三十七
暗闇に、ため息をつくようなかすかな音が落ちた。
それがフィリナの意識を掬い上げた。
階上の扉は開かれていない。ならば、もう一つの通路を使って来たのだろうか。
フィリナはまさかと思いながら、訪れた人物へと姿勢を正して問かけた。
「……兄さま、……ですか?」
明かりを灯そうとはしないが、エヴィルであると直感した。
理由は何であれ、来てくれたことはフィリナにとって驚きであり、素直に嬉しいことだった。
完全に見捨てられたのだと思っていた。
「……昔、ここに罪人の子供を入れた時のことを、覚えているか?」
レイズのことを言っているのだと気づき、フィリナはエヴィルがいるであろう方へと顔を上げた。
エヴィルがそんな昔のことを記憶しているとは思っておらず、フィリナは戸惑いを浮かべた。
今この話をするということは、レイズがあの少年であると確信しているのだろう。
それならば、誤魔化す必要はない。
「はい。覚えています…………殴られたことも」
「……」
エヴィルが沈黙したので、恨みがましくなってしまったのかと慌てて言葉を繋いだ。
「根に持っている訳ではありません。それに……、殴られても兄さまに構って貰えるのは……嬉しかった」
エヴィルのため息が、また聞こえてきた。土壁へともたれかかる、空気の動きも肌に感じた。
「あの男と、少し話をした。おまえが――――変わったかどうかを聞いた」
フィリナは目を見張り、鉄格子を掴んで身を乗り出した。
エヴィルがなぜそのことを知っているのだろうか。
そんな疑問よりも、ただ答えを待った。
レイズがエヴィルへ、何と言ったのかを。
「変わって、ないと言った」
「……え」
「それでもおまえを殺すだろう」
静かなエヴィルの声はどこか、哀れみのような響きを持っていた。
「おまえに執着する根本の部分は一族への恨みだ。……誤解するな」
愛されているなど、と。思い上がるな、と。
「……わかっています。私が一番……」
わかっている。レイズの愛が正しくないことくらい。それでも――――。
「私はあの人が、好き。一緒に……いきたい」
「…………好きにしろ」
その声を残して、エヴィルの気配が失われた。
出来損ないの妹に呆れ果てて帰ってしまったようだ。
気紛れであっても、声だけであっても、やはりフィリナは嬉しかった。殴られるよりも、ずっと。
ギィ、と階上で扉が鳴り、ほのかな朝露の匂いが吹き込んだ。
いくつかの足音の到来に、フィリナはそっと階上を仰ぐ。
静寂な闇に終わりを告げる、角灯の灯火が地下牢を喧然と照らし出す。
フィリナは一つだけ瞬きを落とし、感情を殺した。
沈黙の夜が、明けていく――――。
◆◇◆◇◆◇
レガートが筆を置くと、夜通しかけてまとめ終えた文書へと眩しい朝日が差した。
これまでのグロッツの不正を記したそれらを、執務机の上で、トントンと端を揃える。
後はルゥナの件を調べ、真相を明かし、それを公にするだけだ。
チリルが上手く兵の記録を持って帰って来たら、そこから当日地下牢の監視役だった兵を、問い質す。
引退したとはいえレガートも死刑執行人だ。相手の口を割らせる方法など腐るほどある。多少の脅しはいとわない。
チリルが捕まったという連絡もないので、今のところ首尾よくやっているようだ。しかし、心配の種が増えたとも言えなくはない。
レガートには考えつかない突飛な行動を取ったりするので、結局不安は尽きなかった。
書類の端を止めていると、扉を控えめに叩く音がした。合わせて女中の躊躇いを感じさせる声が届く。
「旦那さま、お客さまがおみえです」
「客?……わかった。すぐに行くと伝えてくれないか」
こんな早朝に一体誰がと訝しみつつも、客間まで向かおうと腰を上げかけたその時、女中の制止を求める声と共に扉が大きく開かれ、レガートは驚きに目を見張った。
ここにいるはずのない人物が、したり顔で侵入して来たのだ。
「なぜ……!?」
のしのしとレガートの前を横切り、ソファへとどかりと座ったのは、レカルドだった。
その大男を見間違えるはずがない。
レガートは驚愕しながらも、大男に怯えている女中を下がらせた。
「外から見るとおどろおどろしいが、中は案外普通だな」
「なぜここにいるんですか?あの罪人と逃げたのでは?」
嫌みな物言いになってしまったレガートだったが、レカルドは些細なことは気にしない性分なようで、気分を害した様子はなかった。
「色々気になってな。……ところで、ちびはいないのか?」
屋敷内をくまなく探した訳でもないのに、レカルドはチリルが不在なことをさらりと見抜いていた。
