三十八
――――ごほっ。
吐き出した血が、沁みきれずに溜まっていく。
横たわったまま、フィリナは腹部の鈍痛を腕で覆い、さらに膝を折り曲げ縮こまった。
服から伸びた四肢は土がこびりついてはいるが、傷は一つもない。
だが服の下は、真新しい痣で埋め尽くされている。
その痛みの数だけ、フィリナは沈黙を貫いた。
レイズのことは、何一つ口にしなかった。無表情で耐え続けた。
だからだろう、彼らは加減を見誤った。
殺すなと命じられていたはずが、フィリナは今、死の淵で彷徨っている。
もしかしたらもう、死んでいるのかもしれない。
鍵のかけられた小さな響きが下りてきて、朦朧とする意識の中、断片的に兵らが去ったことを知った。
グロッツに判断を仰ぎに行ったのだろうか。それとも、医者でも呼びに行ったのか。
フィリナは肩で大きく息を吸った。
だけど、出た声はとてもかすかだ。
「……レイズ」
抜け穴の暗闇が応えるように揺れた。併せて優しい声が降ってきた。
「気づいてたんだ?」
消し忘れられた蝋燭の明かりが、レイズの姿を捉えた。
彼は鉄格子の前に立つと、フィリナを優しく見下ろした。フィリナの代わりに、苦痛の表情を一瞬だけ浮かべて。
「怒ってる?助けなかったこと」
フィリナはどうにか頭を持ち上げて、首を横に振った。
レイズが助けるために来たのではないと、十分に理解している。
それに、レイズが出て来たところで返り討ちに合うだけだ。
「私も、助けなかったから……」
レイズが牢で殴られている間、やはりフィリナも黙って息を潜めていたのだ。
ちょうど今と、逆の立場だった。
だから、怒ったりはしない。
「動ける?」
「今は……、無理」
「……そう。手を伸ばしても届かないね」
レイズが鉄格子の隙間に腕を入れた。肩がつっかえる限界まで伸ばしても、掠りもしない。それだけの距離が、二人の間に存在していた。
触れたいのに叶わず、切なさがあふれた。
「僕のこと庇ってたね。――――会いたかった?」
「えぇ」
即答すると、レイズは嬉しそうに目を細めて顔をほころばせた。
フィリナも笑顔になれた気になって、心が温まった。
「リナは、僕がどうしてここに来たか、わかってるんだろうね」
フィリナは目を伏せてうなづく。
レイズがあの少年だったときからきっと、こうなることは決まっていたのだ。
フィリナは肘を地に穿ち、泥にまみれてしまった黄色い靴の底で地面を削るようにして這い、少しだけレイズへと近づいた。
だけどまだ、届かない。
「……本来なら君以外の一族は絶えてる予定だったんだけど、……上手くいかなかった。僕も詰めが甘い」
自分自身に呆れているのか、レイズは大袈裟に肩を竦めた。
それから片膝を突き、手のひらを差しのべた。
フィリナは痛みの薄い足と腕で体を引き摺っていき、手を伸ばすと指先が触れ合った。
「君にね、持ってきた物があるんだ」
宙を切りかけたフィリナの手を追いかけて、しっかりと握り締めたレイズは、そのまま力まかせに引き寄せた。
擦れた皮膚が痛みを宿したが、それでも傍へと来れた安堵の方が勝っていた。
レイズはそっとフィリナの手をほどくと、赤く熟れたプラムの実を取り出し、フィリナへと見せた。
「君の好きなプラム。皮は、僕が剥いてあげるからね」
昔のフィリナを真似たレイズは、くすくす笑いながら皮を剥き始めた。
時期が終わりに差しかかっているせいか、プラムらしい張りがなく、レイズが指をかける度に柔らかな実は抉られていった。
「父さんもこれを、美味しいって言ったんだ。……酸っぱかっただろうに」
「レイズが持って来てくれたものだから、酸っぱくても、美味しいって言ったのよ」
ふっとレイズは柔らかく微笑んだ。
きっとフィリナが言わなくても、父親の気持ちをきちんとわかっていたのだろう。
鉄格子の間を潜り、皮のない黄金色のプラムの実が差し出された。
フィリナはそれを受け取らず、いつものように唇を寄せなければと顔を起こして齧りついた。
口腔内に残留している血と混じりあった果汁が、口の端から滴りこぼれ落ちる。
