絶望に向かって――
「それで、お前、本当にあの時の仮面ヤロウなのか?」
凛音は膨れっ面を浮かべ、結城をジト目で睨む。
結城は殴られた額をさすりながら、「はぁ……」とため息。
胸を触ったくらいで本気で殴られるなんて、割に合わないなぁ……と愚痴の一つでも零したくなる。
そもそも、その胸の感触すらほとんど脳がシャットアウトしていたのだ。
結城としては、胸を触ったという事実だけが残り、その感触も手触りも永劫に知る術を失ってしまっている。
(こいつ……凶暴すぎ……)
トワイライトによる支配の影響はなさそうだが、そもそもの性格が勝気なのだろう。
いかにもけんか腰の喋り口調に、険のある視線(もっともこれは結城のせいなのだが……)
そして未だに頬を紅潮させて、威嚇してくるその姿は――一匹の野良猫を結城に連想させた。
(本当にこの女が一騎が信頼する仲間なのか?)
どうにも聞いた話と違いすぎる。
結城は一騎から凛音という女の子は、大切な友達の為に必死になって戦う事が出来る女の子だと聞いていた。
だが……この暴力的な発言を聞く限り、彼女に仲間意識があるのか……
正直、ものすごく怪しい。
結城は鬱憤交じりに肩を竦めると、
「……そうだよ」
力の抜けた返事を返す。
「そっか。あの時の仮面ヤロウがまさかこんな変態ヤロウだったとは……道理で素顔を隠してたわけだ」
「それはちげぇよ!! あれは《ルートクロノス》の仕様だ! 俺の意思じゃねぇ!!」
ここは声を大にして反論すべきだろう。
誤解を招くようなレッテルを張られては困る。
まぁ、先ほどのロリコン発言をしっかりと聞かれてしまったのだ。
今さらいくら変態と罵られようと、結城の評価が凛音の中で下がる事はまずないだろう。
「まぁ、どっちでもいいか、そんな事」
「よくねぇ!! 重要なことだろ? 俺は変態じゃねぇ!!」
「はいはい、わかったよ……」
凛音は呆れたように手をひらひら振りながら、結城の反論を華麗に聞き流す。
そして、紅蓮に染まった世界を一望し、ポツリと零す。
「……とりあえず現状を教えてくれ」
「は? 現状って?」
「……どうにも頭の中がこんがらがって意味がわかんねぇんだよ。まるで二つの記憶が混ざったみたいで……どうにも現実ってもんが掴めねぇ……これはあたしの《赤世界》だよな?」
「……たぶんな」
「……《領域》――解除」
凛音がこの世界を元の世界へと戻す言霊を呟く。
だが、世界への影響は一切ない。
凛音の意思に反して、《赤世界》は維持されたままだったのだ。
「どいう事だ? なんで解除されねぇんだよ」
「あたしが知るか。そもそも、もうこの世界はあたしの世界じゃねぇよ」
凛音が「ちッ」と舌を鳴らして吐き捨てる。
その顔色には憤りが浮かんでいた。
トワイライトの支配から逃れた平行世界の凛音が今の凛音だ。
当然、《束縛》の力によって副次的に手に入れた《赤世界》の制御は出来ないだろう――とは思っていた。
だが、それなら、何故、凛音の手から離れてもこの世界は維持されているのか――
凛音は頭に手を当て、過去の記憶を探る。
平行世界の記憶はもちろん。
今の凛音は《束縛》されていた時の記憶もある。
胸糞悪い記憶だ。
総司の十字架を背負う覚悟を忘れ、
仲間である一騎を憎み、銃口を向けたこの世界の凛音の記憶。
忌々しい記憶である事は間違いないが……
それでもトワイライトたちの計画を最もよく知る記憶だ。
その中の断片を探り、不穏な予感が脳裏を掠める。
「まさか……もう計画は最終段階に入っているのか?」
「あん? 最終段階? なんだよ、それ……」
「簡単に言えば、世界を新世界へと造り変える段階って事だよ。けど、待てよ……まだ、世界は集まっちゃいねぇはず……あたしの世界にハクアの世界、トワイライトの世界とアイツの世界……まだ一つ足りてねぇじゃねぇか!!」
憤る凛音に結城はわけもわからず頭を掻きむしった。
