三十五
幸いにも負傷者を出すことなく消火が行われた緑東城の左塔は、壁が半分ほど黒く焼け焦げて醜悪な様相を呈していた。
それを見上げ、アーサーは斜め後ろにいるネイルへと命じた。
「――――殺せ」
主のその冷淡な物言いに、ネイルは唯々諾々と頭を下げる。
「遠からず戦が起こるはずだ。カメリアの死刑執行人たちはその時殺せばいいだろう。だから、――――ジュンを殺せ」
ここ数年のお気に入りは、一夜にして憎しみの対象となったようだ。
ジュンの意見を無視してカメリア一族を喜んで招いたのはアーサー本人だが、ネイルは口ごたえなどせずに従うだけ。身も心も、忠実な僕なのだから。
ネイルはすでに得ている情報を頭で反芻する。
ジュンはカメリアの死刑執行人たちに捕らえられ国境付近で逃走。以後、その行方を眩ましている。
あの男は人目を引く美しい容貌をしているくせに、上手く人に溶け込む性質を携えている。
一筋縄ではいかないだろう。刺客は何人必要か。
「わかりました。仰せのままに」
ネイルは思案しながら、ジュンの二の舞にだけはならぬよう、気を引き締めた。
◆◇◆◇◆◇
執務机にレガートが両手を叩きつけたので、グロッツは顔を上げて眼鏡を外した。
「フィリナを釈放してください」
「そうはいかん。いいか?あいつは罪人と通じて東に行った。これは紛れもない事実だ。このことだけで十分罪に問える。だが、フィリナとは知らない仲でもないからな、公正な取り調べを行う配慮をしているだろう」
「ふざけるな。何が公正な取り調べだ。まともな取り調べなどせず、どれだけの人間を監獄送りにしてきた」
「皆、自白した。文句はないだろう」
「自白させたのではないか!」
レガートは吐き捨て、机から手を離すと身を引いた。
グロッツの物に触れることすら悍ましいとでもいうように顔をしかめながら。
融通が利かず綺麗事ばかりを正論のように並べるレガートは、グロッツとしても扱いにくい駒だ。
だがフィリナという弱点を押さえている今、グロッツの方が断然有利に物事を進められる。
「自白を強要したりはしないから、そう騒ぎ立てるな。罪人について覚えていることを、正直に話さえすればいい。牢に入れこそしたが、食事や着替えの衣類やらで、他の罪人とは違い優遇しているではないか」
レガートは眉を顰め、嫌悪に満ちた顔でグロッツを見据えている。
他の罪人と同等の扱いをしないだけで、なぜ満足できないのか。
「こちらとしても白の死刑執行人を失うのは手痛い。仕事には今まで以上に邁進して貰わんとな」
「牢から処刑場へ行けというのか!」
「仕事をしないのなら、罪人と共謀し逆心を抱いた罪で今すぐにでも監獄送りにできるんだぞ。これまでの功績を鑑みて、この程度に済ましてやっているのがわからないのか」
レガートが何を言おうと、グロッツに引く気はない。
そう眼差しで告げると、彼は忌々しそうに言い捨てた。
「一族はフィリナに対しての特別尋問を拒否する。少しでもフィリナを傷つけたのなら、取り調べ中の違法行為として私自ら国王に直訴します」
これまで兵がいくら罪人を暴力行為で自白させようと、それら全てを死刑執行人による特別尋問として法的に問題のないよう改竄してきた。
それをカメリア一族の長が公したのならば、グロッツの首を飛ばすための起爆剤にはなる。
グロッツを疎む者もいれば、この椅子を狙う者も無数に存在する。
彼らが手を組みレガートに加勢したのならば、王は孤立無援のグロッツを庇護したりはしないだろう。
傀儡とはそういうことだ。強者の意見に耳を傾ける振りをして従い、弱き者を廃する。
わかったとしか言えず、立場が逆転したグロッツは、レガートを睨み上げた。
涼しい顔をしていると思いきや、こちらも相変わらずのしかめ面だ。
そのまま挨拶もなく退室していき、交代するようにウィムが入室してきた。
いつぞやは大慌てした彼だが、今は冷静に事を見極めている。
「よろしいのでしょうか。死刑執行人を牢へと入れるなんて、前代未聞ですよ」
「極秘裏に進めているから問題はない。それでフィリナはどうしている。おまえになら少しぐらい、何かしゃべったんじゃないか?」
「いえ、すっかり眠っていて、声をかけても起きませんでした」
「……生きてただろうな?」
真剣に問うと、ウィムは一瞬目を丸くしてから首肯した。
それならばいい。フィリナには華々しく引退するまでは生きていて貰わなくては困る。
例の罪人は国家機密をいくつも持ち出している。
寝返った西の密偵がそう口を割ったので、監獄送りから一転、死刑が確定した。
罪人が調べていたのが先の戦の捕虜の件だ。
それに合わせて捕虜を処刑したカメリア一族についても調査していたのだとすれば、そこからグロッツが身に抱える黒業へと辿り着いてはいないだろうか。
それをもし、フィリナに話していたのだとしたら――――。
グロッツは己の保身だけを胸に、フィリナを叩き起こすために立ち上がった。
窓の外で、血をこぼしたような紅い空が常闇の夜に飲み込まれていった。
◆◇◆◇◆◇
