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執行人の逃亡  作者: 名紗すいか
前編
6/40



「うふっ、上弦の月だわ」


 メヒは星が霞む夜空を仰いで、くすりと笑った。

 この街で月を愛でているのはおそらく自分だけだと自惚れてみる。


 男が女と愛を求めるように、女が金と自由を求めるように、メヒは月へと身を乗り出してそっと指で触れてみる。

 風の柔らかな感触に、毎度苦笑するとしても。


 欲しいものは手に入らないから美しい。


 鳥籠の青い鳥も、すぐに空へと飛び立ってしまうのだろう。


 でも、それでいい。


 手中で輝くものなどありはしないのだから。




 風向きが、ふいに変わった。


 花を冠する街にはふさわしくない男が数人。


 二階の窓から頬杖を突き、気まぐれな猫のように目を細めた。


「さぁて、ネズミはどちらかしら」


 うふふ、と心から可笑しそうに、唇で紅い弧を描いた。




◆◇◆◇◆◇



 鳥籠のフィリナは心許ない胸元と、ほとんど曝け出したことのない白磁の太腿を気にしながら座っていた。

 肌寒い季節ではないが、鳥籠の床は大理石でひんやり冷たい。


 メヒが持ってきた服は袖がなく、身じろぎすると谷間が見えそうなほどずり下がる。だが、引き上げると今度は腿が露出するという欠陥品だった。

 左肩からは包帯を巻き、椿の花は巧みに隠されている。袖がなくても、多少は安心できる。

 手のひらで胸と足を庇っていると、隠し部屋を出ていたレカルドが、小麦色のパンを三つ抱えて帰って来た。

 そのパンはそれぞれ、ロトへと放られ、レイズへと放られた。

 元々三つしかなかったのか、三つしか必要なかったのか。


 思い返せば朝から何も食べておらず、腹の虫は鳴くことも諦めたようにうんともすんとも言わなかった。

 フィリナは物乞いするほど自分を貶めはしなかったが、じっと見つめはした。

 良心に訴えかけるとすればロトだ。

 パンに齧りつこうとしていた彼は、フィリナの密やかな視線に動きを止めた。パンを一旦口から離し、眉を寄せて髪をかく。

 ロトが渋々パンを半分に割ろうしたところで、レイズの声が彼を押し止めた。


「欲しいなら欲しいって言わないと……ね」


 レイズは鳥籠のフィリナの正面で屈むとパンを小さく、一口よりもさらに小さく千切った。

 そのパン粉とも呼べそうな欠片をフィリナの鼻先にちらつかせる。


 自尊心を悪魔に売り渡すべきか逡巡していると、レイズが「いらないの?」と少し首を傾げた。


「はい、あーん」


 その様子に、ロトがつくづくとながめて言った。


「性格悪すぎ」


「鳥の餌やりなんてこんなものだろう?」


 口元にあるパンを、フィリナは気がつけば食んでいた。彼の指は離れる際に、唇をそっとなぞっていった。

 小麦の味を噛み締めていると、レイズは満足そうに笑んでフィリナを撫でる。


 ロトは呆れ果てて、パンを齧りながらあぐらに頬杖で遠巻きにしてその様子を見ていた。

 逆にレカルドは面白そうだと寄っては来たが、パンを差し出す気配は皆無だった。


 再び千切ったパンを与えられ、その代わりにレイズはフィリナの頭や頬を動物にするようさわさわと撫でていく。

 すっかりと悪魔に飼い馴らされたフィリナだが、これは生存本能だと自らに暗示をかけた。

 こんなところで、死にたくはない。幸せでなくても、生きていたい。


 ――――人殺しなのに。


 ただ、家族やチリルに会いたい。


「そういやぁ、レイズ。おまえ執行人に拷問でも受けたのか?」


 パンを食べ終えたレカルドが屑を払いながら聞くと、レイズはまさか、と笑った。


「兵にちょっと逆らって。まぁ、殴られた方がましかと」


 そんなことがあるのだろうか、とフィリナは甚だ疑問に思う。

 それを耳にしたロトが顔をしかめて言った。


「兵士ってそういう趣味のやつが多いしな。レイズ、性格はアレだけど顔綺麗だし」


「そりゃ殴られた方がましだな。汚されなくて、よかったよかった」


 レカルドの大きな響く笑い声に、フィリナはようやく慣れてきた。

 パンを食べさせてもらうことにも。

 だからだろうか。気が緩み、言葉が口から滑り出た。


「兵の拷問は違法よ。しっかり抗議すべきだわ」


 三人がぽかんとフィリナを見つめ、それからなぜか激しい笑いの渦が起きた。

 笑っているのではなく、笑われていることぐらいフィリナにもわかる。

 嘲りではないようだが。


「子供!子供がいるぞ!」


 レカルドの熊のような手のひら頭を撫でられ、脳が揺れた。子供扱いなのはいいが、本当の子供に同じことをしたら、おそらく首の骨が折れるだろう。


「あの白の死刑執行人は、中身まで白かったって?」


 フィリナは困惑したままつぶやいた。


「白い……って、私が……?」


 呪われた血の人殺しを、なぜ無垢な白と言えるのだろう。


「白いじゃん。兵の拷問ダメ絶対!って」


 そんな標語を言った覚えはない。内容としては、その通りだったが。


「兵はそうだけど、死刑執行人にはその権限があるのに?」


「拷問、したことあるのか……?」


 フィリナはかすかに眉を顰めた。

 そんなことは一度としてしたことはない。どこに器具があるのかさえ、知らないのだ。

 ロトにそう答えようとしたとき、レイズがフィリナの髪を優しく耳へとかけて流した。

 鉄格子に額が触れるほど顔を寄せたレイズは、囁き一つでフィリナを傷つける。


「君は首を切り落とすだけ。――――そうだろう?」


 うなづくことが正しいはずなのに、心がそれを拒絶した。

 拷問をしていたと思われるよりも、人を殺して命を奪うことの方が悪事であると、突きつけられた気がした。

 拷問しないからといって、罪が軽くなるわけではない。罪人にしてみれば死刑執行人は皆、死神だ。


 言葉をなくしたフィリナの顔を、レイズは両手で包み込むと一気に引き寄せた。唇に触れた吐息は、溶けてしまいそうなほど甘い。


「ほら、つけ入られた」


 え、と我に返ったときにはフィリナの唇は塞がれ、否定も肯定もどうでもよくなるほどに飲み込まれていった。



 初めてのキスは、切ないほど、苦かった――――。




◆◇◆◇◆◇


 

