六
レイズの腕の中に、青い鳥がずるりと体を滑らせ堕ちてきた。
すぅ、と眠るフィリナの額に唇を寄せてから、そっと鳥籠の床へと横たえた。
「落ちたか?」
レカルドのにやけ面を見ることなく、レイズはフィリナの顔にかかる髪を恭しく払い除けた。
憂いが霧消した寝顔は、幼子のようにあどけない。ごく薄く開いた唇からは規則正しい吐息がこぼれていて、服装とあいまってしどけなく映った。
「というか、眠らすにしてもパンに薬混ぜりゃいいのに、何で口移し?レイズこういうのが好みなわけ?」
ロトがくたりと横たわるフィリナを一瞥して、レイズに問う。
「パンだと味でバレる可能性があるからね。それにこの子、キスとかしたことなさそうだったから」
唇が触れたときの茫然とした表情を思い出して、レイズはくつくつと笑った。
本当に初めてならばいいのに、と陶酔したようなつぶやきを間にもらす。
「……変態」
ロトのささやかな暴言に苦笑してから、レイズは鳥籠の鉄格子に背をもたれて、彼らに真面目な顔を向けた。
「で、レイズよ。どうだった?」
レカルドがあぐらで腕組みをしながら尋ねた。
「予想通りすぎて、わざわざ捕まったかいはなかったかな」
「酔狂なやつだな、本当。そのまま殺されてたら笑えないからな。わかってんのかよ?」
ぶつくさと文句を言うロトだが、レイズを心配していたんだと言外に告げていた。
その、レイズを殺すはずだったフィリナは、鳥籠に囚われ夢の中だ。
その可笑しさに堪えて振り返り、フィリナの白く細い首筋を目に据える。
今フィリナを殺すことは、赤子の手を捻るより簡単だろう。
「……なぜか捕まった時点で断頭台行きだったからね。寝返ったとしてもどうだったか。――――先の戦で捕虜になった兵士は一人残らず死刑執行人に首を切られてる。いくら返還要求しても返ってこないわけだ。返す兵なんていないんだから」
捕虜を殺すことは国際法に抵触する。
だが戦時中は平気で互いに殺しあうのに、いざ休戦をしたら人一人殺すのにも死刑執行人を利用しなくてはならない。
馬鹿げた話である。
中央国で戦を扇動した男も、国を怨みながら処刑された。自国の大将さえ、切り捨てる国だ。
捕虜など虫けらにしか思っていないのだろう。
西国もそのことを理解した上で、三年以上経った今事実確認させるのは、同盟国である東国で密かに動きがあるからに他ならない。
のらりくらりと躱している中央国の鼻を明かそうと、西と東の水面下で交渉が進んでいる。
一諜報員で、それを知り得ているのは――――、
「レイズ?」
ロトに呼ばれて、レイズは顔を上げた。
いつもの微笑みを浮かべて続きを話す。
「監獄まで行くつもりだったけど、風向きが変わったようだ」
「だから慌てて助けに言ったんだろうが。おまえ、俺がいなけりゃ死んでたぞ」
レカルドが手柄を誇るように鼻を鳴らした。
確かに死んでいただろう。レイズが信用している仲間は彼らぐらいだ。
「中央に寝返ったやつがいるってこと?」
「おそらくね。男好きで手荒い兵をつけるぐらい、嫌われてるようだ」
「それは偶然だから。もしくは――――」
ただの嫌がらせか。
レイズは情けなく肩をすくめた。
それでも脱走は予測出来たとしても、人質を取ることまでは考えてもなかっただろう。
しかしレイズは敵の動向が笑えるほど読めていた。
フィリナが牢へ来ることから、全て。
「偽名を使ってたけど、それもバレてるだろうね」
「名前なんてただの記号じゃん。素性知られてないなら問題なくない?」
「まぁね」
レイズという名前も本名ではないが、レカルドとロトも似たり寄ったりのはずだ。
信用してないというわけではなく、呼び名など自分が呼ばれているとわかれば、何でもいいと思っているからだ。
嫌っているくせに、カメリアを名乗るフィリナとは正反対である。
「それで?いつまでここで隠れてるわけ?」
「レイズの怪我があるからな、一晩はいたいところだな」
「……一晩じゃメヒは落ちねーからな」
「積み重ねが大事なんだ。今日がだめでも、明日がある」
「いや、明日も変わらないから。顔も性格も図体もそのままだから」
レカルドとロトの掛け合いに、レイズは口を挟まず、聞き手に徹していた。
兵は西に向かったようだが、すぐに間違いに気づくはずだ。そこまで愚かしくはないだろう。
