第12話 ダルクバルト男爵領の子豚鬼
「お前の婚約が決まった。ダルクバルト男爵家の長男だ。来月挨拶に来るから、準備しておけ」
わたし、エステル・クルシタ・ミエハルは、生まれて初めてお父さまから呼び出しを受けました。
食事の席でたまにご一緒させて頂く他は、お顔を見ることもなく、ほとんど言葉を交わしたこともないお父さま。
そのお父さまがわたしを呼んでいると聞き、驚き向かった執務室で、わたしは自分の婚約を知りました。
「……承知致しました。失礼のないよう準備をすすめます」
告げるべきことを告げたお父さまの視界に、もうわたしはいません。
心の中でダルクバルトという名に不安を覚えながら、一礼して顔を上げたときには、お父さまはすでに手元の書類に目を落としており、二度とこちらを見ることはありませんでした。
そうしてわたしはひとり、失礼します、と申し上げて退室したのでした。
廊下には、いつもお世話をしてくれているメイドのカエデが控えていました。
黄色の肌に黒髪、黒目という小柄な彼女は、わたし付きのメイドであると同時に、七つ上のやさしい姉のような存在です。
彼女は目で、何があったのか、と問うてきました。
「わたしの婚約が決まりました」
普段、何があってもほとんど表情を変えないカエデの目が、大きく見開かれます。
「それは……おめでとうございます! エステル様」
滅多に見ないカエデの微笑に、わたしは内心の不安を抑えて微笑み返しました。
「ありがとう、カエデ。来月、婚約者の方が挨拶に来られるそうです。急ぎ準備をお願いします」
正式にご挨拶するとなれば、ドレスもそれ用に新調しなければなりません。採寸してから出来上がりまでの時間を考えれば、すぐに取り掛からなければ間に合わないでしょう。
わたしみたいな、そばかすだらけの肥満娘がドレスを着ても誰も喜ばないと思うけれど、これ以上ミエハルの名を穢すことはできません。
「畏まりました。すぐに準備致します。……お相手について伺ってもよろしいですか?」
挨拶の場であれば、相手の家格、家の特徴などにも配慮する必要があります。カエデが問うたことは準備に不可欠な情報でした。
わたしは、ためらいながらその名を口にしました。
「…………ダルクバルト男爵の、ご長男です」
それを聞いたカエデの表情から、一瞬だけ笑みが消え、すぐに微笑が戻ります。
「……畏まりました。お嬢様の晴れ舞台にふさわしい準備を整えさせて頂きます」
「ありがとう、カエデ。よろしく頼みます」
部屋に戻ったわたしは、カエデや他のメイドに「ひとりにさせて欲しい」と告げ、部屋にこもりました。
ふらふらと窓際に置かれた白いテーブルセットのところに行き、そのままイスに腰を下ろします。
「はぁ…………」
思わず漏れるため息。
頭の中を巡るのは、先ほどお父さまから告げられたわたしの婚約のこと。婚約者のこと。
「…………嫁がせて頂けるだけ、感謝しなければいけませんね」
お相手にも。お父さまにも。
そう、自分に言い聞かせます。
正直なところ、自分が嫁ぐことができるなど、思ってもみませんでした。
そばかすだらけの顔。お菓子で膨らんだ体と手足。
自分の醜さはよく分かっています。それが貴族の娘としていかにふさわしくないのかも。
こんななりでは、まともな貰い手がある訳がありません。
だからダルクバルトの名を聞いた時も、驚きはありませんでした。
ダルクバルト男爵家。
王国で最も南東にあって、最も魔獣の森に近い領地を治めておられる古い豪族の家。
領民に過酷な税を課す、手を出す、集めた税を領地のために使わず私腹を肥やすなど、悪いうわさの絶えない家。
その長男の方についても、うわさを聞いたことがありました。
残忍で欲深く、領民をいたぶるのが趣味の小領主。背が低く太っているところから、ついたあだ名が「ダルクバルト男爵領の子豚鬼」と。
気がつくと、ひざの上に重ねていた両手が、ガタガタと震えていました。
怖い…………。
わたしは婚約者のことが、将来の結婚生活が、恐ろしくてたまらなくなりました。
「お母さま……」
幼いころに病気で亡くなった、お母さまが恋しいです。
やさしく、美しかったお母さまに会いたくて、涙がこぼれます。
気がつくと、テーブルの上の小さな木箱に手をのばしていました。
ふたを開け、中のクッキーを一枚取りだし、口に運びます。ギフタル小麦の柔らかい食感と、甘い味が口の中に広がりました。美味しくありません。
もう一枚、クッキーに手をのばします。美味しくありません。涙でちょっとしょっぱいです。
そうして、十枚ほどあったクッキーがなくなっても、私の心はどうしようもなく空っぽで、ただただ涙を流し続けました。
数日後、廊下で二つ年上のバルバラ姉さまとすれ違いました。
わたしは、お母さまの違うこのお姉さまが苦手です。
「バルバラ姉さま、ごきげんよう」
立ち止まり、わたしから挨拶をすると、バルバラ姉さまも足を止められました。
「ごきげんよう。……そういえばあなた、婚約が決まったんですってね」
「はい。お父さまが手を尽くしてくださいました」
「そう、それはよかったわね。おめでとう、エステル!」
お姉さまが満面の笑みで祝福の言葉を口にし、わたしも頑張って微笑みます。
「ありがとうございます、バルバラ姉さま」
そこで、お姉さまの口元が歪みました。
「ところで、お相手はどなたでしたっけ?」
わざとらしく尋ねるお姉さまに、泣きそうになります。
「……ダルクバルト男爵の、ご長男です」
「あら、まあ! それは素晴らしいわ。あなたに『とってもお似合い』の方ね!! 本当におめでとう」
バルバラ姉さまが、バカにするような笑顔でそう言いました。
わたしはその言葉に、お姉さまの顔を見ることができません。
バルバラ姉さまは、北部の有力な侯爵家のご長男と婚約されているのです。
「あ、ありがとうございます。……失礼いたします」
わたしは逃げるようにその場を去り、部屋に戻ってひとり泣きました。
一箱空にしたクッキーも、全くおいしくありませんでした。
その日は、あっという間にやって来ました。
婚約者のボルマンさまと、そのお父さまがおいでになる日です。
わたしは朝から自分専用の厨房に入り、アップルパイを作っていました。
これはカエデに相談して決めた、わたしなりのおもてなしです。
わたしの数少ない取り柄のひとつ、お菓子づくり。わたしの一番のおもてなしを、このアップルパイにこめます。
カエデは言いました。
「相手がどういう方であれ、誠意をもって臨むべきです。その誠意にどの程度の誠意を返される方なのか。それによって付き合い方を決めればよいのではないでしょうか。ただ、こちらが何も渡さないのに『相手が何もしてくれない』と言うのは、違うと思いますよ」
カエデの言葉は、いつも耳にいたいです。
でも『そうだな』って思います。
ボルマンさまがどういう方なのか。
うわさ通りの方かもしれません。
それでもわたしは、アップルパイを作ります。
これが、わたしにできる婚約者への一番の誠意だから。