 とんとん、と控えめに扉を叩いたチリルは、潔く拳を握り直すと、力いっぱいどんどんと叩きまくった。

 打ち鳴らす音が節をつけ出した頃、その扉が開かれた。


「……誰だい?こんな時間に」


 寝ぼけ眼を擦る寝間着姿の老人は、白髪を爆発させていた。

 ここはチリルが先輩たちに頼まれて買い出しに来る、薬草師の家だ。

 街の薬屋はどこも、黒血城の使いを迎え入れてはくれないのだ。

 カメリア家御用達の薬草師の老人は、右見て左見て、空まで見上げて夜であるということを確認してから、小さなチリルを見下ろした。


「夜だ」


「夜ですね。でも、用があります」


 うん、と一つ老人が深くうなづく。自分と対話しているようだ。

 瞑目して、それからチリルの顔をながめて言った。


「夜はな、寝るものなんだ。チリルはまだ幼いからわからないかもしれないが、夜更かしは肌に」


「肌よりもリナさまです。リナさまが拐われました。その場所に、これが落ちていたんです」


 チリルは歯ごと赤い丸薬を手のひらの上に乗せて、老人へと突き出した。

 チリルの真剣な表情に、老人は渋々首からぶら下げていた丸い眼鏡をかけると、やはり眠そうにそれらを観察し始めた。

 そしてすぐ、あぁと納得して丸薬を指差す。


「これは毒薬だ、毒薬」


 あっさりとした物言いだが、内容が頭に沁みてくると手が震えだした。

 そんな危険なものを持っていたなんてと、おっかなびっくり丸薬を見返す。


「ど、……毒?」


「毒。猛毒だ。この歯のような入れ物にしまって、いざというときに使って自害するんだな。奥歯のとこに仕込んでね。……ほら、よく密偵や間諜がやるやつさ」


 老人は眼鏡を外し、眠たげにあくびをした。


 彼の言う通りならば、これはフィリナを連れ去った罪人の手掛かりになるかもしれない。

 チリルは恐々と、丸薬を元通り歯の中へと収めた。間違っても出てこないように、念入りに確かめて息をつく。


「じゃあ、そういうことでな」


 薄情にも扉を閉めかけた老人に、最後だからともう一つだけ尋ねた。


「これってどこに売ってるんですか?」


「そんなもの知らんよ。花街にでも行って密偵部隊でも探しに……って、おや?」


 チリルは全て聞き終えることなく駆け出した。頭の中は花街一直線だ。



 なので老人が、「行ったところで見つからんよ」という言葉をつぶやいたのだが、もちろんチリルは、知るよしもなかった。




◆◇◆◇◆◇




 ――かっこ小夜中の黒血城。


 月と星を引き立たてる闇黒の樹林が、ざわめく葉音と馬のいななきを運び届けた。

 

