三十二
中央国と東国の国境の街でフランは、中央国軍の兵隊長へと、血の気を引かせて絞り出す声でもう一度尋ねた。
「今、何て……?」
隊長は鋼鉄のような毅然とした態度で、フランを含めたカメリア一族へと言い放った。
「罪人及び死刑執行人フィリナ・カメリア帰国の後、速やかな身柄引き渡しを要求する!これは王命である!異論は受けつけぬとのこと!」
「フィリナはっ、人質なんですよ!一族が、そんな命を受けるいわれはありません!」
あの傀儡王が、カメリア一族に王命など下すはずがない。グロッツだ。王を言葉巧みに言いくるめて、王に命令を出させたに違いない。
抗議するフランに、隊長は一切動じず、一族を兵士たちに取り囲ませた。
圧倒的に人数が違いすぎる。その上罪人以外に刀を抜けないカメリア一族が、兵士たちに抗うすべなど何もありはしなかった。
一族たちが屈辱に震えていたそのとき、ふと東国の彼方から、烏が飛んでくるのが見えた。伝書烏だ。
烏はフランを目に止めると、嬉しそうにこちらへと向かってきた。
世話をする人間がわかるのだ。
だが一族を取り囲む異様な空気に、烏は戸惑いを見せて、降りて来るのを止めて旋回し始めた。
その時だ、
「――――やれ」
と、隊長が鋭い命を出し、兵士の一人が烏に狙いを定めて銃を構えた。
「な、何を――!」
反射的にフランの体はその兵士の脇腹へと突っ込み、発砲音が間近で響いた。
「……く、」
耳の痛みに、フランは声をもらした。
隊長の怒鳴り声も、突き飛ばした兵士の罵声も、音がぼんやりとして、まるで水中にいるようだった。
――――とさっ。
何かが落ちる、気配がした。
フランは、はっと顔を上げた。
砂ぼこりがふわりと舞うその中心に、黒い塊――――。
「何てことをッ!」
「たかが烏ではないか」
鼻で笑われたフランは憤りを抑えて、兵士たちを押し退け烏の元まで駆けた。
足に伝書を括りつけた烏は、フランを黒く丸い瞳で見上げると顔を起こし、くぅ、と小さく鳴いた。
「あ、……よ、かった……」
生きていたことに、フランは安堵し、そっと烏を腕へと抱えた。
低空飛行していたので、落ちた衝撃は少なかったようだが、羽に玉が掠めたのか傷がついている。フィリナが怪我をしていることも想定し、薬類を大量に持参してきて正解だった。
しかし治療は出来ても、これではしばらく飛べないだろう。
足から紙を外した時、兵士たちに周囲を固められ、レガートからの定期連絡を奪い取られた。
烏を撃ち落としたのは見せしめと、レガートたちの状況を知るためだったようだ。
保守派ながら温厚な性格のフランだが、グロッツにもこの兵士たちにも腹の底から怒りが膨れ上がった。
だがそれを行動として出してはいけない。理性を失えばそこを利用されてレガートたちをさらなる苦境に立たすことになってしまう。
だから、唇を噛み締めて堪えた。
フランが何を言おうと現状は変わらない。
レガートたちの安否も、こちらからの警告も、伝え合う手段を失った。
あちらには、母であるレイチェルもいるというのに――――。
焦燥感ばかりが募っていく。
そんなフランを、隊長は冷たく見下ろし告げた。
「フィリナ・カメリアには反逆罪の容疑がかけられている。戻り次第取り調べを行う。以上だ」
「そ、そんなはずない!」
馬鹿げていると、フランは隊長を睨み上げた。
この体格の差さえ、忌々しく感じる。
グロッツの傲慢で独善的な命令を、レガートに伝える術はもう残されていないのだ。
フィリナが国を裏切り、逆心を抱くなど妄言が過ぎる。誰が信じるものか。
フィリナは死刑執行人には向かない、純粋なだけの少女だ。
国を捨て、逃げることはあっても、歯向かおうという気概のある性格ではない。
グロッツはフィリナに罪を着せて、どうするつもりなのか。
フランには、壁の向こう側にいる家族の無事を願うことしか、残されてはいなかった。
◆◇◆◇◆◇
チリルにはレイズとのことは伏せ、今晩、月が夜空の真ん中へとかかった刻、共に逃げることをレガートへと伝えに行かせた。
