八
急速に意識を取り戻したフィリナは、めまいと軽い吐き気に見舞われた。
あの日の夢を見たのは、呪われた血の戒めだろうか。
鳥籠にいたはずのフィリナは今、藁の上で横たわっている。手に枷があるのか、上手く動かない。
木の匂いがして、曖昧な思考のまま明るい方へと、緩慢な動作で顔を向けた。
丸太を積んだような壁の真ん中にある窓から、白い光が差していた。砂塵がきらきらと舞っていて、フィリナはぼんやりとそれに見入った。
フィリナが起きたと気づいたのか、レイズが彼女の脇腹に触れた。痛みが戻って来ると、現実が否応なしに襲って来る。
覚醒しかけたフィリナの耳に、突然悲鳴のような叫びが飛び込んできた。
「この不埒者ぉ!リナさまに何をする気ですか!」
聞き覚えのある声に、フィリナはふらつく体を肩で支え、勢いよく起こした。
フィリナの傍らにはレイズ。囲炉裏で何かを焼くロト。芳ばしい匂いを放つ何かを齧っているレカルド。そして、――――太い柱に縄で括りつけられた、チリル。
そのチリルの横には、動物の毛皮と骨が捨て置かれいて、フィリナは背筋を凍らせた。
「チリル……?なぜここに」
「リナさまを捜していたら、いつの間にかこんなことに」
チリルはじたばたと暴れて、どうにか縄から脱け出そうと奮闘している。腕が胴体と一緒に縛られているので、足しか自由がない。座った状態のまま、踵で木の床を蹴ってもがく。
「忠誠心半端ないよな。ずっとリナさまリナさま叫んでて、食い物も拒否するし」
よく焼けた動物の肉にロトがかぶりつき、チリルがごくりと喉を鳴らした。それからはっとして、首を振る。
考えてることが手に取るようにわかり、怯えていないようなので、フィリナは一時胸を撫で下ろした。
「敵の施しなど受けません!」
毅然と突っぱねるチリルに、レイズが木の串に刺さった、こんがりきつね色の肉を差し出す。湯気の立つそれを前に、チリルの瞳は葛藤で揺れていた。
「チリル。食べなさい。――――それと、その子の縄をほどいてあげて」
レイズは小首を傾げてフィリナを見つめる。
彼の無言の要求に、フィリナは従った。
「お願いします」
頭を下げると、チリルがこぼれそうなほど大きく目を見開いた。フィリナが頭を垂れたことなど、なかったからだ。
ロトがレカルドに目で問い、いいぞと言われるとチリルの縄をほどいた。
その瞬間、チリルは肉になど目もくれず、フィリナの元へと転がるように走ってきた。
彼女の後ろ手にされた手枷を外そうと力任せに引っ張る。
だがそれはびくともせず、彼らをきっと睨みつけた。
いくらそんな態度を取っても、欠片ほども相手にはされていない。
レカルドとロトの二人は、黙々と肉を食み続けていた。
目を剥いているチリルへと、レイズがやや強引に肉を押しつけた。両手を自由にしたくて、邪魔な肉を与えたようにも見える。
彼は微笑みながら、拳二つ分ほどの大きさの包みを、フィリナの前へと差し出した。
彼女によく見えるように、布に包まれた塊の、結び目を丁寧に解いていく。中からは、赤く熟れた木苺がころころと溢れ出してきた。
その一粒を摘まむとフィリナの口元へと寄せた。
「さぁ、君も餌の時間だ」
にこりとしたレイズに、茫然と肉を持つチリルが、みるみると顔を紅潮させて叫んだ。
「なっ、リっ、リナさまに何てことを言うんですか!」
チリルの激昂に一瞥もくれないレイズはフィリナだけを見つめている。なので、フィリナは唇を開けて木苺を食べた。
彼が望んでいるのはこういうことだろう。
甘酸っぱい木苺のせいで、昨日のことを思い出してしまい、頬が勝手に染まっていく。
目を逸らして誤魔化しても、レイズにはお見通しのようだ。その端麗な笑みが深まった。
そんな二人に、チリルが魂を抜かして固まってしまい、ロトとレカルドに笑われている。
レイズはフィリナに給餌しながら、チリルに教え聞かせた。
「見ての通りこういう関係だから、君の出る幕はないよ」
「こ、こここういうって……どういう……」
「……さぁね」
思わせ振りなレイズに、チリルが殴られたように沈没した。
「チリルをからかわないで。――――私のことも」
「つい、ね」
レイズは唇に指の節を当てて、くすりと苦笑した。
