ドールハウス
朽ちた邸の前に、男は立った。
白い洋館。低い煉瓦塀とウッドフェンスがぐるりと囲み、門からから玄関へ向け、花壇に導かれる様に石畳が延びている。門柱に施された装飾からは、立派な門扉が付いていた事が窺える。
塀に沿い、邸を囲むように植えられた木々は、季節毎に衣を変え、見る者を楽しませた事だろう。
ここを訪れた者達は、林を進むと不意に現れるこの邸を見て、まるでおとぎ話の中に迷い込んだような、そんな錯覚を覚えたのではないだろうか。
季節毎に花を咲かせ色付く木々に囲まれ、花壇を彩る美しい花達が邸へと誘う――
主が去って、どれ程の時が過ぎたのだろうか……。
フェンスは朽ち、生い茂る雑草が崩れ落ちた煉瓦を隠している。門扉は外れ、伸び放題の花壇は無秩序に草花を生やし、門の外まで溢れ出していた。剪定される事の無い木は、塀の外まで大きく枝を伸ばしている。
門扉を押し退け、塀を乗り越え、我先に敷地の外へ逃げ出そうとしているように思えた。
白い壁には幾つもの亀裂が走り、這い回る無数の蔦に締め付けられ、今にも崩れてしまいそうだ。
草に埋もれた門扉を踏み越え、男は石畳を進んだ。辛うじて形を保った扉を開け、溢れ出す臭気の中へ踏み込んだ。
……微かに鼻を突く腐敗臭、カビ臭さ……肌が結露しそうな湿気に、息苦しさを覚えた。
窓は蔦に覆われ、日暮の様に薄暗い。しかし、邸へ侵入する様子はない。まるで入る事を拒んでいるかのように、不自然に捻れている。
しかし男はそれらを気にする様子はなく、真っ直ぐに階段へ向かった。
崩れそうな軋みが、歯の抜けた階段をゆっくりと登って行く。舞い上がった埃が、射し込んだ僅かな光の中を漂った。
穴から覗く階下の床をまたぎ、男は廊下を進んだ。一つ二つと扉を横切り、吸い寄せられる様に一番奥の扉に手を掛けた。
「お帰りなさい。ダーリン」
ガラスの瞳に男を映し、人形は語りかける。
「ねぇ、ダーリン。椅子が崩れてしまったの。直して頂けないかしら」
男はハンマーを振い、手早く椅子を直した。
床に倒れた人形を抱き起こし、そっと椅子に座らせた。
「嗚呼、これで外がよく見えるわ」
窓に映る人形の背中が――蔦の隙間から覗く、門扉の外れた門と重なった。
「これで……少しだけ、あなたを見つめていられる時間が増えたわ」
男は唇の隙間から微かに歯を覗かせ、バッグから人形の鬘を取り出した。
馴れた様子でそれを取り替え、そっと頭を撫でた。
「まぁ、素敵な髪ね。うれしいわ」
男に撫でられ、人形はうっとりと吐息を漏らす。
「ねぇ、ダーリン。ラジオをつけて頂けるかしら」
男は、窓辺に置かれた古いラジオに手を伸ばした。
スピーカーが微かな音楽を奏で、しんと静まった部屋を緩やかに充たした。
――やがて、中程から始まった演奏が終わり、男は人形に背を向けた。
その背を瞳に映し、人形は甘く、切なげな声を出す。
「もう行ってしまうの。次はもっと早く会いたいわ」
男は歯を覗かせ、口角をつり上げた。
自宅へ戻った男はソファーに腰を下ろした。瞼越しに感じる灯りに安堵を覚え、眠りに落ちるのを待った。
リビングに置かれた一人掛けのソファー。男が最も寛げる、無防備を晒せる場所はここだけだ。
人形と出会ってから、男はこうして眠るのが当たり前になっていた。ベッドは置かれているだけで、もう随分と使っていない。灯りもテレビも点けたままだ。部屋に居ようが居まいが関係ない。
横になると……そのまま、何処か夢とは違う世界へ引きずり込まれてしまう気がして……。
自分は眠っているわけではない。引きずり込もうとする何かに、自分に、そう訴えかける様に……テレビを点け、灯りを点け、座ったまま意識が途切れるのを待つようになった。
深く背をもたせ、テレビの中で交わされる、取るに足らない事をさも深刻な様子で語り合う会話に耳を傾けた。
――ふと話題が移り、微睡んでいた意識が引き戻された。
「何時になったら犯人は逮捕されるのでしょうか……。それでは、ゲストのお二方にも話を伺ってみたいと思います」