その間にフィリナは、物置部屋でクラウサにもその旨を告げた。
「あなたには、私の目撃情報をどこか一ヶ所に集中するよう設定して、緑東城から中央国の国境までの道筋を空けて欲しいの」
「いいんだけどね、そんなに上手くいくかなぁ。城の警備って、結構堅牢なんだよ?」
城を出た後のことではなく、城を脱すまでが難関だとクラウサは言う。
「動かなければ殺される。遅いか早いかよ」
どちらにしても殺されるのならば、わずかでも可能性のある方にフィリナは賭ける。
「無謀って言葉、知ってる?……はいはい、文句は言いませんよーだ」
不貞腐れてそっぽを向くクラウサに、フィリナはありがとうと頭を下げた。
短い間だったが、彼の協力なくして今のフィリナはない。早々に捕らえられて、牢にいたはずだ。
「折角仲良くなったのに、何か寂しいかも。だけど、戻って来るなよ。牢に入れられたら、俺も手を出せないんだから」
「……ええ」
会えなくなることを寂しいと思ってくれるクラウサのような人のことを、きっと友達と呼ぶのだろう。
だがらこそフィリナは、レガートたちと共に行けないだろうことは言えなかった。
「じゃ、そろそろ行くわ。これでも忙しい身なんで」
彼はひらりと軽やかに立ち、手を振った。いつも通りの彼だ。
にっと太陽のように笑うクラウサが、少し眩しく見えた。
彼のことは決して口外しない。東国では、絶対に。
どれほどの拷問を受けようとも、この胸の奥にしまい続ける。
中央で、彼の功績を語れる、その日が訪れるまでは。
「あっ、そうだ。何か国境付近が騒がしいみたいだから、一応気をつけておいて。中央の兵が集まってるらしいよ」
逃げたレイズとフィリナを捜しに来た兵だろう。
フィリナはあまり気にすることなく、頭の片隅にその情報を置き去りにした。
「わかったわ。――――本当に、ありがとう」
いえいえと、照れながらクラウサは物置部屋を後にした。
最後の別れにしては本当に、呆気ないほどあっさりとしたものだった。
扉が閉まると、静けさが漂う埃っぽい室内で、フィリナはそっと目を閉じた。
光の入る余地のない、真っ暗な闇に一人揺蕩う。
レガートを裏切り、レイズと残るか、それとも――――。
リナ、と囁く優しい声は、一体誰のものなのか。
結末はもう、変えられないのだろう。
ならばその過程に、大切な人たちを逃がせられればそれでいい。
フィリナは終わりのない冥暗を、どこまでも彷徨い続けた。
♦︎♢♦︎♢♦︎♢
消灯した女中部屋で、チリルはそっと布団から抜け出した。忍び足でひたひた床板を歩き、扉の前で姿勢を正すと就寝した女中たちへと頭を下げてから、狭い回廊へと滑り出た。
短期間であろうと、お世話になった人たちへの挨拶を一礼で済ませるのは心苦しくもある。
しかし状況が状況なので、仕方ないのだと言い聞かせて、背を向けた。
フィリナはすでに回廊の壁際に立ち、チリルが来るのを待っている様子だった。
白いドレスに漆黒の編み上げ靴。胸には黄色い布製の靴を大事そうに抱えて、まつ毛を伏せていた。
黒い髪は、憂いを帯びた白い頬へとこぼれている。
早く元のまろやかな金色に戻って欲しいとチリルは思った。
黒髪だとエヴィルと似通うはずなのに、まるで他人のように遠く感じてしまうのだ。
今もチリルの目の前から、突然いなくなってしまいそうな胸騒ぎがする。初めから、そんな人はいなかったかのように、忽然と。
だからチリルは、慌ててフィリナの緑翠の瞳に映り込んだ。
彼女を現実から掠め取ろうとする、誰かから守るために。
チリルに気づいたフィリナは、虚だった眼差しに意思を灯した。
「遅れてすみません」
囁き声で謝ると、フィリナは首を振り歩き始めた。
チリルはその半歩後ろをついていく。
靴音を潜め、次第に小走りになった。
無駄な会話は控え、黙々と回廊を進んでいく。
裏口の扉から顔を覗かせたチリルは、周辺に人の気配がないかをつぶさに見回った。
警備の兵は、いないらしい。
チリルはこくりとうなづいてフィリナに合図を送った。
彼女は兵を警戒する様子もなく、淡々とした足取りで裏門へと歩いていく。
