄越された決別の貢物。この世界に生きる者の憎悪そのもの。殺せるならばそうしてる、そう面と向かって言われたのも、つい先程の出来事だ。
他者の憎悪に晒されて、なおも死ねずに生きてゆく。それくらいしか俺に出来る事はない。だがそれは、既に体験した事のある、存外に見知ったものではなかろうか?
「けれど、そんな地獄さえ言い換えてしまえるならば、それは人生だと思うんです」
バンダナの男だけではない、見渡す限りの全員の口が開いている。脱力の結果そうなった者もいるが、中には筋肉の引きつりによって形作られた者も見て取れる。多彩でこそあるのだが、このような表情たちは一体、何と言うんだったか。すっとぼけなくてもわかってる。
「どこかの誰かがこんな事を言ったそうです。『地獄を恐れる必要などない。何故ならば、我々がいるこの世界こそが地獄なのだから』って。不透明な可能性と、現実的な無力さと。他者と憎み憎まれ生きていく日々は、紛れもなく人生そのものであると言えませんか?」
頭おかしいんじゃねぇの? こいつ。
誰かがそう言って、誰もが頷いた。生き地獄に叩き落とされたにも関わらず、「それが生だ」と嘯く者。そんな輩、"いかれ"と呼ばずに何と呼ぶ? 彼らはそれ以外の言葉を見つけられなかった。だが俺は、別の言葉を見つけたよ。
「だから、俺たちがここに送り込まれたのは、決して罰を受ける為じゃない。捻じれ死ぬ事を望まれている訳でも、まして勝利者になる為でもない。俺たちは、ただもう一度、普通に生きる為に来たんじゃないかなって。この命は、一度は死んだ俺たちに与えられた、意地悪すぎるチャンスなんじゃないですかね」
長い、長い沈黙の後、それを打ち払ったのはこんな一言。
あほくさ、寝よ。
それがその日に聞いた最後の他人の声だった。
「お前たちを送り込んだ奴……そいつは一体、何者なんだろうな。ただ生きるチャンスを与えるにしたって、別に力を与える必要はない筈だろ?」
日も昇り切らぬ薄暗い肌寒さの中、俺とバンダナの男はふたり並び立ち、真っ黒な山の輪郭を眺めていた。
彼らは朝早くから行動するらしく、こそこそと身支度を済ませてさっさと移動しようとしていたらしいが、どういう訳だか目が覚めた俺と、またも与太話をする羽目になってしまったのだ。
などと表してみたものの、その実、用があると言ってきたのはバンダナの男の方だった。彼は取り巻きたちに先を見てくるよう命じ、こうして俺と肩を並べている。身長差のせいで俺の肩は男の二の腕あたりにきている訳だから、文字通り"肩を並べている"とは言い辛い状態なのだが。
「そこですよねぇ。まぁ、そもそも力にしたって意味にしたって、全部が俺の思いつきですからね? 奴の目論見と必ずや一致する訳ではありませんし。知らせぬままに送り込んだんですから、本当に上げてから叩き落とす為の餌だったと考える方が自然かもしれません」
朝方と言えば鳥のさえずりが思い浮かぶが、夜と変わらぬ静けさだ。日が完全に昇ったところで、きっとそれは変わらないのだろう。空を見上げれども、目に付くのは濁った雲ばかり。切れ間に見える青は、上塗りされた灰色に擦れ、汚れている。実に清々しくない、一日の始まりに相応しくない空模様だ。
「それに、仮に"運命"なるものが本当にあるとして、ならば俺たち異世界人はどうなんだ、という話にもなるじゃないですか」
「どういう事だ?」
「元々この世界に存在しない訳ですから、つまり俺たち自体が不安定化を促す異物かもしれないって事です」
世界を構成する法則性、その埒外に位置するものとは、元よりこの世界に存在していなかったもの。それは、力によって生み出された諸々はもちろんとして、こちらの世界に送られてきた異世界人だって当てはまる筈だ。もしそうだとしたのならば、力云々以前の問題になる。唾を吐きかけられながらも慎ましく生きる事すら儘ならない。しかし、別の可能性もあるにはある。
「もし異世界人の流入自体が歪曲を誘発しているとするならば、奴がしている行為は無自覚あるいは悪意によって行われた、この世界への攻撃に他なりません。そしていよいよ俺たちは、この世界にいてはならない存在となってしまう。逆に"運命"の内だとしたのならば、それはつまり、異世界人が現れるように予めデザインされていた事になって、俺たちがしでかした惨事でさえ、すべて予定通りになってしまう。あるいは必然ではなく、しかし不安定化も引き起こさないとしたのならば……」
「…………ならば?」
「多分それはないですね」
男は「そこまで言ったんなら最後まで教えろよ」といった顔で見てきたが、俺は受け流す事にした。
それが出来るという事は、この世界の"運命"を把握しているという事になる。人間ひとりを異世界から持ってくる所業を、周囲へ悪影響を及ぼす事なく実行出来る存在。そんな者ならば恐らく、歪曲を鎮める事だって可能な筈だ。