ならば、早めにここを出るのが得策だが――――。
ふと、レイズは外とを隔てる壁へと視線を投げた。
遠いが、かすかに馬の蹄が地面を鳴らす。
一つではなく、複数。
「やられた」
ロトが眉を潜め、何が、と聞いた。
レイズは笑いだしそうなのを何とか堪えて、彼らに伝える。
「メヒに売られた」
瞠目する二人からそっと目を逸らして、フィリナを見遣った。
この青い鳥を、どうしようか。
白の死刑執行人は青い鳥になり、次は何になるのだろうか。
レイズはくすりと笑い、その柔らかな頬をつついた。
◆◇◆◇◆◇
花街はその名の通り、華やかで賑々しい。だけど、不思議とくたびれて見えた。
チリルは鯉の群れの中に迷い込んだ金魚のごとく、目を回してふらふらと彷徨い泳いでいた。
勢いで来たはいいものの、次の行動が決められずおろおろとするばかりだ。
気だるげな派手な女も、不快な笑みの男も、チリルが気軽に話かけられる雰囲気ではなかった。
それどころか、黒血城では向けられたことのない、あらゆる淀んだ視線を注がれる。
本当にこんなところに、フィリナはいるのだろうか。
どこの店も、未成年者お断りの札が立てかけられていて、チリルは一人途方に暮れた。
何も言わず飛び出して来たことを思い返し、せめて先輩たちに書置きを残しておけばよかったと遅まきながら反省をした。チリルがいないことに気がついたら、きっと心配して捜し回る。
フィリナを追ったと知れば、怒りを通り越して呆れるだろう。
無謀な行動だったのだろうか。
簡単にフィリナと会えるとは思っていなかったが、行き詰まりを感じ、チリルはしゅんと肩を落とした。
間諜や密偵とは、どんな人たちなのか。
あてもなく歩き回り、ひとつ向こうの通りに出ようとひっそりと暗い横路に折れたとき――――、
「ひぁっ……!」
出会い頭に何かとぶつかり、弾き飛ばされた。
言葉通りに、二、三歩は後ろへ思いきり尻餅をつく。
「おっと、大丈夫か?」
かなり上の方から声をかけられ、チリルは痛みを押して振り仰いだ。
そこにいたのは熊より大きな男で、その圧迫感にあんぐりと口を開けっぱなしにして凍りついた。
人間なのだろうか。
もしかしたらこのまま食べられるんじゃないか。
チリルは牙が生えていないかと、口回りを凝視した。
歯は、至って普通のようだ。
「何してんだよ、おっさん。急いでんのに」
大熊男の後ろから、若い男が小声で怒りながら顔を覗かせた。
フィリナくらいの年頃だろうか。彼は大熊男と同じく、顔が隠れるほどのフードを被っている。
するともう一人、その背後から出てきて、チリルは一体何人出てくるのか、と興味深く首を傾げた。
最後に出てきた男は若い男より二つか三つ年上に見えたが、もしかしたらもう少しだけ上かもしれない。
彼はチリルを見下ろし、ふっと笑んだ。
美しい微笑に、少しだけ慄いた。
固まっていたチリルに若い男が手を差し出し、それを素直に取って引き上げて貰うと、彼は気遣うように尋ねた。
「怪我ないか?」
チリルは頭を振ってから、服の汚れをはたいた。
本当はお尻が痛かったが、それを言うのは憚られた。不注意だったチリルにも、責任の半分はある。
そして何より、恥ずかしい。
異様な雰囲気の三人だが、花街に訪れてからすれ違った人たちの中では、一番まともそうに見える。
なのでチリルは彼らに尋ねてみることにした。
「すみません。密偵さんか間諜さんを知りませんか?」
チリルの質問に、三人は時が止まったかのように、息を詰めた。
それから誰からともなく顔を見合せて、目配せをし合うと、微苦笑する男が口を開いた。
「どんな用があるのかな?」
「お仕えしているお嬢様を探してるいるんです」
若い男が、ちらっと大熊男の背中に目を向けた。
その背は確かに、不自然に膨らんでいる。
まるで、人でも背負っているかのようだ。
「そのお嬢様の名前は?」
話に引き戻されて、チリルは慌てて答えた。
フィリナお嬢様だと。
するとなぜか、彼はチリルの頭に手を乗せた。
驚き瞬く間に、もう片方の手のひらが首を扼するように掴んだ。
ぞくりと悪寒が全身を駆ける。よくないことが、起きている。
男の、ごめんねという囁きに、恐怖を覚えた。
逃げなくては、と思い至ったときにはすでに遅く、チリルの意識は霞み、遠退いていった。