プロローグ『名無しの少女』
私にとっての世界。
それは、この水槽の中から見える景色だけだった。
鉄の部屋の中央に鎮座する大きな水槽。
それが私の居場所だった。
周りには沢山の機械があって、幾つもの太いパイプが水槽には繋がれていた。
薄い緑色の水の中で私はずっと漂っている。
不思議と呼吸は苦しくない。
きっと、周りの機械とこの水が私の生命活動に必要な栄養素を与えているのだろう。
食事の必要もなければ眠る必要もない。
話す必要もなければ、動く必要もない。
だからだろう。
こんな私の唯一の趣味と言えるのが、私を観察する人達の観察だった。
今日も大勢の人達が水槽の中にいる私を興味深く見つめている。
手に小型の端末や資料を持った大人達が忙しなく機材を弄っている。
あぁ、本当に彼らはいつも変わらない。
いつも、機材を弄っては「これも失敗か……」と落胆して、忌々しげに私を見上げる。
白衣を着た大人は嫌いだ。
彼らの瞳は私を人じゃなく、物として見ているから。
水槽に貼られたラベルは『被験体00』
それが私の名前らしい。
どうして、そんな表現をするのか?
そんなの簡単。
もう、自分の本当の名前なんて思い出せないから。
けど、このラベルの名前の意味は察しがつく。
私は実験体として彼らに見られているのだろう。
水槽の中で、何も纏わず裸で佇む私を見て、一体何が楽しいのだろう。
ロリコンなの? 貧相な私の体を見てなにを興奮してるのよ!!
おっと、つい本音が漏れてしまいました。
私の何が彼らを躍起にさせるのか……私は不思議でならなかった。
そんな生活が数年も続けば、飽きてもくる。
いつしか私は考える事すら放棄していた。
今日も白衣の大人が水槽に様々な薬品を投与したり、私に刺激を与えて反応を見たりと実験を繰り返している。
けど、そんな実験は無駄だった。
彼らが『実験』と称して、私に嫌がらせをしてくるのは日常茶飯事。
その『実験』の中には痛みを伴うものあった。
私は痛いのが嫌い。
体を好き勝手に弄られるのが嫌い。
だから、彼が『実験』を行う時、私はいつもあるおまじないをしていた。
体の奥底に流れる力の本流。
その本流から力を掬い上げ、私はその力を解き放つ。
そうすれば、不思議な力が体を包み込むのだ。
光輝く粒子が私を覆う。
その光は私から痛みを消してくれる。
傷を消してくれる。
劇薬を投与された水槽を元の水槽に戻してくれる。
研究員は口々に話していた。
私の力の事を。
この魔法の力を。
どうやら、『イクシード』と呼ばれる力らしい。
ここの研究所はどうやら私の『イクシード』を研究したいようだ。
けど、上手くいってないらしい。
私は小さな胸を張って、幾度も実験に失敗する彼らを見下していた。
私の心も体も力も好きにはさせない。
なぜなら私は――
名乗る名前がなければ、威張れないよ……
そんな月日が数年も経った。
その日、何でもない日常に非日常が訪れた。
深夜。
私にとって、その時間はとても退屈な時間だった。
研究がない時は、この部屋の照明は全て落とされる。
真っ暗闇の中に、ただ私の水槽を稼働させる駆動音だけが響く。
ゴウン……ゴウン……と耳障りな音がずっと聞こえるのだ。
眠る必要のないこの体に、この音はちょっとした拷問だった。
静かな時間を求めてもそれをこの音が許さない。
機械の音は嫌いだ。
人の話し声は好きだけど、無音の機械音だけは好きにはなれない。
だから、私は寝たふりをしている。
膝を組んで、蹲って、耳を塞いで、瞳を閉じて、世界との接点を遮断する。
そんな夜だ。
誰かが鉄製の扉をゆっくりと開けた。
扉からひょっこり顔を出し、私の部屋を覗きこむ。
私よりも小柄な顔だ。
まだ幼い。
男の子とも女の子とも見える中性的な顔立ち。
その子は私を見つけるとおっかなびっくりといった様子で鉄の部屋に忍び込んだ。
病衣を着たその子――男の子はペタペタと裸足の足で近づき、いつも研究員達が見つめるよりももっと近く。
私の水槽に小さな手で触れて、私を見上げる。
「君は……誰?」
それが、私と結城透――トールとの出会いだった。