改変された世界
「――せ、一ノ瀬!!」
アリスが横たわる一騎の体をゆさゆさと揺らす。
重たい瞼をゆっくりと持ち上げ、一騎は心配そうに顔を覗き込む二人の少女に視線を向ける。
黄昏時のように金に輝く髪を腰まで伸ばした少女――アリスは深紅の双眸に安堵の色を滲ませながら、ホッ……と胸を撫でおろしていた。
そして――
「かずきぃぃ~」
黒曜の黒い髪と黒真珠のような綺麗な瞳を持つ少女――幼馴染の結奈は涙を流しながら体当たりでもするかのような勢いで一騎に抱き着く。
「おわッ! あ、あぶなッ」
寝起き様に幼馴染から不意のタックルを受けた一騎は声を荒げながら、両手で結奈を抱きしめる。
(ん? 両手……?)
久しく忘れていた右腕の感覚に戸惑いを覚える。
ないはずの右腕へと視線を向け、一騎は言葉を詰まらせた。
(嘘……だろ?)
あまりの衝撃に現実味が薄れていく。
何度も拳を開いたり閉じたりしてみるが、違和感が全くない。
まるで自分の腕のように右腕が自由に動かせるのだ。
だが、そんな事は――
(いや、だからこそ……なのか?)
こめかみを抑え、う~んと唸る一騎。
思い起こすのはアリスに起こされる前に見ていた夢の内容だ。
夢と断ずるにはリアルすぎる内容。
それは一騎の腕がまさに切断されそうになった時、仮面を被ったギア適合者が一騎の窮地を救ったのだ。
彼の助けもあり、一騎は大きな怪我をする事なく、白亜の騎士を撃退する事が出来た。
この夢の内容は、実際に一騎が経験した現実とは異なる内容の夢だった。
現実にはそんな救世主は現れず、一騎は右腕を奪われ、重傷を負ってしまった。
だからこそ、驚きを隠せない。
突然、右腕が蘇った事実に胸の奥で波風が立つように不安と恐怖が渦を巻く。
「どうやら、成功したみたいですね」
アリスは一騎の手を柔らかく触るとその感触を確かめながら安堵の吐息を漏らす。
「え? 成功って?」
だが、一騎はアリスの漏らした言葉を理解出来ず、その意味を聞き返していた。
どうにも記憶の混乱が激しい。
理由は明白。
あの夢が原因だ。
一騎が見たあの夢には続き――らしきものがあった。
なぜ、そのような言い回しになるかと言えば、それを夢の続きと断ずるには無理があったからだ。
夢の続きはこうだ。
敵を退け、イクスギアのメンテナンスを行っている間に結城とマシロが一騎たちの目を盗み脱走。
あろうことか一騎のギアを盗み出すという始末。
その後、白亜の騎士と結城が戦闘に入り、その魔力反応を追って、一騎たちも現場に駆けつける事が出来たのが――
その場には《魔人》化の暴走に苦しむマシロを助ける事が出来ず、手をこまねく結城と白亜の騎士がいた。
一騎はイクスギアの封印の力でマシロの《クロノス》の力を封印することに成功していたのだ。
それは、一騎が実際に体験した現実と酷似する点が多々あるが、それでも細部は異なる――まるでもう一つの物語を強制的に見せられているような感覚だった。
それだけじゃない。
その夢の一騎が体験した夢は、その夢に登場する一騎の過去までも強引に記憶に刻み込んだのだ。
イノリとの再会、そして凛音との和解、芳乃総司との決戦の記憶。
さらには今の一騎には知る由もなかった驚愕の事実までもがもう一つの記憶として一騎の中に存在していた。
(これは……一体……)
「覚えていないのですか?」
「うん……ごめん、記憶が曖昧で……」
「そうですか……一ノ瀬、結城が《ルートクロノス》を使ったのは覚えていますか?」
「ちょっと待って、今、思い出すから……」
一騎は二つある記憶の中から必死にその記憶を手繰り寄せる。
だが、それは困難を極めた。
二つの記憶は混ざり合い、まるでどちらの記憶も本物の一騎の記憶に思えてしまうからだ。
記憶を遡る事、数分。
ようやく一騎は思い出した。
結城が何をしたのかを。
そしてあの仮面のギアの正体を。
(つまり、結城があの時の仮面の正体だってことか?)
そして、この場所から過去に跳び、一騎の窮地を救った?
