三十六
暗い奈落の底に足音が響き、フィリナはゆっくりと双眸を開けた。
ぼぅ、と蝋燭に火が灯り、眉間に皺の刻むグロッツが、金に戻ったフィリナの頭頂を冷え冷えとした目で見下ろした。
「どうだ?牢の居心地は」
フィリナは鉄格子に背を預けたまま、終始無反応を貫く。
「随分と入れ込んでいたみたいだな」
何も言わないことを決めていた。レイズとのことは、何も。
「……顔の良い男だったから、惚れたか?」
わざ感情を乱そうとしているのか、素でグロッツの性格が悪いのか、その判断はフィリナにはつかなかった。
「相変わらず必要最低限のことさえも話さないな。自分がどういう状況下に置かれているのか、わかっているんだろう」
「牢の中に、いる」
フィリナが見たままのことを口にしたので、グロッツの声に苛立ちが混じった。
「なぜ入っているか、理解しているのか?」
またフィリナは無言で、人の話しなど長く待てないグロッツは先へと進んだ。
「あの罪人、どうせ偽名だろうが、おまえには何と名乗っていた?――――フロトか?ジェインか?」
レイズはいくつ偽名を使い分けているのだろうか。
首を傾げるフィリナに、グロッツは「もういい」と吐き捨て質問を変えた。
「あの男の正体がわかるようなことを聞いたか?……フィリナ、言わないならいつまでも牢暮らしだ。快適とは言えんだろう」
当たり前過ぎて、フィリナは小さくため息を吐きながらそのまま俯いた。
億劫で、落ちてきた髪を払いもしなかった。
通いなれた場所であるから、冷静でいられるだけだ。こんな場所に閉じ込められていて、まともでいられるはずがない。
「あの男に捨てられたらしいじゃないか。どうだ、仕返しのつもりで何かしゃべらないか?」
「しゃべることなんて、ない」
「本当に何も知らないのか、それとも知ってて黙っているのか、どっちだ。罪人を庇い立てるようなら、犯人隠匿罪と偽証罪も追加するぞ。おまえもよく知っているだろう。口を割らないやつが、どうなるかを」
フィリナはひゅっと身を竦めた。
目を伏せたが、レイズが兵に暴行されていたことが脳裏を過ぎり、ふと顔を上げて言い返す。
「特別尋問は死刑執行人にのみ許された権限よ」
そんなフィリナの言葉を、グロッツは鼻で嘲笑った。
「レガートは一族に、おまえに対しての特別尋問は行わないよう命令を出した。全く、身内意識の高い連中だ。……だが、あの男の行方を知っいて黙ってるようならこっちにも考えがある。あいつは国の機密をいくつも握っているから生かしてはおけん。――――フィリナ。あいつに優しくされたか?愛でも囁かれたか?そんなのは全部情報収集のための甘言だ。仕事のために、平気で女と寝る男だぞ。そろそろ目を覚ませ」
そうだろうとは思っていても、レイズがフィリナに近づいたのは仕事のためだけではないはずなのだ。
フィリナだけが、彼の本当の姿を知っている。
例えグロッツが百の正しい言葉を並べたとしても、フィリナはレイズのつく、一つの嘘を信じるだろう。
彼はこれまで、フィリナにだけは嘘をつかなかった。彼の言葉は全て本物で、本心だった。
「何も、話すことはない。……ただ一つだけ、言いたいことがある」
「何だ」
「東に中央の密偵がいる」
「そんなことは当たり前だ。それがどうした」
「クラウサと名乗る密偵に助けられた。彼がいなければ、私は東でも仕事をさせられていた。その意味、わかる?」
フィリナは首を捻って、鉄格子の向こうにあるグロッツの苦虫を噛み潰したような顔を仰いだ。
「…………わかった。その件に関しては、報告しておく」
誰にとは言わなかった。だから、深く追及することはしなかった。
クラウサの評価が上がればそれでいい。
例えグロッツが意に沿わない相手に礼を告げ、その当てつけをされたのだとしても。
「東のやつらめ、ただでさえ減少しているカメリア一族を奪うどころか五人も駄目にしおってッ……!」
