戦いの外側
早朝。
朝のテレビ番組では丁度、占いコーナーの時間が始まっていた。
その占いコーナーに聞き耳をたてながら、結奈はテーブルを挟んで向かいに座る少女に視線を向けていた。
黄金色に焼けたパンにスクランブルエッグ。そしてハムにサラダ、牛乳と朝食としてはやや多めの品数を目の当たりにした凛音は、相変わらず警戒心を剥き出しにした棘のある表情を浮かべながらも、口の端から涎を垂らすという器用な表情を浮かべていた。
結奈は学生会と陸上部を掛け持ちしている。
そのおかげなのか、いつも朝食は多めなのだ。
二人同時に「いただきます」と手を合わせてから凛音は用意された食事に飛びつく。
まるで、野良猫や野良犬のように周囲を警戒しながら、誰にもとられないように慌ただしく食べ、凛音の周囲には食べかすなどが大量に跳んでいた。
結奈は飛び散ったパン屑にジト目を向けながら、苦言を呈する。
「凛音、もう少しゆっくり食べなよ」
「……うん」
コクリとパンを口に咥えながら曖昧に頷く凛音。
だが、一向に食事が改善される事もなく、彼女はものの数分で、大量にあった朝食を平らげてみせたのだ。
「ご馳走さん」
凛音は汚れた食器を流しに運ぶと、そのまま私室として使っている客間に向かおうとする。
その背中を結奈が呼び止めた。
「ねぇ、凛音」
ビクリと凛音の肩が震える。
ビクビクと肩を振るわせ、小動物のように振り返った凛音の表情はひどく怯えたものだった。
結奈は凛音の表情に気付きながらも、指摘することなく、続きを話した。
「今日こそ、一緒に出かけない?」
「うっ……あ……そ、その……」
結奈の誘いに凛音は歯切れが悪そうに曖昧に言葉を濁す。
そして――
「わりぃ、気分じゃねぇんだ」
凛音はいつもと同じ台詞を口にして、結奈の誘いを断った。
凛音が目を覚ましてからすでに三日。
それは一騎とイノリが特訓を始めてからちょうど一週間ほどだろうか。
その間に結奈は幾度となく凛音を外に連れ出そうとした。
何かに怯えて、部屋の隅で小さく蹲っている凛音の姿を見ていられなかったからだ。
昨日までは結奈にも学校があり、強引に誘う事が出来なかったが、今日は休日。
多少、強引でも凛音を外に引っ張り出す事が出来るだろう。
「けど、いつまでのその恰好ってわけにはいかないでしょ?」
「……あたしはこれで構わないって」
凛音の服は結奈が使い古したジャージだ。
とは言っても、サイズが致命的に合っていない。
上着は凛音の豊満な胸を格納する事が叶わず、胸の半分ほどしかファスナーがしまっていない。
隙間から覗く谷間は同性の結奈にとって、ひどく屈辱的な光景だった。
イノリのように貧相な持ち主なら、まず間違いなく感情が噴火するだろう。
結奈だって胸の大きさにはそれなりに自信があった。
だが、半分しか閉められないファスナー。
そして、胸の半分以上が剥き出しの状況。
白い肌色に混ざって、僅かに見え隠れする桜色の輪郭を見て、結奈の小さな自尊心は粉々に砕け散っていた。
精神衛生上、よくない。
自分が大きさで負けている――そんな現実を目の前で突きつけられる事実に、結奈の心にクリティカルなダメージを与えていたのだ。
この胸をすでに三日以上、見続けてきている。
凛音がよくても結奈の機嫌が斜めになる一方だ。
せめて凛音が普通に着られる服を。
叶うことなら胸が目立たない服を見繕わないと。
結奈は使命感に燃え、説得を試みる。
「でも、それだと外に出られないでしょ?」
「……外に出たくない」
「どうして?」
「怖いんだよ、外が」
「そっか……」
結奈が凛音を見つけた時、彼女はボロボロだった。
芳乃総司の一撃で吹き飛ばされ、死に体で逃げてきたのだ。
死の恐怖――という感情に囚われ、満足に思考が回らないのだろう。
けれど、結奈は一度もその話に踏み込んだ事はなかった。
何故なら、その気持ちは誰にだってわかるものだから。
死にたくない――と思うのはごく自然な考えだろう。
怖いから逃げる。
それを結奈は咎めはしない。
死の恐怖に立ち向かえるのは、一部の異常者だけだ。
死ぬかもしれないのに戦う――なんて平和なこの国に住んでいればまず間違いなく考えが及ばないだろう。
逃げてもいい。戦わなくてもいい。
彼女にはその資格があるのだ。
でも――隠れるだけの生活なんて、可哀相だ。
大丈夫だと。
絶対に怖くないと。
ごく普通の女の子に戻ってもいいんだよ。と言ってあげる方が大事なのではないか?
だから、無意識の内に特派への連絡を怠ったのではないか? と結奈は考えていた。
「……大丈夫だよ、凛音」
「……え?」
「大丈夫、私がいるから」
結奈は凛音にそっと近づき、優しく抱きしめる。
華奢な体を壊さないようにことさらに優しく。
凛音が掴み離そうと、結奈の肩に手を伸ばすが、それでも結奈は抱擁を離さない。
「な、何を言って……お前に何が出来るんだよ?」
「何が出来るかなんてわからないわ。けど、凛音は一人じゃない。私が側にいるから。怖いものから凛音を守るなんて出来ないかもしれない。けど、一人ぼっちになんてさせないから。怖かったら側で寄り添うわ。逃げたくなったら、私の側に逃げればいいの。泣きたくなったら私の胸を貸してあげる」
「あたしは……あたしには無理だよ。戦いしか知らないんだ。愛情も温もりも全部、戦いの中で知ってきた。だから怖いんだよ。信じた人から裏切られる事が。大切だった人に怒りを向けられる事が。背中から撃たれる事が。だから、誰かに頼るなんて……」
「私は絶対に裏切らないわ」
「なんで、そんな事が言えるんだよ?」
「だって、私は凛音の友達だから」
凛音の肩がビクリと震える。
結奈は優しく背中を撫でながら、嗚咽を始めた凛音に囁いた。
「私は戦いなんて知らないわ。戦いの中で得たものなんてない。けど、わかるの。知ってるの。愛情も温もりも戦いの外側にあるわ」
「戦いの外?」
「ええ。だからわかるの。ううん、知って欲しいのよ。戦いの外にある、凛音の知らない世界を。だから、私は、凛音を否定しないわ」
結奈はその一言を噛みしめるように言った。
結奈には幼い頃から家族に愛されてきた。
優しい両親がいる。
大好きな一騎がいる。
結奈を好きだと言ってくれる世界がある。
戦いしか知らないなんてそんなのは悲しすぎる。
誰からも愛されないなんて――そんなの許せない。
世界が凛音を否定しても、結奈が否定された分だけ凛音を受け入れる。
結奈がもらった沢山の愛情を、友情を、凛音にも知って欲しいのだ。
だから、この言葉は絶対だ。
その言葉を耳にした凛音は、身体を弛緩させ、結奈の肩を掴んでいた手をゆっくりと背中に回し、結奈の身体を抱きしめた。
そして。
「本当に? 本当に信じていいのかよ?」
「もちろん、よ」
その瞬間、せき止めていた感情が爆発したかのように、凛音は大粒の涙をこぼし、泣き叫ぶのだった――