レガートは、当たり障りなく王宮にお遣いに行っていると伝えたのだが、
「ちびに諜報活動は無理だろ」
「……なぜそう思うんですか?」
「あらかた聞いたからな。フィリナの姉ちゃんの件だろ」
彼には何もかもお見通しのようだ。
レカルドはおもむろに立ち上がると窓辺へと歩いていき、窓を開けると下に向かって声をかけた。
「ちびは密偵ごっこ中だってよ!」
王宮のある方角を指差し示したレカルドは、ニタリと笑んだ顔のままソファへと戻ってきた。
それだけでレガートの目にも、ロトが慌てて王宮へと駆けていく光景が見えた気がした。
「チリルのこと、諦めていなかったんですか」
「相思相愛だからな。たまには父親らしいことをしないと」
そうではないかと思っていたが、やはり親子だったのかとレガートは納得をした。
「どちらにしてもあと三年は猶予がありますから、その間にチリルが心変わりをすることを願います」
レカルドは、「それもそうだな」と、あっけらかんと笑った。
だがチリルが娘になることを確信しているからこその余裕の表れなのかもしれなかった。
親しみやすいがゆえに、立場上馴れ合うべきではないと、レガートは一線を引いて対応しなくてはならない。
「あの男も、来てるんですか?」
真剣に問うと、レカルドは「まぁな」と言って窓の外へと視線を流した。
「彼のせいで、フィリナは牢に入れられているのに……」
「選んだのはフィリナだ。一族も、レイズのことも大事なんだろ」
「……優しい子ですから」
助けられる者は助ける。チリルをつれて来たときもそうだった。
ここ数年失っていたフィリナが、ほんの少しだけ帰って来たような気がしていたのも確かだ。
それでも――――。
「フィリナと彼のことを、認めることは出来ません」
「好きだから?」
レガートに面と向かってそれを尋ねたのは、彼が初めてだった。
茶化すのではなく、古くからの友人のようにさらりと尋ねられたので、レガートも心穏やかに答えた。
「そうですよ」
言ってしまうと、不思議と胸がすっと軽くなった。
ずっと見守ってきた延長線ではあるが、レガートはフィリナのことを愛しく思っている。
「リナが、彼のことを好きでもね……」
それぐらい、見ていればわかる。フィリナがレイズに向ける瞳が、他とはまるで違うことくらい、すぐに気がついた。好きだからこそ、すぐに。
「――――ルゥナのことを、お教え願えませんか?」
「いいぞ。おまえがこれまで秘密にしてきた胸の内を明かしたことに免じて。――――信用するかは自分で決めろよ」
「ええ。全面的に信用する訳ではありません。それが事実であるという証拠、証言も集めます」
レガートは、壁にかかった肖像画へと目を向けながら、レカルドへと自らの覚悟を伝えた。
「これ以上私の大切な家族を傷つけるようなら――――反旗を翻します」
カメリア一族の長として、やらなくてはならない。
ルゥナがまっすぐレガートを見つめていた。
真っ黒な瞳で、どこか寂しそうに。
レガートは、語り始めたレカルドの声に、じっと耳を傾けた。膝で拳を握り締めながら、ただじっと。
ルゥナの仇を打ち、フィリナを救うために――――。
◆◇◆◇◆◇
ドサッと紙束を箱へと戻すと埃が舞った。
チリルはごほごほと咳き込みながら、次の紙束へと目を通す。
窓の向こうが白み、夜が明けかけた頃にようやく地下牢における警備記録へと辿り着いたものの、これがとにかくくせものであった。
酷い悪筆もさることながら、日付を無視して不順に重ねられているという始末。
チリルはふつふつと沸き上がる怒りを動力にし、黙々と汚い日付を目で追い続けた。
しかし集中すればするほど眼精疲労が激しく、小休を挟んだチリルは、まぶたを閉じて目頭を揉んだ。
こんなことではいつ終わるかわからない。チリルは無理矢理目をこじ開け、次の紙束へと手を伸ばした。
その時、カチリとかすかに物音がした。
音の発生源を探している内に、扉が開かれ始めていることに気づいたチリルは、あたふたしながら壁と箱の隙間へと飛び込んだ。
そろりと誰かが入ってきた気配を感じとったチリルは、両手で鼻と口を押さえて息を止めた。
目をきゅっと瞑り、早く出て行ってと心で何度も念じる。
だが、闖入者は何かを探しているのか、出ていく様子がまるでない。
そしてとうとうその人影が、狭い隙間に挟まるチリルの上へと落とされた。
そして――――。
「うわっ!そんなところに嵌まって!?……小さいと、何か得だな」
そのしみじみとしたつぶやきに、チリルははっと顔を起こして口を金魚のようにぱくぱくとさせた。
「ロ、ロロロロトさん……?