東の話を持ち出したせいか、フィリナたち一族とは異なる憎しみがグロッツから一気に吹き出した。
そして怒りの矛先は他でもない、フィリナへと向かう。
「一族を殺されて平気か!罪人について何か言え!」
「何も知らない」
「どこへ逃げた!」
「わからない」
「何日一緒にいたと思ってるんだ!何かあるだろう!」
「黙秘する」
地下牢内に凛と響いたフィリナの拒絶に、グロッツは虚を突かれて目を見開いた。
初恋の少年のことを、これまで一度だって口にしたことがない。
それは彼が大人になり、罪人となっていても変わらないことだ。
カメリア一族が黒血城へ、レイズたちは西へ。それ以上の最良の結果は、ありはしなかった。
これでフィリナを除いた全てが丸く収まるのだ。
せめて、牢から月が見えたらいいのにと、フィリナは茫と漂う暗がりを見上げた。
夜を照らす、一筋の月明かりがこちらへと伸びていればいい。
ふ、とフィリナの視界は暗転した。
グロッツの気配が遠ざかり、無音の世界が下りた。
そっとまぶたを閉ざしても、何一つ変わらない闇が、フィリナを包み込んだまま離そうとはしなかった。
◆◇◆◇◆◇
チリルは地下牢へと続く抜け穴の別れ道で、想いとは反対の道を進んでいった。
涼やかな風が吹き抜けてくるこの先は、予想が正しければ王宮へと繋がっている。
一方は地下牢へ、そしてもう一方は王宮へ。
この穴は元々、有事の際に王族が逃げるための通路として掘られたものなのではないかとチリルはみている。
そして地下牢からの脱走を図ろうと画策した者の手によって、繋がってしまったのではないか。
真実は不明だが、王宮に行かなくてはならないチリルは、この仮説が正しいことを願い緩やかな傾斜を上っていった。
道幅は少しずつ狭まり、行き止まりとなった道の終わりはチリルでさえ屈まなくてはならないほどだった。
頭がつきそうなほどのところにある天井には、正方形の木板が嵌め込まれていて、噛み合っていないのか風でかたかた揺れ動いていた。
その隙間から薄明かりがもれ出して、塵をきらきらと照らしている。
埃の積もったその木板を押し退けると、チリルはひょっこりと頭を覗かせた。
薄ぼんやりとした無数の蝋燭がまず目に映り、それから荘厳な祭壇へと視線を移した。
どうやら王宮内の礼拝堂に繋がっていたらしい。
誰もいないことを確認してから、チリルは床へと腕をかけて這い上がった。
ぐすぐすしている暇はない。
チリルは神を背して、礼拝堂を飛び出した。
このような時間に王宮を徘徊していたら、黒血城で働く子供とはいえ大目玉では済まされない。
そんな万が一のときのために、レガートから手渡された封書があった。
フィリナの釈放を訴えるための文書だ。
見つかり咎められたら、これを使い上手く誤魔化さなくてはならない。
フィリナを救うため、チリルは渋るレガートを説き伏せて、この重要な任務を与えて貰ったのだから。
「いいかい、チリル。彼らは何を言っても聞く耳を持たない。こうなったら、グロッツに一線を退いて貰おうと思う」
「そんなこと出来るんですか?」
「彼の不正を暴く。……いや、もう十分すぎるほど不正の証拠があるけど、それくらいではグロッツを退陣させられないんだ。……罪人の言うことだがら、どこまで信じていいかわからないが……、グロッツはルゥナの死に関わっているらしいんだ。それが事実か調べなくては……」
ソファに腰かけたレガートは難しい顔をしている。
「罪人って、レイズさんのことですか?」
「レイズ?……リナもそう呼んでいたな。彼はそう名乗っていたのかい?」
「はい。でも本名ではないと思います」
「そうだろうね……。本当に、彼がどういう人間なのか、最後まで読めなかった。チリルはどう思う?彼の言葉は信用できるかい?」
「……わかりません。でも、リナさまのことはとても気遣っていました。だけど、私はちょっと、苦手です。それでちょっと……恐かったです。リナさましか、見えていないようで」