「何がつい、だよ。いつもじゃねーか」
「小動物苛めんのがこいつの趣味みたいなもんだからな。俺も散々苛められたぞ」
「嘘つけ、おっさん」
レカルドが、がははっと笑い、ロトの言葉はその声に掻き消された。彼は髪をくしゃりと掴んで、レカルドを睨めつける。
「あ、あの……リナさまは人質なんじゃ……?」
「駆け落ちかもね」
レイズのさらりとした返答に、今度こそチリルが本気で崩れ落ちた。
「駆け落ちねぇ?確かにその子、逃げないし?」
ロトに含みのある物言いに、フィリナはまつげを伏せた。このまま彼らを利用し、逃げられるならと、甘い考えを抱いたことは確かだ。
だが、彼らを信用したわけではない。
いつフィリナを邪魔に思い、殺そうとするかわからない以上、従わなければ。今はチリルもいることだし、無謀な賭けには出ない。
そうやってフィリナは、彼らから逃げない理由を取り繕う。
「そろそろ移動するか。兵が見当違いなとこへ行ってる間に、少しでも遠くに逃げないとな。ちびがいるお陰で巧いこと家族が装えるぞ」
「ちなみに配役は?」
胡散臭げにロトが尋ね、レカルドは思案顔で無精髭をさする。
そして順に指を差していった。
「娘一とその婿。娘二。婿の弟。そして俺が一家の主だ」
「いやいや、何で娘がいいんだよ。しかも二人も。だったら息子二人でいいじゃん。ものすごく不本意だけどさ……」
ロトが苦渋に満ちた顔で言うと、レカルドが大袈裟に口を手で覆った。そしてわざとらしく目を潤ませる。
「おまえッ……そんなに俺のことを父として慕っていたのかッ……!」
「はぁ〜?誰が父親だよ」
「ロトは息子で決定かな」
レイズが適当にレカルドを煽った。
「息子よーー!!」
感極まった体のレカルドがロトに抱きつき、悲鳴が轟いた。
「ギャーー!レイズ、ちょっ、助け……!おい、ふざけんなよ、クソジジイ!!」
鳥肌で震え上がるロトを、レイズは微笑ましそうにながめている。
ロトが必死に腕を伸ばしているが、助ける気は微塵もないようだ。
フィリナは何となくだが、彼がどこか遠くを見ている気がして、目が離せなかった。楽しかった過去を思い出し、懐かしんでいるように見えた。
「……何なんですか、この人たち」
チリルがぽつりとつぶやき、フィリナは首を傾げた。
それはフィリナが一番知りたいと思っていたことだった。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
兵はこぞって西の街道から国境付近へと配備された。グロッツは検問を強化し、短期決戦でいくつもりなのだろう。
レガートは東国方面へと続く山道を抜け、ここまで休みなく走らせていた馬を下りた。
上流から緩やかに流れくる沢を眼下に臨み、そこで水分補給をすることに決めた。
水を飲む馬を労いながら撫でていると、遅れてもう一頭が姿を現した。
「エヴィル、少し休もう」
うなづいたエヴィルは馬から下りると、水袋に沢の水を汲み始めた。
旅などしたことがないはずなのに、やけに手馴れている。
不思議に思いながらまじまじと見つめていると、エヴィルが怪訝そうに振り返った。
「どうした?」
「いや、……何で私と来る気になったんだ?てっきり一人で行動すると思ってたんだが」
沢の縁に生えた草の上に腰を下ろし、エヴィルはさらさらと音をたて流れる水面に目を落として言った。
「闇雲に捜すことに、労力を使いたくない。レガートかレイチェルなら、選択するまでもなかった」
自分勝ってな叔母言動を思い返し、レガートはさもありなんと苦笑した。
「それに」
一度言葉を区切り、エヴィルの黒い瞳がレガートを射貫いた。後ろ暗い部分を見抜くような、真っ直ぐな目だ。
「フィリナの死体が出ていない以上、生きてる可能性がある。――――レガート。混乱に乗じてあいつを逃がそうとしてないか」
エヴィルの、どこか呆れているような口調に、レガートは努めて平静を装った。
「そんなことは考えてもみなかったな。とにかく生きていて欲しい、それだけだよ」
「…………。前から思ってたが、……いや、やっぱりいい」
エヴィルが聞くに耐えないとばかりに手を振り、言及を自ら止めた。
口に出すことを嫌ったのかもしれない。