レイズの父親と同じ味を感じている。だから、言った。
「美味しいわ。……ありがとう」
二口目は食べれなかった。
また、ごぽりと真っ赤な鮮血を吐いてしまった。
唇から伝う血の一滴を、レイズが指の腹で拭った。
「レイズ……」
その名を呼ぶと、レイズは当然のように首を傾げた。
どうしたのと問いかけるように、フィリナをまっすく見つめている。
「本当の、名前は……何ていうの?」
フィリナの頬を、困った顔のレイズの手のひらがそっと撫でた。
「レイズが気に入ってるんだけど」
「レイズって呼ぶわ。でも、教えて……最後に」
フィリナは両手で地面を押して、上体をどうにか持ち上げた。片手で鉄格子を掴む。体が崩れてしまわないように、きつく。
それでようやく、顔が近づいた。
その琥珀色の瞳に、フィリナしか映らないようにした。
フィリナの一途な眼差しだけが、彼の視界の全てを奪うように。
根負けした彼は苦笑して、ごくかすかにつぶやきをもらした。
「……ルカ」
「ルカ?」
「そう。――――ルカ・ディアズ」
ルカ、ともう一度心の中でだけ大切に呼んでから、フィリナは「レイズ」と口にした。
やはりそちらの方が、お互いにしっくりくる。
満足したフィリナはこほりと小さく空咳をして、俯きながらすばやく口元を覆った。
レイズにこの、赤い塊を見せてしまわないように。
人を殺すための、この赤を――――。
それから彼をひたと見つめて、最後のお願いを告げた。
「もう一つだけ、思い出をください」
それだけでフィリナが何を求めているのかレイズには伝わったようだった。
フィリナが彼の頬に両手を添えると、レイズは悲しげにまぶたをゆっくりと伏せた。
レイズの唇へと触れる直前、フィリナはそれを噛み砕いた。口の中へと隠した塊を。赤い――――毒薬を。
血の生臭さが失われるほどの苦味が舌に乗り、唇を割り入ってきたレイズはわずかな驚きに目を見開いたが、すぐにフィリナの頭を優しい手つきで掻き抱き固定した。
フィリナの口内から毒を奪うように、レイズは幾度も舌を絡めた。角度を変えて、何度も、何度も。夢中で、飽きもせずに、奪い合う。
どちらも離れようとはしなかった。
自然に離れてしまう、その時まで。
初めに、フィリナが倒れた。
叩きつけられた衝撃もなく、ゆっくりと目だけで仰いだレイズの顔は、ぼやけて見えた。
まるで、涙を流している時のようだ。
もしかして、泣いているのだろうか。
「……君に、つけ入られるとは……思わなかった、な……」
ふらっと、レイズの体が緩やかに傾ぐ。
フィリナと並んで横たわるように、崩れ落ちた。
レイズの手はいつの間にか、フィリナの手を包んでいた。
鉄格子の向こうと、こちらで。
応えたいのに、指先はもう動くことはなかった。
感覚が一つずつ消えていく。なのに、体中が熱で焼かれているように熱い。
息を吸えずに、フィリナはごほごほとむせた。
その合間に、何度も繰り返し呼んだ。レイズ、と。
「リナ……」
――――殺してあげられなくて、ごめん。
それが意識を閉ざす前にフィリナに聞こえた、彼の最後の言葉だった。
◆◇◆◇◆◇
チリルは契約書をなくさないよう大切に胸へと抱き、ロトと一緒に城外へと飛び出した。
早くレガートにこれを渡さなくてはと気持ちがはやる。
だが外は普段の倍以上の兵士たちが、慌ただしい様子で駆け回っていた。
チリルは王宮に仕える使用人のふりをして、しずしずと俯きがちに歩いていた。
警戒していたチリルだったが、彼らはすれ違う人のことなど眼中になく、険しい顔つきで、皆地下牢のある方角へと向かっていく。
「何かあったのか……?」
チリルはロトのつぶやきに、心臓が嫌な具合に跳ねるのを感じた。
地下牢にいるのはフィリナだけだ。
もしかして、彼女に何かあったのだろうか。
チリルは不安を押しつぶすように、契約書をきつく抱き締めた。
兵の後を追いかけるロトに、チリルは無意識のままについていった。
きっとフィリナは逃げ出したのだ。レイズと二人で、どこかに隠れているのだ。