不思議に思っていると、固い声色で名前を呼ばれた。
「チリル」
「はい。どうしましたか?」
フィリナは歩調を緩め、静かな問いかけをした。
「兄さまは、……怒ってる?」
「えっ、いえ。リナさまのことをとても心配されています」
「……エヴィル兄さまは?」
誤魔化す余裕もなく、チリルは言葉に詰まった。
エヴィルは何を考えているか読めないが、怒っているかもしれない。
チリルが沈黙すると、フィリナはそれを答えにしたようだった。
「もしエヴィル兄さまが刀を抜いても、絶対に止めないで」
「え……?あ、エヴィルさまは、本気で刀を抜くわけではないということですか?」
「いいえ本気よ。殺されても仕方ないことを、私はしたんだから」
「でもそれはっ……!」
人質になっていたからだ。フィリナにはまるで非がないことなのに。
「いいのよ。むしろ、何もされない方が応える。そのときは、完全に兄妹の縁が絶たれたということだもの」
実の兄に縁を切られるよりも殺される方がよいと、フィリナは当たり前のように口にする。
兄弟がいないチリルには、その感情を理解することなどできないが、やはり普通の兄弟とは決定的に何かがずれているのだと改めて思い知った。
「殴られるくらいだと、いいけど……」
「でも旦那さまが、絶対に止めに入るはずです」
「…………そうね」
消え入りそうな声でフィリナはつぶやいた。
そこにどんな想いが含まれているのか、チリルには察することさえ叶わなかった。
だから言葉なく、裏門が見えてくるまで、確かな足音だけを聞いていた。
裏門には二つの影があった。
地面へと置かれた角灯がゆらゆら揺れて、彼らを照らし出している。
「よぉ、フィリナ。元気だったか?」
手を上げたのはレカルドだ。
彼らもついでだからと一緒に城を出て、国境まで行動を共にすると昼間に報告を受けていた。
だが中央には行かず、フィリナが帰るのを見届けた後、海路で西国へと渡るという手筈になっている。
チリルはてっきり、このまま彼らと西へ行くものだと思っていたのだが、レガートたちと行くように言われてしまった。
フィリナが心配なので、黒血城まではついて行きたいという思いがある反面、彼らとのお別れは少し寂しい。
だがチリルにはレカルドの息子の嫁になるという約束が残されているので、ほとぼりが冷めた頃迎えに来てくれるのではと思っている。
ロトをちらりと見上げると、またずきりと胸が軋んだ音を立てた。
フィリナはまっすぐ歩いていき、レカルドに向き合うと、わずかに眉を寄せた。
他人にはわからないそのささやかな表情の変化に、チリルは首を傾げた。
何か不快なことでもあったのだろうか。
「ええ、レカルド。これでやっと言えるわ。――――お願いだから、チリルをからかうようなことはやめて」
「えっ?」
声を上げたのはチリルだ。
フィリナの不機嫌の原因に、まさか自分が関わっているとは思っていなかったチリルは、目を瞬いて二人を見つめた。
「何のことだ?」
とぼけるレカルドを見据えても無駄だと判断したのか、フィリナは標的を変更した。なぜか、ロトにだ。
じっと凝視されたロトは、ため息をつきながら髪を掻いた。
そして気まずげな顔でフィリナへと尋ねる。
「もしかして、知ってた?」
フィリナは「知ってた」と、こくりとうなづいた。
何を知ってたのだろうか。
三人は一体、何について話しているのだろう。
チリルの困惑をよそに、レカルドが髭を撫でつけながらにやけている。
「意外と鋭いな。いつ気づいたんだ?」
「ロトは絶対にあなたの名前を呼ばなかったわ。わざとらしくおっさんと言って、一線を引いているように見えた」
言われてみればそうだが、ロトはチリルのこともちびっ子呼ばわりだったので、別段おかしいこととは思っていなかった。
だがフィリナにはそうは見えていなかったようだ。ロトに向き直ると、静かな口調で諭すように言った。
「あなたの口から、話すべきだわ」
言われたロトはしゃがみ込んで、ため息と共にがくりと項垂れた。
