暴走の恐怖
一騎とイノリが誓いの口づけを交した翌日。
一騎の姿はアステリアの中にあった。
アステリアの中でもとりわけ頑強に作られた施設。
その施設――トレーニングルームで一騎はすでに《シルバリオン》を纏った状態で待機していたのだ。
目の前には大柄な巨体で一騎を見下ろす赤毛の男性――クロム=ダスターが容赦なく一騎を睨んでいる。
僅かな動きすら見逃さまいとする照魔鏡の如き視線に当てられ、一騎は生唾を嚥下した。
クロムの視線はギアに覆われた一騎の筋繊維をその一本一本まで見透かし、肉という器に覆われた一騎の深層意識まで暴いているようだ。
(まるで隙がねぇ……)
まだ訓練は始まってすらいない。
だというのに、本気のクロムを前にして、一騎の緊張の糸は否応なしに張り詰めていく。
「さて、準備はいいか?」
「俺の方は問題ないぜ」
「うむ……オズ、トレーニングルームの状態は?」
「各設備オールグリーン。いつでも大丈夫です。もしもの場合に備えての準備も万端ですよ」
「うむ」
クロムは満足げに頷くと、ボキボキと拳を鳴らしながら一騎と相対する。
「いいか、一騎君。俺が君に教えられる事は少ない。彼女の力を制御する方法は俺にもわからないからな」
「……」
「だが、極限の状態に陥れば、生存本能が君を覚醒へと導くはずだ。だから俺は、これから本気で君を殺す。《魔人》の力を借りてな」
「……俺はクロムを封印すればいいんだろ?」
「あぁ。俺に殺されるよりも先に俺を倒せ。そうすれば自ずと力の使い方も自覚するだろう」
「無茶が過ぎるぜ」
一騎は悪態を吐きながら距離を離す。
すでに十分過ぎる程の距離を離していたがこれでもまだ足りない。
クロムから溢れ出す黒い魔力を前に生存本能が警鐘を鳴らしているのだ。
勝てない。ここから逃げろ! と。
だが、一騎は震える身体を叱咤して、拳を構えた。
「未知数の力で、明日を切り開く!」
覚悟を決める一騎。
クロムはニヤリと笑った後、腕のギアを外すと投げ飛した。
「いくぞ、一騎君。もう俺は止らない!」
その直後。
箍が外れたように漆黒の魔力がクロムの身体を覆い隠し――
『オオオオオオオオオッ!!』
《魔人》の雄叫びと共に一角の角を携えた二メートルを超える巨大な悪鬼が姿を現すのだった。
◆
一騎がクロムとの死闘を始めた同時刻。
住宅街の一角にひっそりと佇む一軒家。
周防イノリの実家にして特派が所有する秘密基地『周防』では、一人の少女がトレーニングルームの直中で意識を張り巡らせていた。
銀色に輝く髪を一房に括り、動きやすさを考慮したトレーニングウェアに身を包んだイノリ。
健康的な肢体の大部分が露出する恰好ではあるが、イノリは特に羞恥心を抱いた様子はない。
碧眼の瞳はいつにも増して剣呑に細められ、何度も深呼吸を繰り返し、震える手で握りしめた光の結晶を凝視する。
イクシード《銀狼》
一騎によって封印されたイノリのイクシードだ。
他の封印したイクシードよりもより小さな結晶である《銀狼》はそのままギアに装填しても、能力を鎧として形成する事が出来ない。
ギアとして身に纏う為にはイクシードの能力を増大させる必要があるのだ。
己のイクシードを活性化させて。
「……よし!」
改めて覚悟を決めたイノリはイクスギアに《銀狼》を装填。
ギアに搭載されたイクシードが白銀の輝きを放つ中、イノリは起動認証コードを叫んだ。
「《換装》!――《銀――ッ!? アァァアアアアアアッ!?」
ギアから放たれた白銀の光がイノリの身体を覆うまさにその瞬間。
白銀の光が漆黒の輝きに変り、容赦なくイノリの身体に突き刺さったのだ。
漆黒の光はイノリの身体を傷つける事はなく、するりと身体の内側に入り込む。
その光はイノリの奥底で眠る本来の力を黒く染める。
イクシードの暴走だ。
身体を蹂躙する激痛にイノリはたまらず悲鳴を上げる。
一度は経験した痛み。
克服したつもりでいたが甘かった。
内側から肉体という器を破るように漆黒の魔力が溢れ出し、イノリの肢体を舐め回す。
その痛みはもはや意識を繋ぎ止める事すら困難。
明滅する意識の中、イノリは無意識にギアに装填されたイクシードを強制パージさせた。
小さな欠片がギアから弾け飛び、地面に転がる。
それと同時にイノリは崩れ堕ちた。
荒い呼吸を繰り返し、意識を繋ぎ止める為に拳を強く握りしめる。