 颯爽と帰城したレガートを、ほとんどの一族が出迎えた。たった一人を除き、全員だ。


 彼らはレガートの帰りを待ちわびていた。

 派閥争いはあれど、血は水より濃いのだ。それが呪われた血であったとしても、簡単に断ち切れるものではない。


 レガートは一つ息を吐いてから、凛として皆に告げた。


「帯刀許可が下りた。私を含め、三人」


 玄関から続く広間に、長としての風格漂う宣言が響き渡った。


 真っ先に名乗りを上げたのは、レイチェルだ。


「よくやったわぁ、レガート。あたくしに許可をくれるのでしょう?」


 レイチェルは燦然と目を輝かせて、張った豊かな胸に手を添えている。

 自分以外に適材がいないと自負した主張だ。

 フィリナを心配する様子は微塵もなさそうだが、執行人としての技量はレガートに並ぶ。

 それに保守派の筆頭ともいえる彼女を入れることで、結果はどうあれ争いの芽を事前に摘み取っておく必要はあると判断した。


 自分中心の性格ともうひとつ、気がかりなことがあるのだが、レガートは彼女に向けて薄くうなづいた。


「ではあと一人だが」


 一瞬で皆の視線が交錯し、同じ結論に至ったようで言い淀む。年嵩の者は諦めに似た表情で緩く首を振り、フランはきゅっと眉を寄せていた。

 レガートを含め全員が、この場にいない唯一の人物を思い浮かべている。

 本来なら真っ先にフィリナの安否を気遣うべき、彼を。


 その重々しい空気を、全く読まないレイチェルが、片手の甲をやんわりと腰にあてながら、居丈高に言った。


「エヴィルを呼びなさい。どうせいつものところにいるわよ」


 フィリナのことなど、気にかけずに。


 派閥に属さず一匹狼。


 冷酷非道で罪人をいたぶることだけに尽力し、その残忍さ故に名づけられた――かっこ悪夢の死刑執行人。


 それが世上の噂だった。


 白の死刑執行人と肩を並べる、ただ一人の男――――フィリナの実兄。


 采配としては正しいが、彼が素直に是と言うかという問題が残されている。

 彼がフィリナに声をかけたことなど、片手で数えられるほどしか記憶していないというのに。


 レガートは苦渋に満ちた瞳をさり気なく手で覆い隠し、口元にはレイチェルと似た呆れをにじませた。


「それにしてもよくあのジジィが許可を出したわね。あなたのことだから、そつなく脅したのでしょうけれど」


 いい気味とばかりにレイチェルが嗜虐的に笑む。

 誰も彼に同情などしない。なぜなら一族全員、グロッツが大嫌いだからだ。

 ざまあみろ、という心の声が表情からもれ出している。


 プライドの高いカメリア一族は、グロッツの駒として使われることに本意ではないのだ。


「脅すなんてしていませんよ。それより、――――エヴィルを直々に迎えにいくとしよう」


 レガートが決心し笑みを見せると、ことの成り行きをうかがっていた女中たちがこぞって頬を赤らめた。

 脇を通りすぎて行く彼を、案じるように胸の前で指を組み、見送る。


 彼女たちに手を出して子をなせばと、言いはしないが、一族の者たちは密かにそう思っている。

 そのことを承知の上でレガートは誰も娶らない。


 これはレガートができる、最後の悪あがき。

