恋人らしいこと
イノリと結奈の宣戦布告と友情が交してから、一週間と少し。
「一騎君、はやく、はやく!」
初めて目にする大型のショッピングモールを目の前に、イノリは目を輝かせて、手招きをしていた。
彼女のお尻に白銀の尻尾があれば、勢いよく振っていたに違いない。
イノリの手招きに、一組の男女が同時にため息を吐く。
「これ、なんと言うか……これデートって言うより」
「えぇ。子連れの家族って感じね」
一騎と結奈は互いに苦笑いを浮かべ、はやく、はやくとせがむイノリの背中を追うのであった。
◆
それは、数日前に遡る。
すっかり、『周防』に馴染んだ結奈は唐突に尋ねてきたのだ。
「ねぇ、二人ってデートしないの?」
「え?」
「は?」
そんな結奈の問いかけに、間抜けな返事をするイノリと一騎。
二人は目を見合わせ、キョトンと首を傾げた。
「ううん、してないよ」
「あぁ」
ここ数日は来たるべき最後の戦いに備え、結奈がいない時は、地下基地で特訓を行っていたのだ。
一騎の戦闘経験は未熟。
イノリが抜けた穴を十全に補えていない。
一騎の成長は急務だったのだ。
先代のギア適合者――オズとイノリによる猛特訓のお陰で、何とか戦えるレベルにまで技術を磨く事は出来たが、まだ課題は山積み。
この後も、地下基地でみっちりと戦闘訓練を行う予定だったりする。
だからこそ、「デート」と言われても、正直、ピンと来ないのだ。
そんな一騎達の事情など知る由もなく、結奈はあんぐりと口を大きく開け、放心していた。
「はぁ~……じゃあ、あんた達、ここ数日何してたのよ!?」
「何って、言えるわけないだろ」
一騎は即答する。
特派の事も、地下基地に事も結奈に話せる内容じゃない。
一騎は至極まっとうな答えを返した――はずだったのだが……
なぜか、一騎の答えを聞いた結奈は頬を真っ赤に染め、わなわなと震えていたのだ。
「い、言えない事って……まさか……」
「ん? ゆ、結奈?」
尋常じゃない動揺ぶりに一騎はオロオロ。
そんな一騎の背中をツンツンと突き、イノリがこっそり耳打ち。
「一騎君、今の言い方は流石にないよ」
「え? どうして?」
「だって、あれじゃあ、私たちが人に言えない何かをしてるみたいじゃない」
「だって、そうでしょ?」
「はぁ~……よく考えてよ。付き合い始めた男女。人に言えない秘密。それってエッチしかないでしょ?」
突然の爆弾発言に、一騎も赤面。
(っていうか、イノリさん、どうして君はエッチとか平然と言えるの!?)
真顔でエッチと口にするイノリ。そこには羞恥心の欠片もない。
「い、イノリ……君はそんな……え、エッチと言って恥ずかしくないの?」
エッチと口にするだけで噛みまくる一騎。
童貞の一騎にとって、その単語は口にするだけも勇気がいる。
だが、イノリは「なんで?」と一騎の疑問を疑問とも思ってない様子。
「ううん、別に。だって、当たり前のことだよね? 恋人がエッチするのって。愛し合う二人なんだから、繋がりたいと思うのは当たり前だよ。だって、それって凄く幸せな事なんだから」
「いや、でも恥ずかしいよね?」
「見られるのはね。私だって露出狂じゃないんだよ。誰かに見られて興奮なんて出来ないよ。秘密にしたいのは行為そのもの。言葉を秘密にしたいわけじゃないよ。後、これ、前から思ってたんだけど、一騎君はなんでエッチしてくれないの?」
「えぇ!?」
まさかの申し出に一騎は真っ赤になって、狼狽える。
「ど、どうしたの、一騎!?」
一騎が大声で叫ぶものだがら、結奈も目を瞬かせて、詰め寄ってきた。
今の話を結奈に聞かれたくない!
一騎の中の羞恥心が警鐘を鳴らす。
イノリの肩を掴んで、回れ右!
行動は迅速に!
ここ数日の訓練で身に付けた判断能力が思わぬ形で実を結ぶ。
「ちょ、ちょっと、恋人会議!」
一騎はそう言いくるめると、結奈をリビングに残して、自室へイノリを連れ込む。
すると、今度はイノリが。
「言ってすぐに、行動。流石だね」
頬を赤面させ、もじもじと内股を擦る。
「違うからね!? 今すぐエッチするわけじゃないからね!?」
「え? そうなの?」
見るからにシュン……とするイノリに心が締め付けられそうになるが、ここは我慢。
まず、確認するべき点がいくつかある。
一騎は呼吸を整えると、
「と、とりあえず、結奈が誤解しているのはわかったよ。僕の言い方が悪かった。誤解されてもおかしくないね……」
「うん。説明出来ないのはわかるけど、もう少し言葉を選んだ方がいいよ。一騎君、わりと天然だから、偶にとんでもない事言ってることがあるよ」
「ほ、本当に!?」
「うん。だって、初めて会った時もいきなり可愛いって……あの時だって、恥ずかしかったんだからね」
(うわーそうなのか……)
まったく自覚していなかった事実に、一騎は目眩を覚える。
だが、問題はそれだけじゃない。
「わかった。後で結奈にはきちんとフォローを入れておくよ。けど、イノリ、どうして……その、エッチがしたいの?」
これは勇気がいる問いかけだ。
イノリとはまだキスしかしていない。
しかも、最初に出会った時を除けば、あの戦いの最中の一回だけ。
一騎としてはこの戦いが一段落して、落ち着いてから、ゆっくりとイノリとの絆を深めていきたいと思っていたのだ。
まずはデート。
そして、手を繋いで。
き、キス……そして――
と、いう流れがあったのだが……
「え? 当たり前だよね? というか、一騎君がエッチしてくれないから、私、毎日不安なんだけど。言葉では好きって言ってもらえても、それだけじゃ足りないよ」
「え、えっと、なら、デートは? ほら、結奈も言ってただろ? 僕たち、まだ一回もデートしてないよね?」
「デートって好きな人とお出かけする事だよね?」
「うん。そうだね」
「なら、エッチの後がいいな」
「その判断基準がおかしいよッ!」
え? なんで? なんでイノリさんはエッチに拘るの!?