すでに顔色は白を通り越して青白く、いくら身体に力を込めようとしても起き上がる事すらままならない。
「やっぱり失敗ね~」
トレーニングルームの壁際で様子を眺めていたリッカが心配そうな表情を浮かべながら手元の端末に視線を転がした。
そこには、すでに何十回と繰り返した《銀狼》の起動試験のデータが表示されていた。
様々な条件を付け加えて、試行錯誤を繰り返しているが、未だに成功の兆しは見えない。
だが、少しずつではあるが着実に進歩しているのも確かだ。
「それでも、ギアを形成出来るエネルギーまではこぎ着けたわね」
今回の起動実験で、初めてイノリはギアから放出される光を身に纏う事が出来た。
だが、このアプローチは失敗だろう。
イクシードの暴走を抑えるイクスギアの全機能をオフにしての結果だ。
例えギアを纏えたとしても、すぐに暴走状態に陥るだろう。
「何か別の方法を考える必要がある、か……」
イノリは途切れ途切れの意識の中、リッカの張り詰めた声を子守歌に、意識を深い闇の底へと堕としていくのだった――
◆
一騎とイノリ――二人が最終決戦に向けて、命懸けの特訓を行っている最中。
二人の友人である友瀬結奈は、力なく歩き慣れた通学路を一人で歩いていた。
手にした傘にはポツリポツリと容赦なく雨粒がぶつかり、傘から流れた水滴が滝のように視界を遮る。
憂鬱とした感情に相まって、降りしきる雨粒に若干の苛立ちを覚えながら、結奈は雲に隠れたアステリアを探すように空を見上げた。
「二人とも大丈夫よね……」
口を突いて出た台詞は結奈の心境を物語っていた。
二人の特訓は当然、全力全霊。
学校に行くなどと生温い選択などありはしなかった。
二人は病欠扱いという事で暫くの間、学校を休む事になっているのだ。
そして、命懸けの特訓に結奈との面会――という余裕すら介在しなかった。
残る敵は芳乃総司ただ一人。
ならば、最後のその一時まで訓練に使いたい。というクロム達特派の意見も理解は出来る。
出来るのだが……
理性と感情は別物だ。
不安にもなるし、すぐにでも二人に会いたくなる。
特訓がどれほど過酷なものなのか、結奈には想像する事しか出来ないが、目を閉じる度に何度も思い出すのだ。
先日の戦闘の光景を。
イノリに手を引かれ、初めて訪れたアステリアで目にした想像を絶する光景。
《魔人》と拳を交える一騎や凛音の姿に言葉を失い、涙を流したのは記憶に新しい。
少しでも結果が違えば、一騎は死んでいたかも知れない。
そう思うと不安でたまらないのだ。
今の特訓だってそう。
イノリも一騎も命懸けの特訓をしている。
本当に再会出来るかも疑わしい。
もしかしたら、もう二度と会えないのではないか?
そう思うと、自然と結奈を頬を涙が伝う。
「……ダメね。私がしっかりしないと」
だって、一騎達の帰ってくる日常はここにあるんだから。
また、学校で笑い合いたい。
つまらない冗談を言い合いたい。
時には喧嘩もして、そして必ず仲直りして――
そんな日常を取り戻す為に、その象徴である結奈が俯いてるわけにはいかない。
「よし!」と改めて気合いを入れ直し、帰路につこうとした矢先。
「~っ、あ、あぁ……」
結奈の耳に聞き慣れない喘ぎ声が聞こえた。
女の子の声だ。
最初こそ初めて聞く喘ぎ声に顔を真っ赤にさせて、耳に栓をしようとした結奈だったが、だが、どうにも様子がおかしい。
快楽に喘ぐ声というより、痛みに苦悶の声を荒げるような声だったのだ。
流石に無視する事も出来ず、いざとなったら特派に助けを求めようと携帯を握りしめながら、結奈は声のする方へとゆっくりと近づく。
そして――
「……え?」
彼女を見つけた時、結奈は思わず言葉を失った。
雨に濡れて額や頬に貼りつく髪の色は夜を連想させる黒。
腰までありそうな艶やかな髪を一房に束ねている。
整った顔立ちに結奈やイノリより実った乳房は思わず目が奪われる程。
だが、結奈が言葉を失ったのはそれだけが理由ではないのだ。
その顔立ちに見覚えがあった。
荒い呼吸を繰り返し、壁にもたれかかるようにして意識を失っている少女。
服の所々は無残にも破け、もはや身体に服が引っかかっているような裸同然の姿。
そして何よりも彼女の腹部で輝く白銀のベルトに、結奈は既視感を覚え、思わず彼女の名前を声に出す。
「り、凛音……?」
その囁きはさらに激しさを増した雨粒によって掻き消されるのだった――