第21話 眠れぬ夜の過ごし方
「…………ボルマンさま?」
わたしの呼びかけに、婚約者は伏せていた顔を上げられました。
どこか悄然としておられます。
「あ、え、エステル殿?」
驚いてこちらを見つめられます。
わたしが前まで歩いて行くと、ボルマンさまはベンチから立ち上がり、相変わらずきれいな立礼でわたしを迎えてくれました。
「こんばんは、エステル殿。こんな夜更けにどうされました?」
気のせいでしょうか。笑顔が硬いように思います。
わたしは尋ねたいことを胸にしまい、ご挨拶を返しました。
「こんばんは、ボルマンさま。窓からお姿が見えましたので、つい足を運んでしまいました」
「ああ……そういえば、エステル殿の部屋はこちら向きでしたね」
そう言いながら屋敷の方を見ると、納得したように頷かれます。
わたしは、持って来たガウンを差し出しました。
「少し肌寒くなってきましたし、よかったらこれをお使い下さい」
するとボルマンさまは、表情を弛ませ「ありがとう」と仰ってガウンを手に取り羽織られると、胸ポケットからハンカチを取り出し、傍らのベンチを軽く払って下さいました。
「せっかくですから、少しお座りになりませんか?」
「考え事の、お邪魔ではありませんか?」
「いえ。正直、行き詰まっていたものですから」
そう言って弱々しく笑われます。
ボルマンさまもこんな顔をされるのか、とちょっとだけ驚きました。
わたしはお礼を言って、ボルマンさまの隣に腰かけると、先ほどからずっと気になっていたことを切り出しました。
「ボルマンさま。ひょっとしてカエデが、何か失礼なことを申し上げたのではありませんか?」
ボルマンさまは、再び驚いた顔でわたしを見つめられました。
少しだけ、時間を戻します。
わたしはサロンを辞した後、自室に戻って就寝の支度をしていました。
「カエデ、今日はありがとう。おかげでこの二日間、とても素敵な日を過ごせました」
髪の手入れをしてくれたカエデに声をかけると、カエデは微かに笑みを浮かべました。
「私にはもったいないお言葉です。その言葉は、見事なエスコートをされたボルマン様にお伝えになってはいかがでしょう」
わたしは首を振ります。
「もちろんボルマンさまには明日お礼を申し上げます。だけどカエデは今回の顔合わせに向けて、ずっと手を尽くしてくれていたでしょう? だからこの言葉はあなたに受け取って欲しいの。……ありがとう、カエデ」
カエデは、今度ははっきりと優しい笑みを返してくれました。
「私は、お優しいエステル様にお仕えできて幸せ者です。お嬢様の笑顔が、カエデには一番の宝物です。今度とも変わらず微力を尽くさせて下さい」
「こちらこそ。ずっとよろしくね、カエデ」
「はい。それではおやすみなさいませ、エステル様」
「おやすみ、カエデ」
カエデは扉のところに歩いて行くと、いつものように一礼して退室していきました。
わたしもベッドのところに行き、魔法灯の明かりを落として横になります。ですが……
「寝られるでしょうか?」
正直、眠れる自信がありませんでした。
この二日間は、わたしが生きてきた中で一番すてきな日となりました。
昨日はご挨拶の緊張と疲れから、倒れるように寝てしまいましたが、今日はまだ頭と顔が、かっか、としています。
わたしは目を閉じ、ひつじを数えることにしました。
「あばれひつじが一匹、あばれひつじが二匹…………」
ですが、頭に浮かぶのは、この二日間のことばかり。
ボルマンさまとの出会い。
アップルパイを褒めてもらったこと。
初日のお店めぐり。
二日目の村の散策。
そして「おやすみなさい」と挨拶下さった、先ほどの優しい声。
頭の中をいろんな光景が駆け巡ります。
「…………これはちょっと、無理でしょうか?」
わたしはベッドに入って十分ほどで、ひつじを数えるのを諦めました。
そうして横になっていましたが、一向に眠気はやって来ません。
横になっているのも段々苦痛になってきたので、思いきってベッドから抜け出しました。
採光用の天窓からの薄明かりを頼りに窓際のテーブルセットまで歩いて行き、カーテンを小さく開きます。
空には星の光が瞬き、月明かりが差し込みました。
水差しからコップに水を注ぎ、イスに腰かけます。
「こんなことは、初めてですね」
その水を口にした時でした。
窓のそとに、何か動くものが見えた気がしたのです。
「?」
立ち上がって窓際に行き外をのぞき見ると、屋敷の庭に人影が見えました。
こんな時間に、誰が、何をしているのでしょうか?
おそるおそる様子をうかがっていると、どうやら二人の人物がガゼボで立ち話をしているようです。
二人の人影はしばらくそうして話していましたが、やがて片方の人影が相手に一礼し、屋敷に戻って来ました。
月の光が照らしたその人は、わたしがよく知る人物でした。
「…………カエデ?」
間違いありません。
白と黒のメイド服。短めのポニーテール。
それはわたし付きのメイド、カエデでした。
一方、もう片方の人物は、彼女が去ると同時にガルボのベンチに座り込みました。
小柄なカエデと比べ、更に背が低いその人。
しかもカエデが礼を持って接する人物と言えば、今、この屋敷には一人しかいません。
「……ボルマンさま?」
わたしは、婚約者の元に向かうべきか否かをしばし逡巡した後、ガウンを取るためクローゼットに向かったのでした。
話を戻します。
わたしの言葉に驚かれたボルマンさまは、少し固まった後、苦笑いしながら仰いました。
「なんだ、聞いておられたのですか……」
わたしは、慌てて両手を振ります。
「いえ、違います。わたしは自室から二人が何か話をされているのを見ただけです。お話の内容については、わたしの勝手な想像ですよ」
その様子を、ぽかんとした顔で見ておられた婚約者の男の子は、ふふ、と笑われました。
「ええ、ええ。分かりました。貴女の言葉を信じますよ」
わたしは、ぷく〜、と頰を膨らませます。
「本当なんですよ? カエデが失礼なことを申し上げたのではないか、と心配でこちらに伺いましたのに……」
「ああ、すみません。からかうつもりはないのです。カエデさんとの話が、ちょっと踏み込んだ内容だったので、聞かれていたら恥ずかしいな、と思ったのですよ」
「踏み込んだ内容、ですか?」
わたしの問いに、今度はボルマンさまがどぎまぎされました。
「えーと、その、うん。まぁ、なんです……。『エステル殿を幸せにできるのか』と聞かれまして…………」
あらぬ方向を向いてボソボソと話される婚約者に、わたしはずい、と近づき、その顔を覗き込みました。
「……それで、どうお答えになったのですか?」
「えー、あー、そのぉ……」
「そのぉ?」
わたしが首をかしげると、ボルマンさまは宙に視線を漂わせてしばらく抵抗していましたが、やがて観念したように口を開かれました。
「『幸せにできるよう、努力する』と……」
「まぁ…………」
わたしは急に恥ずかしくなり、両手で口元を覆ってボルマンさまから離れました。
お互い気恥ずかしく、そのままなんとなく離れて座ったまま、時間が流れました。
どれほど時間が経ったでしょうか。
ボルマンさまが少し硬い声色で、何かを決心したかのように、尋ねて来られました。
「……エステル殿は、私との婚約は、お嫌ではありませんか?」