まさか、そんな馬鹿な……
咄嗟に否定の言葉が脳裏を過ぎる。
だが、否定するよりも、現状を肯定する材料の方が整いすぎていた。
「……まさか、これが結城の力なのか?」
「えぇ。私の推測通り、《ルートクロノス》は過去の平行世界を上書きする能力のようですね」
「……ちょっと待って。それが《ルートクロノス》の力なのか?」
「えぇ。二人を包んでいた魔力障壁が解除されたら、あなたの腕が元に戻っていたんですよ?」
「本当に?」
「えぇ。映像記録を見ますか?」
「……いや、いい」
一騎はその申し出を断る。
アリスがそう言うのだ。
傍目から見れば、そう映るのだろう。
結城が過去へと時間遡行し、歴史を変えた――
そう思うよりは、アリスの言っていた能力の方がまだ納得は出来る。
「……アリスちゃんは仮面のギアを纏った人の事、覚えているの?」
「おかしな質問ですね? 結城ではないのですか?」
「いや、そうじゃなくて……過去にもそのギアを纏った人っていなかったのかな?」
「……私の知る限りではいませんね」
そう……なのか。
アリスには平行世界の記憶がない。
だが、それなら――
(どうして、僕の記憶にはもう一つの世界の記憶があるんだ?)
考えられる理由として挙げられるのが、《ルートクロノス》の展開する魔力障壁の中にいたのが結城と一騎だけだったから。
あの障壁に囲まれた人だけが平行世界の記憶を共有することが出来るのだろう。
そう考えれば辻褄が合う。
あとは結城とその事実を確認するだけだ。
「そういえば、結城は?」
一騎は周囲を見渡す。
《ルートクロノス》の実験が行われた地下基地の訓練施設には一騎とアリス――そして一騎に抱き着き、嗚咽を漏らす結奈しかいなかった。
アリスは表情を陰らせ、ぽつりと零す。
「結城はまだ眠っています」
「え?」
「ただの疲労なので心配する必要はありませんよ。恐らく《ルートクロノス》は大量の魔力を消費するのでしょうね」
アリスが言うには、能力を解除した時、結城はまだ意識があったらしい。
一騎の無事を確認すると安堵の吐息を漏らし、「疲れたから、寝るわ」と言い残し、ふらつく足取りで自室へと戻ったのだ。
「なら、アイツが起きるまでしばらくはゆっくり出来そうだな……」
疲労感で言えば一騎も負けていない。
肉体的な面はさほど問題ないが、混合する二つの記憶を整理する為に少し時間が欲しかった。
「そうですね。これからの話は結城が起きてからにしましょう。何にしてもこれで……」
「うん。凛音ちゃんを助け出す事が出来る」
だが、新たな問題が浮上した。
《ルートクロノス》は過去へと時間遡行し、歴史を変える力だ。
なら、結城は過去を変えられるだけの強さ――
ギアを十全に扱えるだけの技術と知識が必要になる。
まぁ、その課題は結城が起きてからでも問題はないだろう。
幸い――と言っていいのか、結城の訓練に適した人材には心当たりがある。
頼りたくはない――が、あの人もこの現状を良く思ってないはず。
一時的な共闘は結べるだろう。
今は、こんな無茶ばかりする一騎をいつも心配してくれる大切な幼馴染との時間を大切にすべきだ。
「……ありがとう、結奈」
「か、一騎?」
ゆっくりと右手の感触を確かめるように、一騎は結奈の頭を優しく撫でだ。
真っ赤に腫れた双眸で一騎を見上げる結奈。
ここ最近ろくに寝ていなかったのか、目元にはファンデーションでは隠せない程の隈が目立っていた。
それに、一騎に抱き着いた結奈はいつになく弱弱しい。
大切な友達が敵に回り、そして一騎が世界中の敵となったのだ。
彼女の心労は一騎には到底推し量れない。
一騎と結奈の空気を察したのか、アリスは訓練施設を後にする。
残された一騎は、結奈の体を強く抱きしめる。
今はこれくらいしか出来ない。
結奈の気持ちは知っている。
彼女の抱く恋心を知っているからこそ、これ以上は進めない。
幼馴染として、友達としてでしか、彼女を慰められないことに歯がゆさを覚えながら、一騎は呟く。
「ごめん、心配かけて」
「一騎……」
「でも、大丈夫だから」
そう。あの時から一騎が望むハッピーエンドは誰一人として欠ける事は許されない。
だから助ける。
今度こそ。
「凛音ちゃんも僕も、そしてアリスちゃんもマシロちゃんも結城もみんなでこの『周防』に戻ってくる」
「でも……でも……」
「そしたらさ、またみんなで遊ぼうよ。イノリとデートした時みたいにさ」
そういえば、あの時のデートって《魔人》の邪魔が入ったんだよな……
結局、一度もイノリとデートらしい事が出来ていなかったことに今さらながら苦笑が漏れる。
(映画……三人で見たかったなぁ……)
イノリが異世界物の物語が好きだって事もあの時、知ったのだ。
もっと一緒にいれば色々なイノリを知る事が出来たのかもしれない。
だから――
「絶対、大丈夫。みんなで最高のハッピーエンドを、みんなが望む平和を掴み取って見せる。だから、その時は心から笑って? みんなの笑顔を守る為なら――」
そう。召喚者が命を懸けて守ったこの世界を。
みんなとまた笑い合う為に。
今度こそ、平和な世界にする為に。
「未知の力で明日を切り開いてみせるよ」