レガートが複雑な表情でため息をついた。
「私にもそう見えた。しかしルゥナのことで嘘をつく利点は彼にはないはずだ。クルスが地下牢へと入れられたときの記録が欲しい。だけどそれを保管しているのは軍なんだ。ただ、過去の資料は王宮内にある資料庫に移される。三年前のものならそこにあるとは思う、けど……」
「けど、何ですか?」
「いい加減な管理をされていて、何でも彼んでも資料と名のつくものはそこに詰め込まれているんだ。軍の記録から議事録まで、王宮で出た書類も山積みにされている。探すのにかなりの時間を要するはずだ。だがその間、私が不在だと知れたらグロッツにこちらの企みを勘づかれる恐れがある」
「そこで私の出番ですね!精一杯ご協力させて頂きますっ!」
駆け出そうとしたチリルの肩を、背後から追いかけてきたレガートの手が、がしりと掴んで静止させた。
張り切った時のチリルは猪突猛進な性格になると承知していたので、元気な声を出した時点でレガートの腕は伸びていた。
くるりと方向転換させられたチリルは、真剣な眼差しのレガートに、ぴしりと背筋を正して応える。
「チリル。絶対に見つかってはだめだ。一応念のためグロッツ宛の封書を持たせておくから、いざという時に使いなさい。お遣いの途中に迷子になったと言えば、半分くらいは信じて貰える可能性がある」
「半分、ですか?」
「疑り深い人間ばかりなんだ。――――もし、万が一牢へと入れられたら、」
「リナさまがいるから平気ですっ!」
堂々と宣言すると、レガートは困ったように苦笑した。
「すぐに身元引き受け人として私を呼びなさい」
はい、とチリルは大きくうなづいた。
不安げなレガートをよそに、細かな指示を頭に叩き込み、今度こそ本当に駆け出して――――今に至る。
緑東城で一時働いていたお陰で城の構造をすぐに把握し、使用人用に設けられた扉を発見するとそこから城内へと侵入を果たした。
角灯の間隔が狭く、回廊は夜でも床や壁の白さがわかるほど明るい。
白は汚れが目立つので掃除が大変だと、チリルは使用人目線の感想を胸に、きょろきょろしながら忍び足で歩いた。
資料庫には鍵がかかっているというので、まずはそれを入手しなくてはならない。
グロッツなら持っているかもしれないとレガートが言っていたので、城内を警備する兵をやり過ごしながら彼の執務室を目指した。
時間はかかったが着実に距離を詰めていき、もう到着間際というところで、降って湧いた罵声を聞き、思わずその場で縮こまった。
一瞬見つかってしまったのだと思ったチリルだったが、怒鳴り声は扉の向こう側からしていることに気がついた。
チリルは扉に近づき、そっと片耳を押し当てた。
「……――ナは、まだ――――のか!ご――――吐か――ろ!」
「ですが――――!」
上手く聞き取れないが、激昂するグロッツを、誰かが諫めているような雰囲気だ。
フィリナが拐われたときに大慌てで報告に来たグロッツつきの事務官のウィムだろうか。
鍵を探すどころか、チリルはすでに怒り狂うグロッツに怯みかけている。
扉の前で首を竦めていると、ふいに室内が静かになった。
チリルがおかしいなと思った瞬間、扉が内側へと開かれ、草臥れた様子のウィムと目が合い、お互い凍りついたように停止した。
冷や汗が吹き出し硬直しているチリルを見下ろしていたウィムは、室内にいるグロッツから遮るように素早く扉を閉めた。
「……何をしているのですか」
警戒した声音に、チリルはかたかたと震える手で、ポケットを必死で探り、封書を取り出すとウィムへと差し出した。
「だ、旦那さまからです!……こ、黒血城からのお遣いです!」
ウィムは訝りつつ封書を受け取ると裏返し、封蝋の紋章へと目を落とした。
真っ赤な椿の花を紋章としているのは、カメリア一族のみだ。
呪われた死刑執行人一族の紋章。それはこの世界に二つとないものだ。
ウィムは一目で本物であると判断したようで、納得の表情をした。