「異常者ですよ。被害者に恨みを持っているとかでもなく、殺害して遺体の一部を持って帰る。その為に殺す。犯人はね、もう人間じゃないですよ。髪の次は皮膚、そして今回は爪。それも生きたまま剥がしたと言うじゃないですか――」
声を荒げ、まくし立てるように、己の考える犯人像を語り続けた。
自分の考えに間違いなど無い。何故誰もそれが分からないのか。この無能共め! 反論に頷きつつも、言葉の端々にそんな本音が滲み出していた。
そして、最後はお決まりの台詞で締めくくる。
「警察は一体何をしているんですか! 私たちが何の為に税金を納めていると思っているんですか! こんな事だから、税金泥棒とか言われるんですよ!」
腕を組み鼻息を荒げる姿とは対照的に、縮こまるようにしてもう一人が口を開いた。
「なんかぁ、うわさなんですけどぉ……犯人は人形を作ってるんだって。遺体の一部をつかってぇ、人形――」
不意にテレビは色あせ、リモコンを突き出す男の姿を映した。
男はまた、人形の元を訪れた。
「綺麗な爪……。うれしいわ、ダーリン。本物みたい」
その言葉に、男は唇の隙間から微かに歯を覗かせた。
新しい爪を取り付けた手をさすられ、人形はうっとりとした吐息を漏らす。
「ねぇ、ダーリン。最近お肌がくすんできて……。また作って頂けないかしら」
男は微かに口角をつり上げ、人形に背を向けた。
その背を瞳に映し――人形はまた、甘く、切なげな声を出す。
「ねぇ、ダーリン。次はもっと、もっと早く会いたいわ――」
男が去り、部屋の中には、微かなラジオの音だけが響いた。
「それでは、お待たせしました! 今日のゲスト、リニアちゃんですー」
「こんにちは、リニアでーす!」
「今回、二ヶ月振りにお越し頂いたわけですが――」
邸を出た男は、ふと足を止めて周囲を見渡した。
一緒に連れて行ってくれ。庭の草木が、出て行く自分に追いすがり手を伸ばしているように思えた。
二階の窓を振り返ると、這い回る蔦の隙間に人形の姿があった。無機質なガラスの瞳が、振り返る男の姿を映してる。
「――それ知ってます! 死体で人形を作ってるってやつですよね」
「そうそう、じゃぁ続きも知ってるかな」
「続きがあるんですか」
「実は犯人は複数居て、しかも、犯人と目された人物はことごとく行方不明になってしまった……」
「えー、何か不気味ですね……」
「犯人達は今も何処かを彷徨って……。リニアちゃんも夜道には気をつけないと、人形にされてしまうかもしれないよ……」
「怖いこと言わないで下さいよ――」
邸に背を向け、早足に歩いた。
門扉を押し退け、塀を乗り越え、身を乗り出し追いすがる草木から逃れる様に。身に纏わり付く臭気を振り払う様に。
人形の瞳から、逃れる為に――
這い回る蔦は、壁を壊そうとしているのではない。
その内に育つ存在を、辛うじて拘束しているのだ。
悍ましい雛が孵らぬよう、辛うじて殻を繋ぎ止めている……。
笑う様に顔を引きつらせ、男は急ぐ。
また、人形に会う為に……。
「――そう言えば、この間メンバーの子がテレビでその話をして、収録終わってから怒られてましたよ」
「じゃぁ、リニアちゃんもこの後怒られちゃうね」
「それはリアルに怖いです……」
しんとした部屋に、場違いな空々しい笑い声が響いた。
足早に去る男の背へ、人形は呟く。
「急いでね、ダーリン。のろまな男は捨てちゃうわよ……」
積み上げられた男達の屍に座り、人形は嗤う。
「――最近気を使ってるんで、そう言って貰えるとうれしいです」
「何か特別やってる事とかあるの」
「サプリ飲んだり、乳液変えてみたり、マッサージしたり。結構色々やってますよ」
「へぇ、でもそれ見せられると、僕でも何かやってみようかな~、なんて気になっちゃうね」
「ぜひ、やってみて下さいよ。モテ期が来るかもしれないですよ」
空々しい笑い声を響かせ、男は続ける。
「いやぁ、それにしても、リニアちゃんは本当に綺麗な肌をしてるよ――」
2019/08/20:再編集 2019/9/2:誤字脱字等修正 2020/11/30:微修正
2020/12/05:微修正