「……おかしくないよ」
プクーと頬を膨らませて、イノリは上目遣いで一騎に抗議する。
そう。イノリにとって、この優先順位は、当然のこと。
だって、彼女はこの世界の人間ではないのだから。
「一騎君も知っているよね? 私がライカンって呼ばれる種族だって事」
「うん。狼人間――だよね?」
一騎もその姿を目にしたことがある。
銀色の耳に尻尾を生やしたイノリの本当の姿を。
銀狼の姿――それがライカンと呼ばれるイノリの本来の種族なのだ。
「うん。私たちは何よりも絆を大切にするの。友情も親愛も愛情も全ての絆を。そして、その絆を深めようとする種族なんだよ? だから、より絆を感じられる行為は、私たちの中では優先される事なの。エッチとか子作りは愛情の一番の表現だよ? それを蔑ろには出来ないよ」
「……おぅ……」
思わず、イノリの熱弁に萎縮してしまった。
確かに、イノリの種族の特性から考えると、一番に絆を感じられる行為を優先するのは至極当然だ。
段階を経て、ゆくゆくは――という発想はこの世界の価値観に過ぎない。
まさか、異世界と交わる事で、こんな障害にぶち当たるとは思ってもいなかった。
でも、それでも、一騎にだって譲れない一線はある。
「わ、わかったよ。イノリの言いたい事はちゃんと」
「本当!? なら、今すぐにでも!」
そう言って服に手をかけるイノリの手を一騎は優しく止めた。
「一騎君……?」
怪訝な表情を浮かべ、見上げる瞳には不安の色が滲みだしている。
一騎はイノリの体を抱きしめ、優しく諭す。
「ゴメン、今は、まだ出来ない」
「ど、どうして」
「君が大切だから。君を傷つけたくないから。今の僕じゃ、きっと君を傷つける」
「一騎君……?」
そう言った一騎の体は僅かに震えていた。
幻滅されるかも知れない。
勝手だと思われるかもしれない。
けれど、
「――最後の戦いはすぐ目の前なんだ。僕は、絶対にみんなが笑っていられる最高のハッピーエンドを手に入れてみせる。だから、その時まで待ってくれないか?」
おくびにも出していないが、最終決戦を前に、今の一騎には余裕がない。
日々の訓練で力の無さを実感しているからだろうか……
途切れる事のない緊張感が続き、恋人らしい事が何一つ出来ていなかった。
今、イノリと行為に及んでも、きっとイノリを幸せには出来ない。
頭の片隅で、戦いの不安が過ぎり、きっとイノリを傷つけてしまう。
絆を深め合う、大切な行為だからこそ、最高のハッピーエンドの中で迎えたいのだ。
臆病だと思われるかも知れない。
けれど、イノリが大切だからこそ、今、感情に流されて結ばれたくないのだ。
「ハッピーエンドの中で?」
「うん。だから、その時まで待って欲しい。勝手かも知れないけど」
「いいよ、別に」
叱責される覚悟もしていたが、案外、あっさりとイノリが引いた事に、一騎は目をパチクリさせた。
そして、イノリは一騎の顔を覗き込むと、恥ずかしそうにはにかんだ。
「十年、君の事を思い続けてきたんだよ? だから、もう少しだけ我慢出来る。エッチだけが絆を確かめる方法じゃないから。
だから、今は――とびっきりの勇気をあげるね?」
そう言って、イノリは一騎の頬を両手で優しく挟むと、ゆっくりと唇を合わせた。
キス――ただ唇と唇を合わせるだけの行為。
だが、違う。
イノリにとって、一騎にとって、二人の交すキスは、勇気の証。
不思議な力を。不安を消し飛ばすおまじないだ。
ただのキスでも、二人の中に形容しがたい熱い感情が渦巻く。
それは、瞬く間に全身に浸透し、二人の心は温かい感情で満たされた。
「ね? 別にエッチだけじゃないでしょ?」
「うん」
唇を放したイノリを今度は一騎が奪う。
柔らかい唇をついばみ、甘噛み。
互いの舌を絡ませあい、
「ん……」
イノリの口から吐息が漏れる。
呼吸すら忘れて、イノリと熱い口づけを一騎は交した。
そして、忘れていた呼吸を思い出す頃には二人は肩で息をしていた。
だが、疲れはない。
満足感に心が満たされ、二人は寄り添う。
「大好きだよ」
「うん。僕も」
「……減点。言葉にして欲しい事だってあるんだから」
「好きだよ」
「ん……満点」
何とも甘い空気を醸しだし、二人っきりの世界をそのまましばらく満喫していたのだった。
ちなみに――
痺れを切らし、怒り心頭の結奈が一騎の部屋に突入してきたのはその数分後だったりする。