「サッパリわかんねぇ!! いったいどうい事だよ! 新世界に変わるって俺と一騎の魔力が必要なんじゃねぇのか!?」
「……その通りだ。けど、必要なのはお前の魔力だけだ。もう一騎の魔力は必要ねぇ……」
凛音は額に汗を滲ませ、青白い顔を浮かべる。
もし、そうだとしたら状況は最悪だ。
この世界は滅亡へと着実に向かっている。
凛音の大切な居場所も友達も、全てが新世界に上書きされる……
(絶対に止める! あのバカたちが命掛けで守った世界を……)
「……とりあえず、この世界から脱出するぞ」
凛音が《ロートリヒト》を構え、銃口を天蓋へと向けた時――
「させないよ」
二人にとって聞き覚えのある青年の声が耳朶を打った。
電撃が突き抜けたような衝撃が駆け抜け、二人の表情が一瞬で強張る。
ゆっくりと二人の視線が声のした方へと向けられる。
そこにいたのは、二人にとって因縁深い相手――《魔王》の騎士、ハクアだった。
純白のギアに身を包み、二振りの魔剣を携えたハクアは濃密な魔力を放出させながら二人に近づく。
その距離、十メートル程度。
だが、その距離から発せられるハクアの魔力は、力尽きた結城には酷だった。
呼吸を封じられ、身動きが出来ない……
「く……ッ」
一瞬で気が遠のく程の圧力で地面に叩き伏せられる。
(まずい……《ルートクロノス》で魔力をほとんど使いきっちまった……)
結城のギアの中で一番魔力の消費量が多いのが《ルートクロノス》だ。
時間遡行に加え、平行世界の上書き。
一度に消費する魔力量が桁違いだった。
ギアは纏えるだろうが、能力を使えるのは――恐らく一回が限度だ。
だが、それも――ギアを纏える状況であればの話、だが。
凛音との闘いで、体力は底をつき、体も満身創痍。
呼吸すら封じられ、魔力を練り上げる集中力すら途切れる。完全な無防備となった結城に、ハクアは魔力だけで結城の意識を刈り取る――!
「させるかよ!!」
だが、結城の意識が途切れる瞬間、深紅の銃弾が結城の体を包み込む。
魔力の障壁となって展開された銃弾は、中で蹲る結城の体を治癒の炎で癒す。
凛音との闘いの傷が癒え、僅かではあるが体力が回復した。
(これなら――ッ!!)
結城は凛音の張った障壁の中で立ち上がり、ブレスレットを掲げる。
そして――
「イクスギア――フル……あがああああああああああッ!!」
ギアを纏おうと魔力を解放した瞬間、魔力が雷撃のように結城の体を襲ったのだ!
蒼い魔力が結城の総身を駆け抜ける。
全身が痙攣を起こす程の激痛にたまらず膝をつく。
「う……ぐッ……一体、どうなって……暴走ってわけでもねぇのに」
結城を襲った魔力は暴走時の禍々しい黒色ではなく、澄んだ蒼い色だった。
魔力の暴走による激痛ではない。
これはもっと別の――命に関わるような警告を発しているような気がしてならない。
まるで、これ以上ギアを纏えば死ぬぞ? と警鐘を鳴らしていたのだ。
蹲る結城を庇うように凛音が銃口をハクアに向けながら駆け寄る。
「この馬鹿ッ!! これ以上魔力を使えば消滅するぞ!!」
「しょ、消滅って……なんだよ、それ!」
「お前はもうとっくに限界なんだよ。限界を超えて魔力を使えば、体が消滅するんだ。一騎から聞いてねぇのか!?」
「き、聞いてねぇよ!!」
「……あのバカ、肝心なこと教えてねぇのかよ!?」
凛音は不満をぶつけるようにギリッと奥歯を噛んだ。
限界以上の魔力を使えば、肉体が消滅する――
それは、ギアを纏う時に一番に教えるべきことだ。
魔力と生命エネルギーが一つになった、新人類とも呼べる凛音達にとって魔力の枯渇は死に直結する。
その光景を三か月前、確かに凛音達は目撃していたはずなのに――
(あのバカッ!!)
説教は後回しだ。
今はこの状況を――
ハクアに追い込まれたこの戦況を覆す事だけに全神経を集約させなければ――
待っているのは敗北だ。