昔フィリナが見たという海は、暗い夜空を映して、常世へとレイズを誘い揺蕩っていた。
焚き火の爆ぜる音を背にしていると、頭と尻尾のついた魚の骨が飛んできて、すぐ傍へと虚しく落ちた。
振り向くと、レカルドとロトが全く似ていない顔で同じように魚を頬張っていた。
フィリナに見抜かれるのも無理はないかなと、レイズはくすりと笑う。
「食わねーの?」
ロトが木の枝に串刺しにした焼き魚を掲げたので、レイズは近寄りそれを受け取った。
砂浜に造られた焚き火を囲い、腰を下ろすと、レカルドが何匹目かの骨をその辺に放りながら言った。
「また戻って来るとは思わなかったぞ」
中央国へ、ということだろう。もしかしたら、フィリナの元へという意味かもしれずに、レイズは苦笑した。
レカルドたちの仲間へ、ということではないのが彼らしい。
だからこそ、こうしてつるんでいるのだが。
「ついて来なくてもよかったのに」
彼らは海路で西へと戻るはずだったのに、なぜかレイズとともに海をながめて魚を食べている。
「乗りかかった船だと思ってな。俺らにも情というものがある。これでもフィリナを心配してるんだ」
「何か裏がありそうだし」
ロトは目で早く話せと促していて、レイズは仕方なく肩を竦めて、自らが持つ情報を開示した。
西と東の密約から今回頓挫した計画の詳細、レガートに疑惑の種を植えつけた調査過程で偶然拾った三年前の真実他、各権力者たちの不正の数々、汚泥にまみれたこの国の政治……。
諜報員としては優秀ではあるが故に、レイズを葬りたいと願う者が多くいることも事実だ。
グロッツがレイズを死刑にしていなかったとしても、別の誰かが裏で手を引き死刑へと持ち込んでいたはずだ。
フィリナを捕らえた最大の理由は、二度と彼女を逃がさないためだろう。
東へと渡った事実でフィリナを縛りつけ、骨の髄までしゃぶり尽くすつもりだったのではないか。
だがレイズが逃げたことで、状況がわずかに変わってしまった。
レイズの行方を問いつめるために、彼女は取り調べを受けるはずだ。
何も知らないフィリナが素直にそう証言したところで、グロッツはきっと信用しないだろう。
身に後ろ暗い部分がある人間は、他人の言動を素直に信じず、裏があるのではと猜疑心を抱くものだ。
フィリナが頑なになればなるほど、グロッツは疑いの念を強める。
言葉でだめならと、別の方法で口を割らせようとするだろう。――――いつものように。
「……どうして教えてやらなかったんだよ?自分の姉さんが政治的な陰謀で死んだってわかってたら、中央に帰りはしなかったんじゃない?」
「言ったら、姉のことで頭がいっぱいになるだろう。せっかく僕といるのに、他人に介入して欲しくないからね」
「うわぁ……。さすがに引く」
レイズはそう呟いたロトに、にこりと実に美しい笑みを向けた。
訝しみ、眉を顰めているロトへと、レイズは穏やかな声音で言い返した、
「小児性愛者には言われたくないよ」
「違う!別に子供が好きとかじゃなく!……というか、この髭面のおっさんのせいだ!!」
憤然としたロトに睨みつけられたレカルドは、無精髭を撫でながらにやりとする。
「あの器量であの性格だぞ?早めに唾つけておかないとな。ちょうどあんな娘が欲しかったとこだ」
頭を抱えるロトを見て、レカルドは豪快に笑いだした。
何だかんだ文句をつけているが、彼女への好意は否定しないのが彼らしい。
確かに数年経てば、チリルは貴族に求婚されるほどの娘へと成長するだろう。
そのことに本人が全く気づいていない初々しさがまた魅力なのかもしれないが、フィリナにしか興味のないレイズにとってはまだ小さな子供という印象だ。
むしろフィリナが可愛がるので、少し妬ける。
「フィリナを見捨てたから、あの約束もなしかもな」
レカルドが残念そうに、手にしていた焼き色のよくついた魚へと歯を立てた。
「元々拘束力のないただの口約束だろ。それに俺ら、罪人だし」
むっつりとしたロトは、初めからこうなると思っていたとでもいうように、あぐらをかいた膝へと肘をついた。
「この国では、だろう。しかし本当に中央の連中は傲慢だな。……いや、東でもさほど変わらんか」
「国なんてどこも同じだよ。権力を持つものが強いんだ」
「俺は西でよかったぞ。今のところはな」
根本的にはどこも差がないが、威力を増しつつある東に比べたら、現在消極的な西の方が情勢が安定しているとも言えなくはない。
「それで?レイズの目的は何だよ。……フィリナ奪還?」
「……いや、」
レイズは言葉を濁して考え込むふりをした。
レイズではなく、一族を選んだフィリナを、殺しに行くとはさすがに言えない。
まず理解されないだろう。
フィリナは天使で、それでも死神だった。血は水よりも濃かった――――愛よりも。
「一目会ったら、それで終わりにする」
微笑むと、胸が焼け焦げるように苦しくなった。
殺したくはなかったな、とレイズは思った。
手を取り合い、慈しみ、愛し合って、命尽きるその日まで寄り添い続ける普通の幸せを、放棄した。
どこで間違えたのだろうか。――――レイズには、わからない。