レガートは内心安堵していた。
一度咳払いをして、話を戻す。
「リナの安否はまだ不確かだが、逃亡中の罪人は東に向かっているはずだ。西と東はいわば同盟国。互いに中央に対して罪人の引き渡しを拒否する協定を結んでいるから、西の罪人だとしても、東に入れば守られる」
「いいのか?兵は西に向かっているんだろう」
「兵はリナを傷つけない保証がない。罪人を油断させるために、一役買って貰うつもりだ」
人のよい笑みで腹黒いことをさらりと言ってのけたレガートに、エヴィルが処置なしとため息を吐いた。
気にせず、レガートは続ける。
「東に行くのならこの山道を使うと思う。街道だと人目があり、海路だと早いが逃げ場がない」
街道は、陸路では東国に一番速く辿り着ける道ではあるが、それ故に難点も多い。その一つにフィリナのことがある。
都に近い街をほど、処刑を見たことがある人の割合が多くなる。フィリナの顔を知る人が、いないとも限らないのだ。
もちろんそれは、フィリナが生きていると仮定しての話だが。
レイチェルはこの街道を、保守派の数人を引き連れ一足先に東へと向かっていた。
あの叔母は迷うことなく街道を選んだ。面倒な山道や、船酔いのつきまとう海路を避けただけだが、妙な運の持ち主なので、フィリナを逸早く見つける可能性もある。
レイチェルがフィリナを傷つけることはないだろう。その点にだけ、信用を置いている。
性格に難があるだけで、フィリナを嫌っている訳ではない。自分が一番なだけで、基本的に悪気がなく失言するだけだ。
「この先には村が点在しているらしいが、田舎なら顔は知られていないだろう。それと……死体を埋めるのには事欠かない」
この山道ならば舗装された街道と違い、深く土を掘れば、何を埋めてもすぐに見つかることはないだろう。
「スコップでも持ってくればよかったか?」
冗談なのかわかりずらいエヴィルの言葉に、レガートは反応に困った。彼はフィリナが死んでいることを願っているのだろうか。
フィリナではなく罪人を追う彼の、腰に帯かれた大剣がふと目に止まった。一人一人違うそれは、代々受け継がれてきたものだ。
痩身のエヴィルに誂えたような細長い刀身を持つ大剣は、もとはルゥナのものだった。
首を刎ねるのには、相応しくないほど、華奢な刀。
それはもうエヴィルと一体となり、調和している。
おそらくレガートの久方ぶりに持った大剣もだ。
手にすれば、自然と馴染む。
「私たちは大剣以外、似合わないだろう」
この刀は、罪人を裁く時にしか抜くことはない。 例え、他の何かが襲って来ようとも。
エヴィルが柄に触れ、微苦笑した。
馬たちが仲良く水を飲み終え、今は草を食んでいる。こんな長閑な風景は、絵の中だけのものだと思っていたほどに、レガートは黒血城に縛られていた。
「リナも、この道を通ったんだろうか……」
エヴィルの訝しむような視線に、レガートは何でもないと首を振った。
「外の景色は明るいものだなと思っただけだよ」
「あの街が、暗すぎるだけだ」
ぽつりとエヴィルがつぶやいた。言われてみれば、その通りな気がした。
「レガートは自分のことを構え。あんな、出来損ないのことじゃなく」
「ありがとう。だが、……なぜそこまでリナを嫌うんだ?」
これまで聞こうとしなかった疑問が口をついた。それにエヴィルが答えることはなかった。
儚く消え入りそうな表情で、ここにはない誰かを見つめている。――――ルゥナを。
「……ルナが、リナを愛してたからか?」
ふ、と真顔になったエヴィルがレガートを向く。それから笑止がるように、声を殺し言った。
「あいつが愛してたのは、あいつの正義だけだ」
もう話は終わりだとばかりに、エヴィルは馬の様子をうかがいにレガートへと背を向けた。ささやかな、拒絶だ。
レガートは己の失言を悔いて、情けなく額を覆った。
禁句だったルゥナの名を、軽々しく出してしまうとは。
「……ルナは、リナもエヴィルのことも、愛していただろう」
それとも、彼女の表面しか目にしていなかったのだろうか。
あの凛と高潔であった従妹の瞳には、強さ以外に何が宿っていたのか。
フィリナだけでなく、エヴィルの心も救われればと、レガートはそっと、澄んだ青空へと願い捧げた。