二十九
レイズという名前の人間はいないと兵に突っぱねられた後、人相から性格まで出来る限りの情報をあれこれと伝え、日がとっぷりと暮れた頃、ようやくレイズが裏門に顔を出した。
「よぉ!元気だったか?」
まぁね、と答えたレイズだが、どこからどう見ても不機嫌を絵に描いたような難しい表情を浮かべていた。
気安いレカルドやロト相手だからこそ、鎧のような微笑みは脱ぎ捨てているのだろう。
だからレカルドも、明け透けなく口にする。
「何だ何だ?フィリナに振られたか?」
図星だったのか、レイズは誰に対してなのかわからない嘆息をもらした。
からかうレカルドか、それとも逃げたフィリナになのか。
牢から逃亡した直後よりも、精神的な疲労を感じさせるため息だった。
立ち話もあれかと三人を中へと招き入れて、迷路みたいな庭園をレイズはすいすい歩いていった。
置いていかれないようにと、チリルは大人たちの後ろを早足でついていく。
「恋敵でもやって来たんだろ」
「……」
レカルドに小突かれる寸前に、レイズはさっと避けた。
「それとも兄貴に嫌われたか?妹はやらんって」
「……」
レイズは執拗にまとわりつくレカルドを一瞥し、その背後に隠れていたチリルへと、わざわざ振り向き、花も見蕩れる美しい微笑を浮かべた。
「君は、彼らの方に行く?」
さらににこりとしたレイズに、チリルは震え上がった。
八つ当たりだ。絶対に。
地獄に行く、と聞こえた。
ぶんぶんと頭を振って、すがるものを探してロトの服の裾を無意識に握ってしまい、慌てて離した。
「……ほら」
ロトが仕方ないとばかりに手を差し伸べ、チリルは逡巡した。
躊躇いがちに見上げると、彼はむっとしたのですぐさまその手を取った。
チリルの手がすっぽり包まれてしまう、大きくて安心する心地の手だ。
チリルの大好きな、手だ。
溢れてしまいかけた涙を、何とか堪える。
泣いては駄目だ。
これ以上甘えては、引き返せなくなる。後が、辛くなる。
そんなチリルの気持ちを知ってか、握る手がきゅっと強くなった。
励まされているようで、チリルは勇気を出して、レイズへと話かけた。
「あ、あの!レイズさん!え……と、そのっ、リナさまと結婚するんですかっ!?」
レイズは不自然に足を止めると、ぽかんとした顔でぎこちなく言葉を繰り返した。
「結、婚……?」
何だそれはと、小首を傾げたレイズにつられて、チリルも同じ方向へと首を倒した。
意味が伝わらなかったのだろうか。
「え、あれ?だってリナさまにここで子供を産ませるって、お父さんが」
あれだけ拒絶していたお父さん呼びをしたチリルに、ふと眉を顰めたレイズだが、取り立てて尋ねることはなかった。
肩を竦めて、素直にレカルドの仮説を概ね認めた。
「レカルドには全部、お見通しだったわけか」
「そりゃあな。俺を誰だと思ってるんだ」
ふふん、とレカルドは固く厚い胸板を張る。
月に照らされ、野獣っぽい。
「それにしても、結婚か……。そんなこと考えてなかった。鎖で繋ぐより、契約書で繋ぎ止めれば逃げなかったかもね」
さらっと恐ろしいことを言った。
レイズには常識が欠けているらしい。
フィリナの身が本気で気がかりだ。
豪奢な城へと入り、その回廊を歩きながら、チリルは居心地の悪さでそわそわとしていた。
黒血城の屋敷とは贅の尽くし加減が比べ物にもならない。
光を跳ね返す床に、踏みつけることへの申し訳のなさが募る。
せめて使用人用の通路を歩かせて欲しいかった。
レイズたちの他愛ない現状報告めいた会話が途切れた時、ここぞとばかりにチリルは頼みごとをした。
「レイズさん。あの、お城にいる間は働かせて貰えませんか?敷居が高過ぎて、落ち着きません」
紛れもない本心なので、レイズもさほど疑ることもせず、すんなりと承諾した。
「ふぅん。いいけど、仕事開始は明日からになるよ」
「はいっ!がんばります!」
これで、無期限で城に滞在する理由を手に入れた。
万が一フィリナが捕まったとき、逃がす手助けができる。
「今日は客人が多いな。一応一部屋ずつ用意するよ」
そう言ったレイズの好意をありがたく受けて、チリルは明日からのために、ゆっくりと休んで精気を養うことに決めた。
部屋に入ったチリルは、早々に寝台へと倒れ込んだ。
黒血城を飛び出してから、あまりにも色々なことがあり過ぎた。
心も体も、もうくたくただ。
これまでの疲れがどっと襲い掛かり、チリルはそのまま泥のように眠りついた。
◇
次に目が覚めたとき、薄暗い部屋の窓に、月がぽっかりと顔を覗かせていた。
月光に照らされ、机の上に並べられた食事が目に入った。
よく眠るチリルを起こさないように、誰かが置いていってくれたのだろうか。
チリルは余計な疑いを持つことなく、パンの一欠片も残さず平らげた。
毒が入っているどころか、美味しすぎてほっぺが落ちかけたほどだ。
ごちそうさまをして、夜風に当たろうと露台へと向かった。
東国の、しかも王城にいることが夢現のようで、不思議な気分だ。
あの欠けた月が満ちたとき、今度はどこにいるのだろうか。
