七・あの日
花冷えのする夜だった。
夕食時になってもルゥナの姿が見当たらないと、城内に不穏な空気が漂っていた。
一族総出で、思い当たるところはくまなく捜し回った。フィリナ以外は皆、黒血城の外へと捜索に出掛けている。
一度帰城したレガートに、フィリナは泣き出しそうになるのを堪えて駆け寄った。
「兄さま、どこにもいません……」
フィリナは蒼白な顔で、縋るように報告をした。
帰りが遅くなるときは前もって誰かに知らせておく、ルゥナらしくない。
真面目で規則正しく、生業を粛々と受け入れ誇りを持つ彼女が、無責任に家族を心配させるはずなどなかった。
フィリナの胸の内を支配するように立ち込めた、黒い霧。思い過ごしだと振り払っても、その手に絡みつき不安を増長させる。
フィリナは悄然と立ち竦み、きつく瞼を閉じた。
目尻から溢れ出た涙が、顎を伝って床へと落ちる。
大丈夫だ、と言ってレガートがフィリナを抱き寄せた。
苦痛に歪む顔を晒して、これ以上に恐怖を植えつけないためにだ。
背をあやすようにさする手から、必死に押し殺そうとした動揺が伝わってくる。
レガートも怯えているのだ。――――失うことを。
「全員で森から都まで捜しているから、フィリナはもう休みなさい」
「兄さまは?私も兄さまと一緒に捜しに行くわ」
レガートの冷えた上着を握り締め、哀願するようにすがりついた。
一人だけ置いていかれるのは嫌だった。
ルゥナに、会いたかった。
最近は言い争ってばかりだったから、謝らないといけない。
ごめんなさいと言って、また話し合わないと。
レガートはフィリナの肩を優しく、だが断固とした意思を持って引き剥がすと、はっきりと首を左右に振った。
フィリナが足手まといだとは、口にはしない。
彼の気遣いがわかるからこそ、これ以上足止めさせるわけにはなかった。
フィリナは名残惜しくその身を離して仰ぐ、とレガートはもう一度だけ背を撫で、
「すぐに帰って来るから。……ルゥナを連れて」
そう言い残して、行ってしまった。
彼の強張った後ろ姿を見送り、フィリナはぽつんと立ち尽くした。
この城に、誰もいなくなったのは、いつぶりだろうか。
忙しなく働く女中たちも、今はルゥナの捜索に出ている。
広い孤独にただ一人。部屋で膝を抱えても、きっと眠れない。
フィリナはとろとろと回廊を歩き回った。
新月で道しるべがなく、どこも夜に覆われて暗澹としている。
どれほど時が過ぎたのか、涙の跡が乾ききった頃。 辿り着いた先で、ルゥナのピアノがフィリナとそっくりな、置いてきぼりの顔で沈黙していた。
フィリナが勝手に触ると、いつも怒られた。
だから、その鍵盤へと指を置いた。
とん、と白鍵を押すと、掠れた鈍い音がした。
強く押し返すと、今度は耳障りな音を立てた。
ルゥナの奏でる繊細な音色は、どこにも見当たらなかった。
これを聴けば、怒りながら帰って来るだろうか。
フィリナは肘を張り、両手を鍵盤に置くと一気に体重をかけた。
ピアノは悲痛な叫びをあげた。残響がフィリナの胸を裂く。ルゥナに届けと、何度も叩く。
ルゥナが弾く夜想曲も小夜曲も、もう聴けない。
あの凄烈な苦しみを秘めた鎮魂曲も、このピアノは鳴らさない。
ぽた、と鍵盤を涙が濡らす。唐突に、ルゥナを失った気配がした。
「もう、帰ってこないのね……?ルナ……姉さま……」
虫の知らせは、哀しみの調べだった。
鎮魂曲が風に乗せられれ、黒血城へと流れ着く。
ルゥナが歌っているようなその響きに、フィリナは身を翻し、広間を飛び出した。
音に導かれ、森を駆ける。ルゥナの元へと躓きながら走った。
誰一人としてルゥナの名を呼ばない表の森が告げている。ルゥナはもう……。
黒々とした木々の頭に、十字架が見えてきた。
何十年も昔に朽ちた、神のいない廃屋。裏手には、カメリア家の墓地がある、教会。
その小さな教会の扉に、手をかけた。ぎぃぃ、と断末魔の声をあげ、扉を押し開く。
蜘蛛の巣がはられた天井の隅、床に広がる水溜まり、割れたステンドグラス。そんなものはフィリナの目には止まらなかった。
ひそりと置かれたピアノだけが、フィリナの視界を占めている。
