傷ついた少女
「ここ、は……?」
全身に奔る痛みに意識を取り戻した凛音は開口一番にそう漏らした。
見覚えのない天井に困惑を覚えながら、意識を失う前の記憶を呼び覚ます。
「あぁ、そっか」
あたし、負けたんだな……
思わず愚痴を零す。
最後の記憶にある光景は、黄金のギアを纏った養父――芳乃総司に殴られる記憶だ。
まったく情けない。
情けなさ過ぎて、頬に涙が伝う。
敵だとわかっていたはずなのに。
利用されていただけだと知っていたはずなのに。
芳乃総司をこの目で見た瞬間。
身体が言うことを聞かなくなったのだ。
まるで、親に怒られて怯える子供のように。
家族と再会出来て、喜ぶ子供のように。
歓喜とも不安とも呼べぬ感情に支配され、全ての判断を誤った。
「くそ……」
涙で震えた声音で凛音は悪態をつく。
「どうすりゃよかったんだよ……」
一騎と一緒にあの時、戦えばよかったのか?
違う。
今の凛音にも、あの時の凛音にも――芳乃総司と戦う。という選択肢はなかった。
ただ、怒られたくない。
叱られたくない。
そう言った一時の子供の我が儘で、芳乃総司の前から力ずくで逃げ出す事は出来ても、戦う事なんて考えられない。
なら、今までと同じように逃げるか?
それも、もう無理だ。
あの時の総司の殺意に魅入られて、逃げる力すら折られてしまった。
戦う事も、逃げる事も出来ない。
もう、どうすればいいのかわからないのだ。
泣きわめく凛音の部屋にそっと誰かが足を忍ばせた。
凛音を気遣うようにゆっくりと襖を開け、忍び足で部屋に入ってきた少女は、すすり泣く凛音の姿を見て、水の入っていた桶を足元に落としてしまった。
バシャッと水の撥ねる音と、コロコロと転がる桶の音にようやく凛音はその少女の存在に気付き、布団で涙を強引に拭う。
「お前、誰だ?」
そして、凛音は僅かに強張る口調で尋ねた。
目の前で驚愕に目を見開く少女。
歳は凛音と同じくらいか年下だろうか。
活発そうな顔立ち。
髪の色や瞳の色はこの国特有の黒色。
ミルクのように白い肌も細身の肢体も健康そのもの。
同じ女性から見ても美少女と言えるだろう。
だが、凛音とその少女に接点は何一つとしてなかった。
警戒心を募らせる凛音に少女――友瀬結奈は困ったような表情を浮かべてみせた。
「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」
そう言って、結奈は転がった桶を拾うと、床に出来た水溜まりを綺麗に掃除していく。
床を掃除しながら結奈は続けた。
「起きているとは思わなくて。あれから三日も寝ていたのよ?」
「三日?」
「えぇ。私が貴女を見つけてから三日くらいね。身体は大丈夫?」
「ん? あ、あぁ……」
戦闘によるダメージこそ残っているが、動けないわけではない。
凛音は曖昧に言葉を濁しながら頷く。
「よかった。お腹は空いてない? 簡単だけどご飯もあるわよ。といっても、昨日の残りだけど。
あ! 自己紹介がまだよね? 私は友瀬結奈よ」
「お、おう……凛音だ」
初めて接するタイプの女性に凛音はタジタジになりながらも何とか答える。
今まで凛音が出会った女性と言えば、目を覚ましてからで言えば、特派のイノリくらいのものだ。
それまではほとんどを自己鍛錬。
あるいは《魔人》との戦闘で潰してきた。
同世代との付き合い方というのがまるでわからない。
何か喋る度に緊張する。
ここまで自分は臆病者だったのか……と苦笑する程だ。
今も結奈が申し訳なさそうな表情を見せるだけでビクンと総毛が粟立つ。
「お、おい……どうしたんだよ? 何かあたしが悪い事でもしたのか?」
「え? ううん、そうじゃなくて。凛音に謝らなきゃいけない事があって」
「謝る? あたしに?」
「うん。あのね、凛音を見つけた時ね、服がボロボロで……」
「え……? あッ!?」
結奈の視線を追うように凛音は布団の中を覗き込む。
そして、絶句した。
裸だ。
服もなければ下着すらない。
生まれたままの姿でいた事に凛音の肌が真っ赤に終え上がる。
そして、恥ずかしそうに布団にくるまると。
小動物のように威嚇して結奈を睨んだ。
「あ、あたしの服は?」
「ごめん、流石にボロボロだったから捨てちゃった」
なんと言うことだ。
家出状態の凛音にはあの服一着しかなかった。
これからどう過ごせと?