 カメリア家を存続させないための、抵抗。


 なのに、フィリナを守ることは矛盾しているのではないかと、頭で誰かが囁いた気がした。


 踏み迷う気持ちを打ち捨てて、レガートは歩き慣れた薄闇の回廊を進む。

 血溜まりのような、赤く滴る絨毯を踏み、最奥の間の扉を開けた。


 そこは外界と切り離された、静謐な間だった。


 広々とした室内は、森を臨む一面がガラス張り。その向こう側で、陰のような木々が無音で揺蕩っている。

 吹き抜けの高い天井にはガラス窓が嵌め込まれ、欠けた月が漆黒のピアノと、彼だけを照らし出していた。


 蒼白い光を浴び、ピアノに――――ルゥナのピアノにひっそりと向き合っている彼を。


 ルゥナに合わせた高さの椅子は、調節がそのままだ。少しだけ窮屈そうに座っている彼に、レガートはたまらず苦笑した。


 それでも、ルゥナが今も生きてそこにいると錯覚しそうなほどに、彼らはよく似ている。


 揺らぐことのない黒の瞳も、罪に汚れた白い指先も。


「――――エヴィル」


 レガートが呼び掛けても、彼は見向きもしなかった。黒白の鍵盤に目を落としたまま、静かに佇んでいる。


 ふ、と彼の指が動き、ぽつんと一音弾いた。


 久しぶりにこの部屋で耳にした生の音は、記憶と違う音を鳴らす。


「……調律が必要のようだな」


「……フィリナのことか」


 エヴィルは興味がなさそうに、淡々と聞いた。


「帯刀許可が出た。罪人を狩る。協力して欲しい」


 レガートは命令ではなく、家族として請う。

 だがエヴィルは、感情の読めない横顔で緩慢に首を振る。


「死なせてやった方が、あいつのためなのに」


「リナは妹だろう」


「半分だけだ。妹だからといって温情などかけない。いつも逃げてばかりのあいつに、俺は期待していない。――――初めから」


 エヴィルはそこにいないはずのフィリナと、おそらくルゥナのことも見据えていた。


 フィリナに無関心なエヴィルと、フィリナを構うルゥナ。

 ルゥナが死に、兄妹の溝は永遠に深まった。取り返しのつく時期は、とうの昔に過ぎ去った。

 それでも半分は血の繋がった兄妹。たとえその血が死神の血だったとしてもだ。


「フィリナを助けることが嫌なら、罪人を裁くことを考えろ。利害は一致するんじゃないか?」


「俺が殺すのは処刑場でだけだ。生け捕りにして、俺に尋問させてくれるというなら、行かないこともない」


 エヴィルはまつ毛を伏せ、暗い陰を落とした。

 どこの、何を見つめているのか。

 この従弟の考えを、ルゥナなら理解することができたのだろうか。


 エヴィルが拍子抜けするほどすんなりと、協力してくれると言った理由を、レガートは考えないことにした。その意志だけで重畳としておく。


「わかった。その代わり、フィリナを傷つけることは許さないからな」


 レガートがそれだけはと念押しすると、エヴィルは呆れたように深々とため息をついた。


「どっちが兄かわからん」


 その言い方で幼い頃のエヴィルが蘇り、レガートは懐かしく、少しだけ安堵した。



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