「それで、この部屋の前に?」
ウィムの雰囲気が和らぎ、子供を相手にする話し方へと変わったので、チリルは全力でか弱い子供を熱演した。
「お城が広くて、迷子になって……。着いたら怒鳴り声がして、恐くて……」
顔を俯けてふるふると震えると、ウィムの手のひらがチリルの頭を優しく撫でた。
どうやら彼は子供に甘い性格のようだ。
「迷子になったら、近くにいる誰かに聞くのが一番ですよ」
「……はい」
「話の内容は、聞いていましたか?」
首を振ると、ウィムは困ったような安堵したような顔をした。
そして小さく息を吐くと、チリルの頭を優しくぽんぽんと叩いて言った。
「これは私から渡しておくのでもう帰りなさい。……誰かに送らせましょうか?」
夜道を子供一人で帰していいのかというウィムの配慮を、チリルはしどろもどろになりながら断った。
「だ、大丈夫です!ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げて、心配そうなウィムを背に走り去った。
グロッツについている人なのに、いい人だった。
しかしもう後がない。次見咎められれば最悪牢に入れられて、フィリナのために奔走することができなくなってしまう。
資料庫の鍵がどこかで、焦るチリルをケタケタと嘲笑っている。
こうなれば別の人間の部屋に忍び込もうと意気込んだチリルだったが、どの部屋も鍵がかけられていて、たまにずぼらな人間が鍵をかけ忘れ難なく侵入できる部屋もあったが、そこには重要なものなど何一つ置かれてはいなかった。
チリルはあちこちを駆け巡り、とうとう辿り着いたのは目的の資料庫と扉の前で、がっくりと項垂れた。
資料庫は重たげな南京錠がぶら下がり、何人たりとも通しはしないという空気を醸し出していた。
「こっちの部屋だったらよかったのに……」
資料庫の隣は空き部屋で、壊れた大型の本棚や古ぼけた木箱がいくつか無造作に置かれているだけなので鍵がかかっていなかったのだ。
行き詰まったチリルは扉をぱたぱた開けたり閉めたりしていると、視界の縁に揺らめく明かりが掠めて、慌てて空き部屋へと飛び入った。
箱の中に身を隠して、警備の兵が黙って過ぎていくのを、ただじっと息を殺して待つ。
どれくらいか経った頃、扉を開かれなかったことでチリルは安堵し、箱から這い出した。
しかしまだ兵がその辺りを彷徨いているかもしれない。
もうしばらくここで待機することにし、壁の向こうの資料庫にいかにして入るか考えながらそちらへと歩いていった。
「部屋を繋ぐ扉とか、窓とかがあればいいのに……」
隠し通路でもありはしないかと、チリルは駄目元で手の甲で壁をコンコンと叩いた。
石や煉瓦の固さはなく、内部に空洞があるような軽やかな音が返ってきた。
「……」
チリルは考えるより先に行動した。
踵で壁を力の限り蹴飛ばした。
土煙の立ち上がる壁に見事大穴をこさえたチリルは、予想外の展開について行けずに茫然とした。
壁とはこれほど簡単に穴が空くものなのだろうか。
脆く崩れ落ちてくる欠片から、この壁は土を固めただけのものだということが知れた。
屈んで見ると、空洞を挟んだ向こう側にも同じような薄い壁が覗けた。
チリルは控えめに何度か蹴って穴を広げ、反対側は初めと同じ力でぶち抜いた。
道筋はどうあれ、世の中結果が全てだ。
チリルは一番軽そうな箱を抜け穴の傍に寄せてから、壁の残骸を髪に絡ませ資料庫へと侵入した。
そして上半身だけ潜らせて戻り、空き部屋側からその箱で穴を塞ぎ、資料庫側からは紙束がぎっしりと詰まった箱の一つを押してきて証拠を隠滅した。
チリルは改めて資料庫を見渡す。
一晩では到底終わらない量の箱がところ狭しと積み上がっていたが、無謀や不可能という文字は、チリルの脳裏に浮かぶことはなかった。
「さて、と」
やる気に満ちた瞳でチリルは腕捲りをし、捜索を開始した。
「待っててください、リナさま……!」