いや、問題は他にある。
素っ裸――身に付けていた装飾品も一切ない。
それは、凛音の最後の拠り所でもあるイクスドライバーも《火神の炎》も手元にないと言うことだ。
凛音は青ざめた表情を浮かべ、亀のように布団に潜り込みながら、おっかなびっくりといった様子で結奈に問いただす。
「……服の事はいいからさ、それより、あたしが持っていた……その何だ? 銀色のベルトとペンダント知らないか?」
「……えっと」
凛音の質問に対し、結奈はバツが悪そうに表情を曇らせた。
一瞬、凛音の中で、最悪の想像が脳裏を過ぎるが、しばらくして、結奈がある一角を指指す。
そこに目を向けた凛音は安堵の吐息をもらす。
小さな机の上に置かれた見慣れたギアとペンダント。
「ごめん、どうしていいかわからなくて」
「いいよ。捨ててないならそれでいい」
とりあえず手の届く範囲に力があった事に張り詰めた緊張感が薄れていく。
そして、それと同時に。
ぐぅ~と盛大に腹の虫が主張の声を張り上げたのだ。
「あっ、こ、これは別に、その……」
顔を真っ赤にして恥ずかしそうに俯く凛音に何を思ったのか、結奈はプッと吹き出した。
「三日も寝てたらお腹も空くわよね、ちょっと待ってて。鍋温めてくるから」
「お、おう」
桶を片手に部屋を後にする結奈。
襖に手を伸ばした時に、思い出したかのように凛音に振り返った。
「あ、そうだ。カレーなんだけど、辛いのは大丈夫?」
それが、意識を覚ましたばかりの少女に食べさせる食事なのか? とツッコミを入れたくなかったが、とにかく空腹が限界だったので、凛音は「大丈夫だ」と即答していた。
◆
襖を閉め、階段をゆっくりと降りながら結奈は深いため息を吐く。
張り詰めていた緊張感が疲労となって押し寄せ、ズキズキと頭痛がする。
それほどまでに、芳乃凛音との接触は結奈に緊張を強いていたのだ。
「やっぱり、ギアは隠していた方がよかったのかしら……」
最後まで迷っていたのが、凛音の持つイクスドライバーの扱いだった。
服と一緒に処分したと偽って、『周防』にいるリッカに預けるという選択肢だってあった。
けれど、結奈は最後までその選択を選ぶ事はなかったのだ。
理由は一つ。
「けど、悪い子だとは思えないのよね」
初めて凛音を見たのはアステリアの画面越し。
一騎と肩を並べて戦う姿だった。
赤い鎧を身に纏い、二丁の銃を巧みに操って戦う姿は思わず見惚れるほど。
クロムやリッカ、そしてイノリからは凛音は敵だと言い聞かされていたが……
一騎は仲間だと言っていた。
理由はそれだけで十分。
一騎が敵じゃないと言うなら、仲間だと言うなら、悪い人なわけがない。
それが凛音を信用した最大の理由。
そして、その判断は……
あの凛音の様子を見る限り――
間違ってはなさそうだった。
「よし! まずはカレーね。美味しいって言ってくれるといいんだけど……」
結奈は先ほどよりも軽い足取りで、鼻歌を歌いながらキッチンへと向かうのだった。