歪な壁
「どうしたのよ、一騎?」
イノリとの決闘から一週間。
生徒会の仕事に忙殺されていた一騎は深いため息を漏らしていた。
時刻はすでに夕暮れ。
辺りに生徒達の喧騒はなく、ただペンを走らせる音、そして紙をめくる音だけがしていた空間で、結奈が気遣うように一騎の顔色を伺った。
「え? 何が?」
「何が? じゃないでしょ? それ――」
結奈が指さした書類に目を落とす一騎。
その瞬間、「あちゃ~」と手の平で目元を覆った。
経費の書類に生徒会の判子を重複して押してしまっていたのだ。
これでは学校側からの承認が下りないだろう。
間違ってしまった書類をシュレッダーにかけながら、もう一度、書類を印刷し直す。
そんな様子に結奈は困惑した表情を浮かべていた。
「どうしたの? 一騎がそんなミスするなんて初めてじゃない?」
「……ゴメン。ちょっと寝ぼけてた」
「寝ぼけてって……一騎、本当に大丈夫なの? そもそも、ここ最近の一騎、ちょっとおかしいわよ?」
これを機にと結奈が疑問をぶちまける。
結奈の仕事はもう終わっており、手持ち無沙汰だったのだろう。
新しい書類が印刷し終わるまでの間、結奈の追求が続いた。
「なんの相談もなく、寮も引っ越すし……」
「同じ学生寮だろ?」
便宜上、特派の所有する『周防』は新しく出来た学生寮という扱いになっており、一騎は今まで住んでいた学生寮からの移動という形で『周防』に身を移していた。
「けど……」
「言っただろ? 水道が壊れたら仕方ないって」
「……まぁ、そうだけど……」
「それに、今の寮には専用のシェルターもあるし、前の寮より安全なんだよ……」
寮の移動は元いた部屋の設備の故障という理由だ。
もっともそれは建前で、本当は壊れていない。
ただ、学校側も政府からの指示があり、そう従わざる得ないわけだっただけ。
「でも、表札に『周防』って……」
「あぁ、周防さんの家でもあるしね……」
力なく一騎が答える。
それに反発しそうになった結奈は、一騎の憔悴しきった表情を見て、押し留まる。
新たな学生寮である『周防』はイノリの実家でもある。
それはもはやこの学校では周知の事実で、それを知った当初の結奈を含めたクラスメイト達はただ一人、その寮に住むことになった一騎に溢れんばかりの怒りの視線を向けていた。
だが、それも今ではなりを潜めている。
なにせ――二人の関係が最悪だ。
最初の爆弾発言を追求しようにも、次の日からはまるで赤の他人のように距離を置く二人に、生徒達は唖然としていた。
それもこの一週間、イノリと一騎が喋っている姿も、一緒に登校する姿も、目を合わせたところを目撃した者さえいないのだ。
一夜にして破局を迎えた二人。
しかもその仲は誰もが距離を置くほど。
二人の逆鱗に触れるのが怖くて、まるで腫れ物に触るような一週間だった。
こうして、話を切り出したのも実は結奈が初めてだったりする。
一騎の姿が普段とあまりにもかけ離れているから。
その姿に、幼馴染みとして――いや、一人の女として放っておけなかったのだ。
「一騎、周防さんと何かあったの?」
「――何もないよ」
一騎の肩がピクリと動く。
だが、その動揺を悟られまいと、一騎は平静を装って答える。
結奈でなければ見逃してしまうその些細な変化に、疑惑は確信へと変る。
「嘘。ぜったい、何かあった」
「どうして、そう思うんだよ」
「女の勘」
その一言に一騎は思わずジト目を向けてしまった。
何の根拠もない。
だが、その言葉や結奈の物言いには有無を言わさぬ迫力があり、一騎は反論の言葉を失ってしまう。
そして、ポツリと漏れた弱音。
「……僕、間違ってるのかな?」
「……」
口を出た迷いは、そのまま濁流のように一騎の思考を染め上げる。
この一週間、たった一人きりの周防で考え続けた。
あの拒絶の眼差しを。
意識を刈り取る前にイノリが零した言葉の意味を。
だが、どれだけ考えても、結局は一騎の意思を否定するものとしか考えられなかった。
それは特派にも浸透しているのだろう。
一騎は周防にこそ引っ越したが、あれ以来、イノリは周防に戻って来ていない。
あの寮に居るのは一騎ただ一人だ。
地下に作られた基地の調整にリッカやオズが偶に来るだけで、あの広い空間に一騎一人だけが取り残されてしまった。
広いリビングにも、キッチンにも誰もいない。
そして沢山ある個室も全てが空室。
人気のない家で、考えるのは、イノリの事だけ。
そして、間違っていたのは自分だと突きつけられた現実だけだ。
あの決闘の日から一騎はトレーニングルームで密かにイクスギアを纏おうと試みた事が何度かある。
だが、そのどれもが失敗。
一騎の設定した起動認証をイクスギアが受付けないのだ。
最初こそ、故障だと思ったが、今では違うと断言出来る。
書き換えられたのだ。
一騎が変身出来ないように起動認証コードを。
それが意味するのは、特派の人たちも一騎の事を見限ったということ。