鍵盤のふたをゆっくりと下ろす人物に、駆け寄りかけた。だが、踵が浮かせた瞬間、幻が散り散りとなって儚く消え失せた。
彼は、ルゥナではない。
黒い髪の長さが違う。表情が、違う。
エヴィルはピアノに陰を落としたまま、フィリナを見ず言った。
「処刑場にいる」
初めて、エヴィルに声をかけられた。そう思ってしまうほど、彼はフィリナに無関心だった。
一度だけ、殴られたことがある。その記憶だけは鮮明に残っていた。
短い言葉だった。それだけでフィリナは、全てを理解した。
青ざめて、よろめいたフィリナを支えることなく、エヴィルは何の反応もせず、擦れ違う。
閉まりかけた扉の隙間から、後を追うように滑り出た。
音色が途切れた森を、エヴィルから数歩遅れてつき従う。
エヴィルの歩調は速く、フィリナはついて行くのがやっとだった。暗い森を歩きなれた、フィリナがだ。
エヴィルは処刑場だけを見据えて、黙って歩いていく。
彼の背からは、言い知れないほどの憎しみが渦を巻いて、纏わりついて見えた。
フィリナにとってのルゥナは、半分血の繋がった姉。だけど、エヴィルにとってのルゥナは、双子の片割れだった。
結びつきが、まるで違う。
彼は半身を、失ったのだ。エヴィルの、ルゥナを。
「フィリナ」
処刑場の少し手前で、振り返らずにエヴィルが呼んだ。間違いなく、初めてのことだった。
「目を逸らすな。――――絶対に」
強い口調だった。ここでうなづかなければ、兄も失ってしまう。一族の人間が皆してフィリナを遠ざけた中、彼はここまで連れてきた。
ルゥナの妹として、知るべきと判断したからだ。
恐い、と逃げたら、今度こそ兄妹の縁は途切れてしまう。
目を逸らしたくなる光景を、受け入れる覚悟など持っているはずがなかった。
だけどもフィリナは、「はい」と答えた。
ルゥナに会わないと、後悔する。
フィリナは、再び歩みを進めたエヴィルに続いた。
見えてきたのは規制線だ。広場は封鎖されていた。
夜だというのに、ちらほら人の姿がある。
好奇心で寄って来た人は規制線に阻まれ、警備の兵士に何があったのかしつこく尋ねている。だが彼らの口は固く、何一つ答えることはなかった。
不満をもらす人の声を背に、エヴィルが規制線を潜った。
兵士はエヴィルの顔を知ってか、咎めることはなかった。
フィリナも規制線を潜り抜ける。
ルゥナを追いかけているような、不思議な感覚だった。エヴィルの隣にはいつもルゥナがいて、それは永遠と揺るがないと、思い込んでいたからかもしれない。
そして、エヴィルが足を止めた。
フィリナは彼の背に隠れた位置で、ぶつからないように踏みとどまった。
兵士と一族の人間が慌ただしく行き交い、篝火のある方から、激しい怒鳴り声がしている。
彼らは気づいていない。エヴィルの陰にいるフィリナのことに。
エヴィルがフィリナを連れていたことなど、一度たりともなかったのだから。
エヴィルの存在にも構っていられないほど、いい争いが続いている。
フィリナは顔を上げた。断頭台はエヴィルで見えない。
その背から、そっと抜け出した。兄の横に並び立ち、その視線の先を、追った。
宙をゆらゆらと、黒く長い髪が靡いている。月のない夜の下で、風に弄ばれては、台の端から垂れ下がる。
断頭台の上に、ルゥナがいた。――――ルゥナだったものが、あった。
ルゥナの頭部が無造作に、転がっていた。
倒れているだけ、そう脳が拒絶する。
蠢く髪の隙間から、かすかに青白い横顔が現れた。 べっとりとついた血糊が、顎から下に髪を張りつけている。
フィリナは必死で吐き気と戦った。口を両手で押さえつけ、逆流する胃液を押し戻す。
足元がふらつき、目が翳む。膨れ上がった涙の粒が決壊し、ついには視界がぼやけた。
フィリナは目を逸らしかけた。
そのとき、頭を掴まれた。容赦なく髪が握られ、上を向かされる。
フィリナはルゥナから逃れられずに、声にならない悲鳴をもらした。
震える体は乱暴に引きずられる。髪は千切れ、頭皮を生ぬるい滴が伝う。
抗ってもエヴィルは許してはくれず、断頭台の階段下までを、自分の足で歩かされた。
フィリナは泣きながら階段に足をかけた。髪が上から引っ張られる。強い力で、引き上げられる。