だから兵士たちがこれほど焦っているのだ。
チリルはそう何度も、自分自身へと言い聞かせた。――――なのに。
チリルが地下牢の入り口へと辿り着くと、一人の兵士が階段を上がってきたところだった。
その腕には、ぐったりとした誰かを抱えている。
だらりと垂れ下がる頭から伸びた、くすんだ髪を目にしたチリルは、ひっと短く悲鳴をあげた。
どれほど土がこびりついていようとも、見間違えるはずがない。それは確かに、フィリナの金髪だった。
「リ、リナさま……?」
まるで人形のようなフィリナが、チリルの前を無言で通り過ぎていった。
フィリナを運んできた兵士ばかり目で追っていたチリルは、その先で誰かが横たえられていることに、気づいていなかった。
「…………レイズ?」
茫然とした声をもらしたのはロトだった。
立ち竦むロトの視線の先には、地面へと敷かれた布の上に横たえられたレイズがいた。
傍らには医師がいて、深刻な顔つきで彼を見下ろしている。
そのレイズの横へと、フィリナは下ろされた。
その拍子に彼女の手が滑り落ちて、レイズの手のひらへと重なった。
フィリナが望み、手を繋ぎにいったように見えた。
本当は意識があって、皆の目を欺いているのではというチリルの願望は、首を振って病院へと運ぶよう指示を出した医師によって打ち砕かれた。
「レイズ……何で……」
チリルはロトを置いてフィリナへと駆け寄ろうとした。だが、寸前で踏鞴を踏んだ。
向こう側から、リナ、リナと叫び、駆けつけてきたレガートの顔があまりにも悲愴で、チリルはその場から一歩も動けなくなってしまった。
かける言葉も慰める余裕も、今のチリルにはない。
フィリナの体にすがりつくその痛ましい姿が、網膜に焼きついて離れなかった。
急ぎ担架に乗せられたフィリナとレイズだが、不思議なことに、気づくとその手が固く結ばれていた。
兵がいくらほどこうとしても、離れはしなかった。
チリルは唐突に、何が起きたのかがわかった気がした。
心中という言葉が頭の内側でがんがんと反響し、めまいがする。
ふらりとよろめいたところを、ロトの腕で支えられた。
彼に体に引き寄せられ、腕に抱え込んだ紙が虚しく乾いた音を立てた。
これが彼らの望んだ結末なのか。
チリルには、彼らの心が一つもわからなかった。
次から次へと溢れだした涙で、フィリナの姿が薄れていき、完全に視界から消えてしまってから堰を切ったように大声で泣いた。
フィリナもレイズも助かって欲しいと思うことが彼らの意に反していても、それでももう一度会いたいと思った。
チリルはロトの腕の中で、何度もそう、神さまに願った。
◆◇◆◇◆◇
チリルが見つけた契約書は国に波紋をもたらした。
正式な鑑定の結果、本物であると認められ、レガートはその場でそれを破り捨てた。
紙吹雪となった密約書を前に、国王が泡を吹いて倒れたなどと、嘘か誠かわからぬような号外が王都の街中に撒き散らされた。
これによってカメリア一族は呪縛を解かれ、事実上の廃業となった。
しかし死刑制度は廃止されることなく、結果として一族の保守派の数名によって、暫定的に生業を継続していくことになったが、それもそう、長くは続かないだろう。
これまでの不正と、今回のカメリア一族の反乱をもたらした責任を取り、グロッツは退陣を余儀なくされた。
彼の罪を白日の元へと晒すために最後の仕事を全うしたのは、エヴィルであった。
ルゥナの件を全て吐かせ、エヴィルは静かに引退をした。
ルゥナの仇を取って、彼はそこで一区切りとしたようだ。
クルスに罪を重ねさせるために彼を逃す手引きをしたのはグロッツだったが、指示したのは国王その人であった。
エヴィルは、この国のために働くことに嫌気が差しての引退とも言えなくはなかった。
そして国は混乱の最中、休戦の終了とともに戦が始まり、多くの人の命が失われていった。
死刑執行人たちの苦悩も、いつしか人々の記憶からも、薄れていった。
地下牢で愛する罪人と心中を果たした、白の死刑執行人のことも――――。