冷たい空気がふわりと運ばれ、チリルはくしゅんと、小さなくしゃみをした。
「……風邪ひくぞ」
かけられた声を辿ると、隣の部屋の露台へとロトが現れ、眠たげに欠伸を一つした。
「お月さまを見ていました」
そう言うと、ロトもちらっと月へと視線を投げた。
「月ねぇ……。――――あのさ、ちびっ子。おっさんの条件の話だけど、深く考えなくていいからな」
「え?」
「いや、ほら。親が勝手に結婚相手決める時代じゃないし。それにちびっ子、まだ十二歳じゃん」
髪をくしゃくしゃ掻きながら、チリルの逃げ道をあれこれ考えていてくれたようだ。
しかしチリルが反応したのは、そこではなかった。
「えっと、今日で十三歳になりました」
月夜に長い沈黙が下りた。
チリル自身すっかりと忘れ去っていたが、今日は誕生日だった。
「――――はぁ!?早く言えよ!何にも用意してねーし!というか、おめでとうっ!」
噛みつくように言われた祝福の言葉が胸にじんわりと沁みてきて、喜びで顔がほころぶ。
冷たかったはずの風も、優しいものへと態度を変えた。
「何か欲しいものあるか?動物はだめだからな」
「動物なんて飼えませんよ!」
今動物を貰っても困る。黒血城まで、どうやって連れ帰ればいいのかわからない。
「じゃあ人形とかか?服とか着せ替えるやつ……は子供向けか」
そうつぶやき、ロトは真剣に悩み始めた。
「あの別に、無理してくれなくても……。この前、服を頂きましたし」
遠慮するチリルに、彼はむっとした眼差しで睨んできた。
チリルが何か受け取らないと気が済まなさようだ。
「物じゃなくても、誕生日の歌とかでいいですよ」
しかし歌うのは抵抗があるのか、すぐに却下されてしまった。
一人で歌うのはチリルでも恥ずかしさを感じるので仕方ない。
「……あっ。一つだけ思い浮かびました」
欲しいものというよりかは、して欲しいことだ。
ロトはチリルの唇を見つめ、どんな物を告げるのかじっと待っているので、どきどきと鼓動が高鳴る。
「ちびっ子じゃなくて、名前で呼んでください」
意表を突かれたロトは、ぽかんとして首を傾げた。
「え?そんなんでいいの?」
「だって、ちょっとだけ大人になった感じがしませんか?自分の名前が贈り物だなんて、もう一度新しく生まれ変わったみたいで、素敵ですよ」
両親が生まれて最初にくれた贈り物を、今度は好きな人が贈ってくれるのだ。
今だけは、世界中の誰より幸せな女の子だと、精一杯誇らしげに胸を張る。
ロトは柵に頬杖を突いて、ぼそりと言った。
「大人びたこと言ってても、まだ小さい子供だけどな」
誕生日が来たからといって、ぐんと身長が伸びるはずがない。
「じゃあ。お誕生日おめでとう。――――チリル」
どきんっと胸が弾けて、呼吸が止まりそうになった。
それを隠して、勢いをつけて頭を下げる。
「ありがとうございますっ!」
笑顔を見せないと、ロトが心配する。
笑わないと。笑え、笑えとチリルは自分を叱咤した。
優しい月明かりの慰めが、無情にも露台に溜まる滴の一つ一つをチリルへと見せつけた。
これでは顔が上げられない。
涙で顔が、ぐちゃぐちゃだ。
「……?どうした?腹でも痛いのか、おい……?」
柵をひょいと飛び越え、ロトがチリルの肩に手を置いた。
屈んで顔を覗き、そしておろおろと狼狽え出した。
そんな彼へとチリルは抱きつき、胸へと顔を埋めた。
止めどなく溢れる涙を、彼の服が引き受けてくれる。
背中に腕を回して、ぎゅうとしがみつくと、ロトの手が頭をとんとんと宥める。
「今だけリナさま代わりしてやるから、泣くなよ。な?」
そこはロトでよかったのだが、本人がフィリナを演じるべく咳払いをしているので、その体で話しかけることにした。
「リナさまぁ……」
「えーと……。どうしたの?チリル?」
驚くぐらい棒読みだったが、気にしないことにした。
「変なんです。リナさまのためなら、どんなことでもしたい。なのに、胸が苦しいです……。お父さんが出来ることは嬉しいです、でも、でも……」
「あのおっさんの言うことなんて、いや、えーと。……あの人の言うことなんて、聞く必要ない……わ。本気ではなく、あなたの覚悟を知りたかっただけだと思う、思うわ」
「……覚悟?」
恐々顔を起こすと、ロトはチリルの髪を両手でわしゃわしゃと乱した。
絡まった髪をそのまま撫でつけられ、チリルは拗ねて睨む。
「はぁ……。今まで親らしいことしたことなかったくせに、そんなことで喜ぶと思ってんのかよあのオヤジ……って息子は思ってるな。絶対に。だから、心配すんなって」
にかっと晴れやかに笑んだロトに元気を貰い、大きくうなづいた。
ロトの言うことは信じられる。
彼はきっと、チリルを裏切らない。
チリルは泣き止んでいたが、寝つくまで一緒にいてくれるとロトは言った。
しかし結局、二人して寝台に横たわった瞬間から朝まで深く眠りこけてしまった。
起こしに来たレイズに、ひたすら弁解を続ける彼の姿はちょっとだけ情けなく、だがチリルにはとても頼もしく見えていたのだった。