これまでも、これからも登るはずのななかった階段を、首を振りながら無理矢理上がらされていく。
最後の段を踏み越えて、エヴィルが言った。
「ルナの最期の姿をきちんと見ろ。そして、今度こそ自覚しろ。自分が死刑執行人であることを」
髪を掴まれたまま、断頭台の上に散らばる一つ一つを、その緑翠の瞳に映した。
囚人椅子に座るルゥナの体。首から上は空虚なのに、まっすぐ前を見つめているようだった。
黒い服は無惨に裂かれ、赤黒く血で染まっている。 その切りつけられた腹へと、無数の蝿が羽音を立てて、たかっていた。
まざまざと見せつけられた光景に、フィリナはその場で崩れ落ちるように膝をついて吐いた。
ぐ、おぇ、と迫り上がったものを、涙とともにこぼした。
こんなこと、耐えられるはずがない。
ルゥナはずっと、血に濡れ続けて来たのだ。
最期にその血を、自らの血を、差し出さなければならないほど、罪深いのか。
この血が呪われていなければ、姉はこんな残虐に殺されることはなかったのに。
手をついた傍らに、腕があった。フィリナを叩き、撫で、ピアノを弾き、人を殺め、祈る――――手。
「ーーーーっ、あぁぁあぁぁぁぁぁッーー!!」
フィリナの迸る絶叫に、一族の者たちが異変を察し、断頭台へと目を走らせた。
「――――リナッ!」
レガートが血相を変えて叫び、断頭台へと逸早く駆け出した。
エヴィルは構うことなく、フィリナの胸ぐらを掴み、引き起こす。間近で見つめた兄の顔は、涙で歪んでルゥナに見えた。
愛する姉は、兄の中でまだ、生きている。
心さえ逃げることは許さないと、フィリナは思いきり殴りつけられて、床板に体を打ちつけた。
「エヴィル!なぜリナを連れて来たんだ!」
レガートはフィリナを助け起こすと、激情のまま責め立てた。
エヴィルは反対に、冷たく静かな口調でフィリナに告げた。
「ルナの仇はおまえが取れ。その手で、――――殺せ」
フィリナはレガートの腕に収まったまま、茫然とエヴィルを仰いだ。一瞬、ほんの刹那、その言葉が胸の内で甘美な響きを持った。体のずっと奥底で、血が沸き上がろうと燻っている。
「エヴィル!いい加減にしろ!!」
レガートの声は本当に、エヴィルには聞こえていなかった。
妹しか目にせず、妹にしか語りかけない。
「ルナを姉と思うなら、それを証明してやれ。――――逃げるなら、俺がおまえを殺す……兄として」
不思議と、慈悲の言葉に聞こえた。姉と兄。ようやく兄妹が一つに繋がった。姉はバラバラで死んでいて、兄は妹を殺そうとしているのに。
レガートに守られていた少女は、膝で一歩踏み出した。
ルゥナの服はズタズタにされているが、黒く艶やかな編み上げ靴は、血を踏み締めて、てらてらと光っている。
姉が歩いて来た道を、変わりに行こう。
ルゥナから靴を脱がせて、フィリナも自分の靴を脱いだ。そしてルゥナの細くて重たい足に、白く、血ではなく泥に汚れた靴をそっと履かせた。
白い靴でなら、天国に行けるだろうか。
ぽた、と涙がこぼれて血液の海に混じる。
フィリナは編み上げ靴に、ぐいっと足を捩じ込んだ。
いつの間にか、大きさがぴったりになっていた。
「リナ……?」
レガートの声は、フィリナにも届かない。
ルゥナの代わりに、地獄を歩こう。
それでも、間違っていると言い続ける。死刑執行人は人殺しだと、思い続ける。
仇を取ると言ったら、ルゥナは喜んでくれるだろうか。
きっと、微笑んで頭をなでてくれる。
自慢の妹だと、褒めてくれる。
同時に、自分を殺すことになったとしても――――。
遠い昔に約束をした、友達との誓いを破ってでも――――。
ルゥナのために殺し、フィリナを殺す。感情を、殺す。心を、殺す。
そうして一族は、一人を失い、一人を得た。
エヴィルはもう、フィリナには何も言わず、ルゥナの頭を抱き上げた。愛しむように、そっと。
ルゥナの耳元で、エヴィルの唇が、声には出さずにかすかに動いた。
別れの言葉だと、勝手に思った。
変わり果てたルゥナは、フィリナだけでなくエヴィルをも変えてしまった。フィリナは自らを戒めるように傷つけ、エヴィルは罪人を必要以上に傷つける。
一度は繋がった絆は、同じ憎しみから道を違えた。
フィリナは最後に、泣いた。――――自分のために。