俺が思うに、歪曲を鎮めるには、"この世すべての法則を網羅し、かつ絶えず変異を続ける空間を把握し続け、元の姿や構造、"運命"も完璧に理解した者によって捻じ曲げ直されなくてはならない"。
例えどのような天才に"強引な創造"を授けたとしても不可能な芸当だ。人はすべてを知りえない。未だ明かされぬ神秘は確かに存在し、そもそもこの世界には魔法だってある。道理を知らない理屈、それもきっと未解明な法則を多分に含んでいるとあっては、どれだけ聡明な人物だとしても、全身の間接が悲鳴を上げる程に背伸びしたって到達出来る領域じゃない。
しかし現に歪曲は治まらず、異世界人は現れ続けている。ならば、天から見下ろしているだろうソイツは、この世界を救う気などないという事だ。
あるいは、まだ大丈夫だから見過ごしているのか。いずれにせよ、俺の理解の外にある。
「まぁ何にせよ、この力は大いに役立っていますよ。これのお陰で、邪険に扱われども殺されたりはしない。あなたみたいな"がらの悪い"相手ともこうして無警戒に接する事も出来ますし」
「はっ。言うじゃねぇかよ、厄介者の異世界人様が」
ふたり揃ってほくそ笑んだ。彼と取り巻きのように笑い合う事は出来ない。けれど、罵詈雑言を叩きつけられるだけよりかはずっとましだ。そうならなかったのは偏に、この人が優しかったからか。
笑みが引いた頃合を見計らってか、男が別の話題を持ち出す。この辺りが彼の聞きたかった事だろう。
「これからどうすんだ」
「未定ですね。誰からも『さっさと死んで欲しい』と願われてるでしょうけど、まだその気にはなれませんし。けど、まぁ。変わらずやらねばならぬ事はありますから、当分はそれです」
「そうか」
濁した言い方をしたが、聞き返しては来なかった。きっとわかっているのだろう。地獄にいる俺がやらねばならぬ事など。
恐らく、彼らとはここまでだ。また会えるかもしれないが、きっと向こうが嫌がるだろう。憩いの一時に乱入してしまった事を詫びようかとも思ったが、別れ際には相応しくないと思ったので、別の言葉を贈る事にした。
「いろいろとありがとうございました。えっと……」
「ジェダだ。お前の名前は何だったっけ?」
「高崎 洋海、ですよ」
「そうそう、タカサキ ヨーミ。覚えたぜ」
そう言えば、相手の名前も知らなかった。取り巻きの彼らも何と言うのだろう。少しだけ気になったが、追いかけて問い質そうとは流石に思えない。もし再び会おうものなら、その時は。自分で勝手にそう決めた後、彼らが向かった方向とは逆へと身体を向ける。それを見た男――ジェダさんも向きを変えた事で、ついに互いの視界から相手の姿が消えた。
「それではジェダさん、お元気で」
「……あぁ。お前もな」
それでも声は届いた。互いに逆方向へと歩き出す。暫くの間、自分のものではない足音が聞こえていたが、やがて早朝の静寂へと溶け入って、耳奥に僅かな名残だけが残った。
俺の向かう先には、特に何もない。建物もなく、だだっ広い荒地が広がっている。遠くに山が見えるけれど、未だ隠れた太陽は、輪郭を掘り起こすに留まり、その表面を照らしてはくれない。
力の正体も、ここに来た意味も、きっと誰も教えてはくれないだろう。だから、自分で見つけて、勝手に納得するしかない。それに、理由がなければ生きてはいけない訳じゃないのだし。ただ、それが誰かの迷惑になると言うのならば、考え物ではあるのだけれど。
俺たちに与えられた力には、もっと別の何かがあるのかもしれない。思いも寄らぬ利点が隠れていたり、あるいは想像を超える欠点が備わっているのかも。だがそれはきっと、ただ"生きる"だけならば不要なものなのだろう。そんなものに頼らずとも生きている者たちがいるのだ、ならばきっと、それがなくとも生きていける筈だ。
「さてと。じゃあ……改めて、生きてみるか」
地獄こそが生とのたまってみた手前、まだまだ死ぬ訳にはいかない。悶え苦しみながらも、生きねばならない。それこそが、俺の見つけた、納得出来た、ここに来た意味なのだから。
いや、ただ死にたくないが為に、無理矢理こじつけただけの理由か? あるいはその逆、"運命"の如き不可避の死ではなく、自らが納得の行く死に様を晒して見せろと用意された舞台かもしれない。はたまた、この世界そのものが、そんな結論に至らせる為に用意された装置なのだとしたら。
実に不透明だ。だがそれこそが、"らしい"じゃないか。
悶々と渦巻く思考の混沌を前に、自然とにやけ面になりながら歩いていると、右隣に残る僅かな林から、ずるりと人影が這い出てきた。肩で息をしながら、えずきながら、よたよたとこちらへと歩み寄って来る。
俺は笑い顔のまま、照らされぬ黒い影へと、こう声をかけた。
「やぁ。君も……異世界人?」