「ロが多いな……」
呆れ顔で髪を掻いたロトは、当たり前のようにチリルの傍へと座った。
「で?何を探せばいいんだよ?」
「え……あ、牢の見張りの記録です。……ルゥナさまの、事件の当日の……」
日付を教えると、ロトは近くにあった紙束を手に取り、パラパラと捲り始めた。
「何でいるんですかっ」
「チリルが密偵ごっこ中っておっさんが言うからさぁ、手伝ってやろうかと思って」
「いやいやいや。何で中央国にいるんですかってことですよ」
「それは……レイズについて来たっていうか……」
ロトは言葉を濁したが、チリルは問い詰めるように身を乗り出した。
「レイズさんが来てるんですか!リナさまを助けに?」
期待を込めすぎていたせいか、ロトか気まずげに目を逸らしたことで、チリルは一気に消沈してしまった。
「リナさま、牢で一人ぼっちなのに……」
「……牢には行ったみたいだけどな。一目会ったら、それで終わりって言ってた」
パララ、とロトが紙を流し、その送られた風でチリルの前髪が揺れた。
「終わり、ですか……。好きなのに?」
堪えきれずに涙を溜めて、じっとロトを見上げると、彼の手からバサリと紙束が落ちた。
「だから上目遣いは反則だって!わざとか!?」
「え?」
「いいか。二度とやるなよ。子供の手に負えない問題が生じるからな」
両肩をがっちりと掴まれたチリルは、小首を傾げた。
ロトは何かを真剣に言い聞かせようとしているのだろうが、よくわからなかったチリルは、とりあえず場を収めるための処世術として、大人しくうなづいておくことにした。
「それと、俺はそういう嗜好じゃないからな」
「えーと、はい」
気迫に圧されて、チリルは戸惑いながら、もう一度こくりとうなづく。意味など理解していなくても、だ。
ロトはよし、とチリルの肩をぽんと叩くと、再び作業を再開した。
チリルも彼に倣い、紙束をくいっと曲げて親指で弾いた。次々に捲られていく日付一つ一つに、素早く目を通していく。
二人なので、それなりに時間は有したものの、あっという間に全てを見終えた。
最後の紙束を箱に入れ、チリルはきょとんとした声を上げた。
「あれ?……ない」
結果、その日の記録はどこにもなかったのだ。
「やっぱ消されてたか。初めから記録に残さなかったのかもしれないけど……」
肩を揉みつつ思案するロトの横で、チリルは愕然として項垂れていた。
「大人は、何て汚いんですか……」
これまでの苦労は全て水の泡だ。
収穫もなく帰って、レガートに何と報告すればよいのだろうか。
「でもこれで、裏があったという証明にはなっただろ?」
「そうですけど……」
目的のものがないと判明した以上、長居は無用だ。
不満顔のチリルは、資料庫から脱するために、壁に押し当てていた箱をずりずりと引き摺って例の穴を出現させた。
「何これ?……まさか、ぶち抜いた?」
「そのまさかですよ」
えっへんと胸を張るチリルに、ロトは必死に笑いを噛み殺して小刻みに肩を震わせている。
潜んでいる身として大笑いできないのはわかるが、そもそも笑い事ではない。これだってチリルからしてみれば苦肉の策だったのだ。
ロトのような鍵開け技術など持たない、ただの女中なのだから。
「そんなに笑わないでくださいよ。王宮のくせにやわな壁なのがいけないんです」
壁の脆さを伝えるために、チリルは手のひらでべしんっと叩いた。
すると空洞部分から、かさりと音がし、一枚の紙の端が顔を覗かせた。
もしかして探していた記録かと、チリルは慌てて引っ張り出したが、現在流通している紙とは異なる年季の入った紙で、記録書ではなく契約書のような様式であった。
古代文字ではあるが、破損もにじみもなく、署名などは風化を感じさせないほど綺麗に残されている。
チリルがまじまじと見つめていると、横からロトがひょいっとそれを奪い取った。
読めていないはずなのに、目を通していくロトの顔がみるみる険しくなっていく。
チリルは黙って彼を見上げていると、紙が日の光に透かされて、目慣れた紋様があることに気がついた。
「椿の、花が――」
「とんでもないもの、堀当てたな」
武者震いをしてから苦く笑ったロトが、ぴらっとその紙の表をチリルへと見せて、重々しく告げた。
「初代国王とカメリア一族の祖先との間に交わされた、呪いの――――契約書だ」
長年一族を苦しめ続けたその一枚の紙が、たった一人の、死刑執行人を慕うだけの力を持たない少女の手によって、今まさに日の目を見た瞬間であった――――。