「僕は、ただ助けたいって……思った。ただそれだけなんだ」
自分の気持ちを素直に吐露する。
こんな弱音、受け止めてくれるのは結奈しかいない。
だからだろう、一騎は年甲斐もなく、涙をにじませながら、さらに気持ちを昂ぶらせる。
「僕に力がない事も、弱い事も知っている。臆病者で、誰かを助けられる力もない事くらい、誰よりも知っているんだ。けど――」
ああ、ダメだ。
これ以上はダメだ。
結奈の事も一騎にとって守りたい大切な人だ。弱音だけは見せたくない。
これ以上、情けない姿だけは見せたくない。
けど、勝手に動く口を止める術を一騎は終に見つけ出す事が出来なかった。
「守りたいって! 周防さんを――イノリさんを守りたいって本気でそう思ったんだ! なのに――」
これは、この懺悔は残酷だ。
一騎の心情を聞かされていた結奈の目にも涙が浮かび上がる。
キツく唇を噛みしめ、心臓を抉るような一騎の言葉の数々に結奈はただ堪え忍んでいた。
好意を寄せる男の子から聞かされたのは別の女の子に対する熱い思い。
そんなの――ただの女の子が耐えられるものではない。
その衝撃は、イノリのあの時の告白よりも――耐えられなかった。
言葉の節々から伝わる一騎の本音。
今まで一騎が見せた事がなかったその言葉に結奈の心はズタズタに引き裂かれていく。
それでも――結奈は逃げ出さなかった。
家族だから。
幼馴染みだから。
誰よりも一騎の事が好きだという気持ちがあるから。
周防イノリに負けたくないから――
そんな意地と、そしてプライドが逃げる事も泣く事も許さないのだ。
そして、その苦しみに結奈は耐え忍ぶ。
一騎が全ての気持ちを吐露するまで、その胸を貸し続け――
そして――
「そっか……」
心を憔悴しきった結奈から零れたのは達観の一言だった。
今、一騎を射止めるのは簡単だ。
優しい言葉を投げかけ、その傷を癒せば、きっと結奈の事を振り向いてくれる。
けど――そんな真似は出来ない。
「迷ってんじゃないわよ」
結奈は一騎を突き飛ばした。
優しい言葉も思いやりもいらない。
結奈が好きになった一騎は――こんな一騎ではないのだ!
「私、言ったわよね? もっと自分の気持ちに素直になりなさいって!」
あれはいつだったか――
避難警報が鳴り響く廊下で一騎が問うて来たのだ。
どうして、助けようとするのか――
自分の身も危険な中で、どうして誰かの為に手を差し出せるのか――
あの時も結奈は言った。
「助けたいと思ったその気持ちに間違いなんてないのよ! あんたの気持ちは本気なんでしょ? なら、弱いとか臆病とか関係ない!」
敵に塩を送るような言葉に結奈は内心呆れながらも、それでも言わずにはいられない。
こんな姿の一騎を見たくないから。
だって、こんなのは結奈の知る一騎じゃないから。
十年前、あの大震災の最中、結奈はただ親の背中で泣いていただけだった。
けど、一騎は違う。
あの厄災の中――一騎は一人の女の子に手を伸ばしていたのだ。
泣きじゃくるその女の子の頭を撫でながら「大丈夫!」と優しく笑いかけるその姿に――結奈は一瞬で心を奪われた。
あの時、あの場にいた女の子の記憶はもうすでにない。けど、特徴的だった白髪の髪が脳裏に焼きつき、それが――あの転校生、周防イノリと被ってしまった。
もしかしたら、あの時の女の子かも知れない――
そう思ったことは何度もある。
そして、恐らく、結奈のこの勘は外れていない。
イノリが一騎に向ける視線もまた、結奈と同じだったから。
同じ人を同じ日、同じ瞬間に好きになったのだから、これは本当に馬鹿な行為だ。
あの姿を見て、惚れない女はいない。
そして一騎が好意を寄せている女の子は、結奈ではなく、イノリだ。
けど、その事を理解してなお、結奈は一騎を見ていられなかった。
「いい、一騎!? アンタはもっと我が儘でいいの!」
「けど……」
「言い訳しない! それがアンタの唯一の取り柄なんだから、もっと自信もちなさいよ! 周防さんに何言われた知らないけど、アンタみたいな馬鹿が何考えたって無駄なんだから」
結奈の大好きな一騎に戻るなら、塩でも何でも送ってやる!
そんな気構えで、やけくそ気味に結奈は全てを一騎にぶつける。
そして、その言葉は、一騎の中に確かな熱となって宿るのだった。
「僕……そんなに馬鹿なのかな?」
「当たり前でしょ?」
「成績、体育以外が悪くないつもりだったんだけど?」
「勉強とは関係なく馬鹿なのよ」
「そう……か、なら――」
ゆっくりと顔を上げた一騎の表情はまるで見違えるようだった。
さっきまでの失意はもうその瞳にはない。
結奈はその瞳を見てホッと安堵する。
「もう、迷ったりしない。うじうじ考えるのは止めだ」
決意を新たにした一騎――
そして、それを見計らったように――
ウィィィィン……
校内スピーカーから――
いや、この街全域に――
《魔人》の出現を知らせる避難警報が鳴り渡るのだった。