そして髪の隙間からレカルドを睨み上げて、言い訳がましくぼやいた。
「こいつが勝手に言い出したんだよ。俺は別に……」
そこでさっぱりとついて行けていないチリルは、堪らず話に割り入った。
「な、何なんですか?私、何をからかわれてたんですか?」
「からかってる訳じゃないぞ。息子に、と思ったのは本気だ」
堂々としたレカルドに、フィリナがむっとした口調で彼を責めた。
「その息子が誰かというところを、意図的に伏せたわ」
「えっ?あの、リナさまは知っているんですか?お父さんの息子さんのことを」
フィリナはロトを見下ろして、冷ややかに言い放った。
「白状しなさい。レカルドはあなたの、何?」
チリルがロトへとゆっくりと目を向けると、降参だと両手を上げた。
「認めなくないけど…………親父、だよ……」
ロトが心底嫌そうにレカルドを睨み、チリルは驚愕の事実を突きつけられて危うく腰を抜かすところだった。
「えぇっ!?そんな……え?だって、似てな……え?」
顔も体格も、性格だって正反対だ。唯一背が高いところは共通しているが、それだってレカルドのような大男とは比べ物にならない、普通の人間の大きさだ。
「ちびはまだまだ洞察力が足りないな。こいつは母親似だが、瞳の色だけは同じだろ?俺が育てなかったのがよかったのかもな」
絶句するチリルをよそに、レカルドは悪びれもせず、あっけらかんと笑っている。
「ああ、そうだよ。こんなおっさんに育てられてたら、今ごろ熊みたいになってただろうよ」
「え、じゃ、じゃあ……私は一体誰のお嫁さんに……?」
「他に隠し子はいないからな。もちろんロトだ」
チリルは顔に火がついたのではと思うほど真っ赤になり、ロトを穴が空くほど見つめた。
「……だから、おっさんの言うことなんて気にするなって言ったんだよ」
ロトはむっつりとしてそっぽを向いてしまった。
きっとこんな話、彼には迷惑だったのだ。
それを哀しいと感じてしまったこの胸の内を悟られないよう、チリルはいつもの調子で話しかけた。
「ごめんなさい。こんなちびっ子じゃ嫌ですよね。あの、はっきりと断ってくれて大丈夫です」
「普通、謝るのはそこのおっさんの方だから」
顎で差されたレカルドは、真剣な眼差しでチリルへと問いかけた。
「ちびはロトじゃ嫌か?」
フィリナとロトの視線が、チリルへと集中した。
あわあわとするチリルの様子に、ロトが少しずつ眉を寄せていくので、思わず叫んでしまった。
「嫌いじゃないですッ……!」
声量を抑えきれなかったことで、チリルは慌てて周囲に目を配った。
見つかった気配はなく、辺りは静けさを保っている。
ほっとすると同時に、他の三人も沈黙していることに気づき、何を宣言してしまったかを振り返って動揺した。
これはもう、慕っているとか好きだとか言ったも同然で、チリルはおそるおそるロトの顔を窺った。
彼は地面に目を落としたままゆっくりと立ち上がり、ちらっとチリルを見下ろしてから、ため息の後に一言だけ告げた。
「保留」
「ほ、保留……?」
「三年経って、いい女になってたら貰ってやる」
三年後にはチリルは成人する。そのときまで、返事は保留ということらしい。
「え、あ……ありがとうございます……?」
首を傾げて曖昧な感謝をするチリルを、レカルドがニタニタ笑いでながめていた。
反対にフィリナは、ぼんやりとしている。結局どうなったのかわからず、考えあぐねているようだ。
実際チリルも、問題を先送りにしただけな気がしてならなかった。
その時おもむろにレカルドがつぶやいた。
「……それにしても遅いな。何かあったんじゃないのか?」
城を仰いだレカルドの視線を、つられるようにチリルも追った。
暗闇に浮かぶ緑東城は、蒼然とした月の光を浴びて不気味さを増している。
レカルドが懸念を抱いた通り、ここへと辿り着いてからそれなりに時間が経過していた。
月ももうすぐ天辺だ。
四人の間を吹きつける夜風が、ひゅるりと不吉な音を鳴らす。
何も起きてなければいいがと、不安げなフィリナに寄り添い、チリルは城を見上げ続けた。




